鳥飼牧師が第1回賀川賞(個人)を受賞

 神戸市長田区で「番町出会いの家」という日本で一番小さい教会を維持してきた鳥飼慶陽牧師。栄えある第1回賀川賞を受賞した。在家の牧師として、働きながら地域に貢献してきた。21年前に賀川豊彦の評伝「賀川豊彦と現代」を出版したときの共同通信の「時のひと」を掲載したい。

 社会運動家賀川豊彦の評伝を出版した牧師鳥飼慶陽
 【1988年07月08日共同通信配信の時の人】
 明治末期に救援・伝道活動のため、肺結核の身で神戸のスラム街に飛び込んだ社会運動家賀川豊彦の評伝「賀川豊彦と現代」を出版した。
 「賀川は労働運動を指導しただけじゃない。今の生協、農協などの基礎になる考え方も広めた。戦前に著書が世界十三カ国で翻訳されたスケールの大きな人だ。あまり知られていない生涯や思想を分かりやすく伝え、現代人が忘れている愛と寛容の精神を知ってもらいたい」。誠実な人柄そのままの、丁寧な文体で賀川をよみがえらせた。
 賀川豊彦生誕百年の今年は、賀川の自伝小説を映画化した「死線を越えて」(国広富之主演)の上映会が東京で始まり、七、八月を中心に、東京、神戸などで講演会、記念行事が続く。
 「記念事業は、とかく偉業だけが強調されがち。評伝は持ち上げるのではなく、さまざまな文献、資料を使って、当時の時代状況とともに賀川の生きざまを描きたかった」というだけあってなかなかの野心作。賀川の二十一歳のスラム入りから、川崎・三菱造船所での労働争議の指導。関東大震災の被害者救済のため東京へ移り住むまで、神戸で過ごした約十四年間を中心にエピソードを交えてたどっている。
 賀川の存在を知ったのは約三十年前の鳥取・倉吉東高時代。友人に誘われて通うようになった教会で賀川の伝記に触れ「将来は農村の小さな教会の牧師になろう」と決意。同志社大学神学部を経て日本キリスト教団牧師に。
 昭和四十三年に神戸のゴム工場街へ移住。”働く牧師”として五年間、工場で汗を流し、貧しさに苦しんでいる人とともに生きた経験も。それだけに話には説教臭さがなく、尽きない魅力の持ち主と評判。
 神学生同士で知り合った妻トモ子さん(48=当時)と娘の三人暮らし。四十八歳(当時)。鳥取県関金町出身。 (共同通信社 1988年07月08日)
 【写真】2009年12月22日、ポートピアホールで賀川賞を受け取る鳥飼慶陽さん
 【著作】『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985/11)
     『部落問題の解決と賀川豊彦』(創言社、1985/11)
     『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、1988/05)
     『「対話の時代」のはじまり宗教・人権・部落問題
     =ヒューマンブックレット28』(兵庫部落問題研究所、1997/02)
     『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』(創言社、2002/11)
     『賀川豊彦の贈りもの』(創言社、2007/05)