沖縄に大きな足跡を残した植木光教さん

 7月19日、東京の学士会館で故植木光教さん(6月6日死去。世界連邦運動協会会長)を偲ぶ追悼会があった。暑い昼下がりの日曜日だったが故人に縁のあった人たち100人以上が集まった。植木さんが晩年力を入れていた世界連邦運動協会が呼びかけた。小生はこの協会と兄弟団体の関係にある国際平和協会に属していることから植木さんの謦咳に接する機会を得たことがあった。もっと話を聞いておけば良かったといまさらながら思うが、もはやままならない。
 失礼ながら植木さんの生涯については参院議員であったことのほかはあまり知らなかった。当日、植木さんの沖縄に対する並々ならぬ思い入れを知った。「首里城再建は植木さんなくしてはありえなかった」「八重山の高校にずっと図書を贈り続けた」など口々に沖縄の話が出たのに少なからず驚いた。
 会場には地元京都から元自民党幹事長として辣腕をふるった野中広務や四方綾部市長の顔もみられた。世界連邦運動国会委員会の森山真弓衆院議員も参加した。昨年は相馬雪香さん、今年は植木光教さんと日本は相次いで平和運動の推進役を失った。
 沖縄県石垣市長の大浜長照氏が市民に伝える「市長のおはようロマンメッセージ」で2002年9月19日、故植木さんのことを話している。なかなかいい話なので転載させていただく。(伴 武澄)
 植木光教元沖縄開発庁長官について 二つの扁額「雲外蒼天」「明窓浄机」
 琉球新報八重山毎日新聞も植木さんの死去に際して追悼文を掲載している。
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-145741-storytopic-3.html
 http://www.y-mainichi.co.jp/news/13812/

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 職員や市民の皆さん、おはようございます。9月の市長室からのおはようロマンメッセージです。今日は植木光教先生のことについてご紹介したいと思います。
 きのう(9月18日)、八重山農林高等学校で植木先生をお迎えしまして記念石碑の除幕、講演会、夜は祝賀会等がありました。植木先生と言いますと、若い職員はあまり知らないと思いますが、私たちの年代ならば大抵の人が知っている先生です。沖縄開発庁という役所があるときに、第5 代目の沖縄開発庁長官として昭和49年の12月から昭和51年9月までの約2ヵ年近く沖縄開発庁長官並びに総理府総務長官を兼ねて様々な功績を残されました。
 植木先生は昭和2年に京都で生まれました。第三高等学校を経て東京大学法学部政治学科を卒業なさいました。そののちNHKに一度入社しましたが、36歳の時、昭和38年に参議院議員に当選しました。以来、連続5期当選、平成元年(昭和の最後の年)まで国会議員を務められた大変優れた業績を残された先生です。
 この植木先生が、どうして八重山とゆかりがあるかといいますと、こういうことがありました。昭和58年のことですが、八重山農林高等学校の生徒さんと、当時の宮国校長先生が植木先生の所へ、農林高校で育てられたブーゲンビレア一鉢を差し上げたことから始まりました。このときにブーゲンビレアといいますと、今日至るところでよく咲いていますが、当時はまだまだいろいろと導入期であったりして珍しい花でした。
 このブーゲンビレアに植木先生は大変感動しまして、早速この年の12月にはお礼を兼ねて八重農を訪問しまして、図書券を贈呈したわけです。あれ以来、植木先生は毎年のように訪れまして図書券を贈呈し、そして生徒の皆さん方に様々なお話をしたりしまして、ほんとに夢と希望を常に植え続けてこられた偉大な先生です。
 そして八重山農林高等学校に植木文庫ができましてちょうど20周年ということで、記念のセレモニーがあったわけです。植木先生は実は八重山農林高等学校に人材育成のための大きな功績を築かれておりますが、そのほか、八重山と関わりが深いものがあります。
 一つは竹富島石垣市から水道水を送水したことです。竹富島に水道が設置されたのは植木先生が開発庁長官のときです。さらに黒島では畜産が大変盛んです。それを可能にした西表島からの海底送水も植木先生の時に事業が着手されまして、そののちそれが実現したということでありまして、この二つを取り上げましても、私たちがこの島で生きていくために、あるいは生活したり物を生産するために果たされた功績は特筆すべきものと思います。あの首里城復元も「植木構想」として、先生のご尽力で実現したことはあまりに有名です。
 国会議員を引退されたのち、植木先生は様々な役職に就いておられますけれども、特に私たちと関係の深いのは運輸審議委員を平成元年から7年まで2期務められたことです。運輸審議委員というのは、メンバーが6人で運輸大臣と対等の立場で様々な議題を審議する権威のある審議会です。この運輸審議会で植木先生が真っ先に取り上げたことが、東京〜石垣間のJTAの直行便です。この直行便が開設されたのは、植木先生の力が大きく、運輸審議委員としてリーダーシップをとって実現にいたらしめたということです。このことは、ちょうど来年で直行便開設10 ヵ年ということで、私たちが忘れてはいけない重要なことだと思います。
 植木先生は私たちに大変な功績を残され、今日、74歳でお元気でかくしゃくとしておられます。日本教育協会の会長を務めたり、世界連邦の運動等を先頭にたって今日なお人材育成、世界の平和運動に貢献しておられることに、心から敬意を表したいと思います。世界連邦といいますのは、第一次大戦後にその思想が現れてきまして、日本のノーベル賞の湯川先生やアインシュタイン等含めて世界の著名な物理学者や平和運動家が唱えてきた優れた思想です。世界の平和が乱れている時に、この世界連邦の運動こそ世界の平和を導く考え方ではないかとつくづく思います。
 今日なお、教育界、平和運動の先頭に立っておられる植木先生は、八重山農林高等学校に二つの扁額を贈呈されました。一つは「雲外蒼天」で、黒い、あるいはぶ厚い雲の外、上には澄み切った青い空がある、という意味でして、どのような壁にあたっていても、目の前が暗くなっていても必ずその外、上には澄み切った青い空がある、つまり常に青雲の志、夢や希望を持ちなさいということを子ども達に教えています。
 もう一つ「明窓浄机」という言葉を贈られました。明るい窓、清潔に整頓された机、という意味ですが、子ども達にいつも明るい窓で机を整頓して、その上で勉強するようにと、そうするとさらに深くいろんなことが考えられるし、学べるということです。
 二つの扁額の書かれた和紙は、石垣島でとれた青雁皮(がんぴ)を漉いてつくられたものです。その和紙をつくったのは石垣島に住んでおられる青雁皮研究家の平山章先生です。平山先生は東大医学部をでまして東京女子大の教授をしておられましたが、退職後は和紙の研究に没頭しました。私も病院時代からつきあっていますので、よく知っております。平山先生と植木先生は、東大時代の同期生で今でも友情が続いているようです。
 植木先生が八重山農林高等学校の庭に、「愛に生きる」という文字を刻んだ記念碑が建立、除幕されました。ぜひ、皆さん方も農林高校に足を運んで見てほしいものです。大変不思議な格好をした石碑でして、あの記念碑をみていますと「愛」について深く考えさせられるような、何か不思議な感じがします。
 植木先生の生きる信条というものが、「愛に生きる」ということでして、何事に対しましても深く愛情を注がれ、そして情熱をもって生きていくことが、植木先生の信念、信条ということでご紹介がありました。植木先生は平成9年に勲一等旭日大綬章を受章されておりますけれども、今後とも大いに私たちとのお付き合いをお願いしたい、と思う次第です。植木先生の益々のご健勝を心から市民とともにお祈りしたいと思います。