毎日に次いで読売、共同通信も賀川報道

 9月13日、毎日新聞朝刊に「賀川豊彦 1947、48年とノーベル文学賞候補だった」が特ダネとして報じられると、その日のうちに読売新聞と共同通信が後追いした。地元徳島新聞も共同通信の記事をウエブにアップした。Googleで検索すると14日朝までに、20近くのブログは早くも「賀川 ノーベル文学賞」に関するコメントを掲載している。Think Kagawaのアクセスは日曜日としては異例の1000を超えたし、献身100年のオフィシャルページもウイークデーでさえ、アクセスが100を超えることがなかったのに250を超えた。
 1年以上前、賀川豊彦のことをメディアが取り上げるようになった時、ウエブ上に賀川関連の情報がなかったら・・・、と思い二つのサイトを開設した。その思いがようやく達成されたようで、嬉しい。13日を境に賀川豊彦の認知度が急速に高まることを期待している。(伴 武澄)

 ノーベル文学賞候補に 賀川豊彦、戦後2回 【47NEWS】
  日本の社会運動家の草分けとして知られる賀川豊彦(1888〜1960年)が、戦後間もない47年と48年の2回、ノーベル文学賞の候補になっていたことが分かった。スウェーデンノーベル財団の公式サイトに13日までに掲載された。

 神戸生まれで徳島県で育った賀川は、労働組合や協同組合運動、貧困救済などに取り組む一方、大正時代には自伝的小説「死線を越えて」がベストセラーになった。54年からは3年連続でノーベル平和賞候補にもなっている。

 公開された候補者リストによると、賀川を日本の「作家」として文学賞候補に推薦したのはスウェーデン有識者で、当時の欧州で賀川の名前がよく知られていたことがうかがえる。

 日本人のノーベル文学賞受賞者としては、68年の川端康成、94年の大江健三郎さんがいる。

 ノーベル財団は、ノーベル賞候補者の名前を50年間は公開しない方針をとっている。(共同)

 賀川豊彦、ノーベル文学賞候補にも2回 【読売新聞】
  【ロンドン支局】平和運動の指導者として知られる賀川豊彦(1888〜1960)が、1947年と48年の2回、日本人として初めて、ノーベル文学賞の候補になっていたことが、スウェーデンノーベル財団がインターネットで公開した候補者リストから明らかになった。

 賀川が平和賞候補になっていたことは知られていたが、リストでは54年から56年まで3年連続で平和賞候補に挙がっていたことも確認された。

 神戸市生まれの賀川は、幼くして両親を失い、16歳で洗礼を受けた。結核に侵され余命が短いと思い、イエスに倣おうと決意。1909年に、21歳で神戸の貧民街に住み、病者保護や無料葬儀などの救貧活動を始め、協同組合運動や平和運動を指導した。

 自伝小説『死線を越えて』は戦前400万部のベストセラーとなり、スウェーデン語を含む十数か国語に翻訳された。講演したことがある北欧で特に、戦前から戦後にかけ高く評価され、シュバイツァーガンジーとともに「20世紀の3大聖人」ともたたえられた。

 ノーベル賞の選考過程や候補者名は非公開で、50年以上たって公開される。文学賞は50年まで、平和賞は56年分まで公開されている。