上海基督教経済会議を終えた賀川の竹内勝への葉書

 賀川豊彦は1920(大正9)年8月、「上海日本人基督教青年夏季自由大学講座」に招かれ内山完造や孫文とも出会った事は第18回目「賀川の初めての中国の旅から」で触れたが、その7年後、1927(昭和2)年8月には「上海基督教経済会議」(8月18日〜28日)に日本代表として再び上海を訪ねている。この時は、米国「カガワ後援会」がヘレン・タッピング女史をこの年5月に、賀川のもとに派遣しており、この会議には賀川に随行している。(人物大系27賀川豊彦?、年譜615頁)

 横山春一「賀川豊彦伝」(警醒社版)には「8月11日から北京でひらかれる筈の、汎太平洋万国キリスト教青年大会が、中国の内乱で中止となったが、あらためて上海から中国キリスト教経済会議への招待を受けた。」「上海のキリスト教経済会議は、8月18日からひらかれ、賀川は10日間に、20数回の講演をした。阿片撲滅の会、医者の会、YMCA,YWCAなどと種々の会合が連続して催された。随行のミス・タッピングが、賀川の英語講演をすっかり筆記した。」(270〜271頁)と記されている。
 8月28日までの会議を終え、29日には同じく上海のRoyal Asiatic Societyで「日本の労働運動」と題して講演を行い、賀川はすべてのスケジュールを済ませて、この絵葉書を、神戸の武内勝へ送っている。
 29日上海で投函され「葺合」郵便局の消印は「2 9 2」の午後になっている。あて先は「日本 神戸市東遊園地 労働紹介所 武内勝様」である。


上海は暑くて弱り
ました。支那の戦争
と言っても大砲も機
関銃もなしでやるので
すから今迄に三千人
も殺されていないでせう。
何してゐいのだかわかり
ませぬ。9月1日に帰り
ます。
      賀川豊彦
 上海

 賀川は、前年(1927年)から「百万人救霊運動」をはじめており、この年を越えて翌1928年6月、大阪・神戸を皮切りに「神の国運動」をスタートさせ、1932(昭和7)年末まで「第1期神の国運動」に没頭した。
 この間、1928(昭和3)年12月にほぼ一月間「大連」へ、1930(昭和5)年7月には、秘書タッピングと共に中国へ、さらに翌1931年1月にもタッピングと共に中国北部、上海、蘇州、南京など各地を旅行している。
 そして1934(昭和9)年3月上海を訪れ、3月10日に内山完造につれられて魯迅宅を訪れている。翌11日に「上海Fitch Memorial Churchで「愛の科学」中国語版の出版を感謝し、あわせて「日本軍の中国侵略を謝罪」すると共に「東洋の平和」と題して講演を行ったという。

 ついでに其の後の賀川の中国訪問を拾い出しておけば、1938(昭和13)年5月に「満州農業信用組合及び満鉄(南満州鉄道)」の招待で、ひと月間「満州」各地で講演おこない、さらに同年11月にも、印度マドラスでの世界宣教大会出席の帰途、上海に立ち寄っている。
 そして1940(昭和15)年5月には数日間、鎗田研一と共に「満州」伝道に、1942(昭和17)年8月にも「満州」伝道、戦前最後にもう一度、1944(昭和19)年10月「中国・中華日華基督教連盟」の招待で、宗教使節として派遣され、内山完造宅に滞在して上海市内の諸教会で講演を行っている。
 こうしてみると、賀川は戦前、中国へ10回以上足を運んでいることになる。しかし戦後いちども中国を訪ねる事はなかったようである。(2009年7月14日記す)
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 【追記】ところで有難いことに、賀川の「生活記録」は「賀川全集」24巻に「身辺雑記」(雑誌「雲の柱」より大正11年から昭和15年まで。「キリスト新聞」より昭和25年の「世界キリスト運動」と昭和28年の「ブラジル精神運動」、そして昭和25年の「欧米日記」)として、3頁から360頁まで収められ、年表並びに全巻の索引が付されており便利である。しかし、うかつな事にこれまで殆どこの「身辺雑記」に書き残している豊彦自身の「生活記録」を参照することなしに、作業をすすめていることに気付かされている
 その意味では、これまでのものはすべてにわたって、もっと面白く補筆を重ねることができるように思われる。なにしろ、今進めているこの作業は、間違いの多い試作品である。ご面倒をおかけして申し訳御座いませんが、何か補正等ご指摘いただける場合は、お手数ですが当方へ直接メール便ででも、よろしく御願い申し上げます。
torigai@ruby.plala.or.jp まで。

 そこで、この「上海の旅」に触れた「身辺雑記」から、以下に少し抜き出しておく。

 帰る日には女子青年会も御馳走して呉れた。面白かった。農民組合の報告や労働組合の報告をきいて愉快であった。胡適氏にも会った。大学総長連中にも会った。革命党にも会った。
 その中でも面白かったのは、古い友人である四川路の本屋の主内山完造兄の支那革命無駄話であった。ミセズ内山がニコニコ笑いながらお菓子を御馳走して呉れて、お茶を入れて呉れて、大いに歓待して呉れた上に、面白い話を聞かせて呉れるのだから、恐縮せざるを得ない。たうとう同家で結婚式まで一晩司式さされて、思いもうけぬ芽出度い1席を私は演じた。新婚夫妻丸林一家に祝福あれ。
 ミス・タッピングはよく働かれた。私の下手な英語の講演をスックリタイプライターにうってものにせられた。三度三度全部支那食で満足せられて喜んでいられた。(中略)世界がだんだん狭くなったから、日本のキリスト教もだんだん世界的になる。

 ついでに、この「身辺雑記」の同じところに、武内勝らの神戸の働きについて記されているので、そこも付記しておく。

 神戸で8年間続けてきた夏季貧民慰安会は、今年も明石で挙行した。それは10年間連続して教会に出席した感謝の意味で下駄直しをしていられる某氏(特に名を言わぬ)20円の金を持って来られて、貧しい子達を明石に連れて行って呉れといわれたものだから、忽ち寄付が集めて、貧乏な貧民窟同志達が80円を集めて、子供等を明石に連れて行ったのであった。貧しいもののレプタとは真に此の事を云うのである。
 私は最近ズート毎日曜の晩、神戸の貧民窟に行って説教している。武内勝氏が17年間相変わらず、私の代わりに、公務の余暇を利用して伝道していれ呉れることは、私にとって、どれだけ、幸福であるかしれぬ。貧民窟に帰ると恵まれる。

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 【追記の追記】2009年7月6日午後、「武内勝玉手箱」ふたつを大切に所蔵し、今回閲読紹介を可能にして頂いた勝氏のご子息:武内祐一氏に我が家にお越しいただき、貴重な写真類の説明受けた。続いてこれらの写真は、同時代を歩んでこられた方々で、神戸の緒方彰氏、村山盛嗣牧師、西宮の梅村貞造氏などに、撮影場所と時、お顔の特定などしていただく作業が残されているが、前記引用の賀川の記録にある「夏季貧民慰安会」の記念写真が2枚、アルバムの中に残されていたので、ここで紹介しておきたい。
 武内勝氏は、写真の中にペン書きで 一九二七・八・一四撮影  明石海岸にある大きな松の木の場所と明石公会堂の場所での記念写真である。(7月15日補記。鳥飼慶陽)