『乳と密の流るる郷』が届いた!! (続々)野尻武敏

 3.見直される賀川豊彦
 賀川は昭和35年(1960年)に71歳の生涯を東京で閉じるが、わが国ではそれほどの人が、今では関係のサークル以外ではその名を知る人さえ稀なほどに、長き間忘れられてきた。ところが、このところ変化の兆しが見られる。先頃は『産経新聞』(5月25日)が「賀川豊彦−−広がる再評価」に一面を割き、続いて『読売新聞』(6月5日)も「相愛互助−−不況下に関心」に特集を組んでいる。なぜだろうか。一つには、今年が賀川が神戸のスラムで救済活動を始めて100年になることから、東西で「賀川豊彦献身100年」の記念事業が始まった、そのせいでもあろう。だが、それだけではあるまい。直接には、なにか賀川の時代と似る、昨秋来の世界金融危機とも無関係ではないだろう。
 賀川が労働運動や農民運動や協同組合運動などを通して社会改造運動を展開したのは、先に触れたように、わけても両世界大戦の間の時期であった。金融恐慌(1927年)に続く世界大恐慌(1929年〜)を中に挟んで世界が大きく揺れ動き、この間に自由資本主義の挫折がはっきりしてくる一方、代案としてソ連共産主義やイタリアのファシズム、ドイツのナチズムが勃興してくる時代であった。
 そうしたなかで賀川は、一方、恐慌の襲来と格差の拡大を免れえない資本主義と、他方、人格たる人間の自由を圧殺する中央管理の双方を退け、「第三の道」を提案した。自由な助け合いの各種の協同組合の結成を進めて、社会の全体を再編し、民主政治の実質かも進め、同じ路線上で世界連邦も構築していく方向であった。賀川の、いわゆる「協同組合主義」の社会構想である。それを支えていた賀川の社会理論には「人格」と「友愛」(または「兄弟愛」)の価値理念が支配し、その構想の実b現には人々の覚醒と教育の決定的な重要性が説かれていた。
それにしても、今なぜ賀川豊彦なのか。ここでは、三つの点に注意しよう。
 第一に、人格的な関係の喪失や豊かな中の貧困を突いた賀川の資本主義批判は、今日の資本主義にも、そのまま通用する。
 第二に、第二次大戦を持ってファシズムとナチズムは消え、戦後の米ソ二極構想の末にソ連社会主義も敗退して、それらは長く続きえないと見て居た賀川の予言のt正しさを立証した。だが、それとともに資本主義的市場経済グローバル化し、米国の一極支配となったが、先の9・11テロと今回の金融危機を通して「市場原理主義」の米国の一極支配も大きく揺らいできた。香川の@第三の道」は、今日、現実味をむしろ加えているのではないだろうか。
 第三に、賀川は戦前すでに、資本主義的経済発展は早晩(資源や環境の)自然の限界に当たるべきもとを予想して、こう言っている。「われわれが自然資源を使い尽くしてくると、(資本主義のもとでは)悲惨と貧困の恐ろしい状態が起こる。そうなると、生活を護り経済状態を厚生に調整していくために、兄弟愛の運動がどうしても必要になる。」(Kagawa Toyohiko, Brotherhood Economics, 1936, p.135)73年前の言葉である。われわれは今日、それを思い知らされているのではないだろうか。