『乳と密の流るる郷』が届いた!! (続)
2.不出世の人、賀川豊彦 野尻武敏
この小説は、農家向け雑誌「家の光」の昭和9年(1934年)1月号から翌年(1935年)12月号にわたって連載され、昭和10年に改造社から単行本として刊行された。その後絶版となっていたが、昭和43年(1968年)に再び家の光協会より出版された。その家の光協会版には後書きに数名の方が筆をとっているが、その一つにこう記されている。「当時『家の光』の発行部数は、昭和9年1月で53万部、そしてそれは月々増加して、(この小説の)完結した昭和10年12月号では117万部となっていた。大げさに言えば、この小説が一つの原動力となっていたとまでいわれたものである」。大げさではなく、2年間で読者を2倍余りに増やすとは尋常のことではない。読む者を魅了したのである。当時、大恐慌で疲弊した、一寒村を舞台に各種の協同組合運動を通して約束の地に近づく主人公の波乱に満ちた活動に、賀川は自らの熱い思いを託し、これが読む人に涙と共感を呼んだのであろう。
その頃、賀川は、内外に最もよく知られた著名人の一人であった。プロテスタントの牧師であり、超ベストセラーの自伝小説『死線を越えて』の作家であり、あの与謝野晶子とも交友のあった詩人であり、各種の社会改革を推し進めた社会運動家であった。それだけではない。その名は国内よりも、むしろ国外に広く知られた国際人でもあった。人類史上初めての両度の大戦の間の激動の時代に、平和への道を説く賀川の講演旅行はほとんど全世界に及び、その膨大な著作のいくつかはヨーロッパ諸語からヘブライ語、ヒンドゥー語や中国語にまで翻訳され、シュヴァイツアーやガンジーと並んで「二十世紀の三聖人」の一人に数えられ、ノーベル平和賞の候補にものぼった人であり、世界に最もよく知られた日本人の一人とも言われる。
あの辛口の評論で有名だった大宅壮一も、賀川をこう評している(「噫々(ああ)賀川豊彦先生」田中芳三編『神はわが牧者−−賀川豊彦の生涯とその事業』クリスチャン・ブラフ社、1960年)
「明治、対象、昭和の三代を通じて、日本民族にもっとも大きな影響を与えた人物ベストテンを選んだ場合、その中に必ずはいるのは賀川豊彦である。ベストスリーに入るかも知れない。西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹、などという名前を思いつくまま挙げてみても、この人たちの仕事はそう広くない。そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面は言うまでもなく、現代文化のあらゆる分野に、その影響が及んでいる。大衆の生活に即した政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると言っても、決して言いすぎではない。」「近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人挙げようということになれば、私はためらうことなく、賀川豊彦の名を挙げるであろう。かつての日本に出たことはなく、今後も再生産不可能と思われる人物−−それは賀川豊彦先生である。」