世界国家2 宇宙修繕の原理(1949年1月号)

 子供の時は創造を理解しうる。しかし保存の工夫も知らなければ、修繕の原理も理解出来ない。娘になっても人形の保存の工夫や。衣裳の保存に苦心する。しかし、母になってはじめて、子らのために靴下を修繕し。おむつを洗濯する苦心がわかる。
 人類の意識生活にもこの三階段が発見出来る。人類最初の宗教は、創造に関するものである。半ばにして之がモーセの如くブラマ教の如く律法の宗教となり霊魂保存の宗教が発達した。然し、モーセもブラマもキリストの如く、宇宙修繕の原理について意識することが出来なかった。
 キリストの宗教意識は徹顕徹尾宇宙の原理に立つものである。これは如何にして人類を救済し如何にして世界の最微者の一人をもあがなはんとする努力によって結集せる修繕の愛そのものである。キリストの意識生活がいつも二重底になって見えるのは全くこの為で
ある。即ち神の子かと思えば、人の子、十字架のみと思えば、復活、予定のみと思えば自由、原罪に重点があるかと考えれば、聖化に焦点がある。けだし、之等は皆宇宙修繕の原理を基準として考えられているからである。
 修繕は原型を知る者のみがなしうるのである。キリストの神は創造者にして再創造者でなければならぬのはこのためである。再創造は即ち聖愛に基く。こゝに二重底の神の愛が秘められている。
 人類を救わんとする神が絶対無限の愛を傾けると、有限者なる人間には量的にも質的にも余り過ぎる。そこに神の性質を帯びた人間の子が犠牲として倒れなければならない理由がある。
 キリストが神の性質を持った人の子だといわれるのはこの修繕の原理を説明する為である。
 救済者キリストが十字架にかかって死ななければならぬという悲劇を基調にする事もこの修繕の原理から来る。腐敗したものを浄化し、除去さる可きものを修繕するには、それにかわるべき代替物がいる。これは人体における血液の作用を見てもわかる。
 殊に社会生活に於ては、協同体の組織において如何に多くのぎせいが支払われ、如何に多くの生命が倒れなければ一人の人間を救い得ないかは、キリストの十字架において表象されるまでもなく、純粋なる社会協同体の修繕においては唯一無二の原則である。一粒の麦、地に落ちて死ななければ。決して多くの実を結び得ないということは社会進化の原則である。
 それが修繕の原則である以上キリストの形に結集したる愛の外に、人類救済の工夫は絶対にない。マルクスも。レーニンも人類の或者を破壊するけれども、救済することは出来ない。実にイェス・キリストに於て、人類協同体の修繕の原則と方策と動力は完全に意識され、且つ生活されたのであった。
 キリストは人類を救済せんがために「死」の必要をすら意識した。それは「生」のための「死」であった。復活のための「十字架」であった。聖化のための神よりの厳罰の受取りであった。性善者が性悪的傾向に途中からなっていたものを引返す努力のためにキリストは倒れたにちがいない。
 キリストの自意識の如く勇敢にして博大壮重にして歓喜に充ちたものはない。それは死を貫く勝利を意味し、神と人とを合一せしむる唯一の平和の途であった。
 キリストの如き形に於てのみ人類完成の大道は開けているのである。(一九四七年一月号)