世界国家4 キリストに似る者(1947年2月号)

              我等はみな面覆なくして、鏡に映
              るごとく主の栄光を見、栄光より
              栄光にすすみ、主たる御霊により
              て主と同じ像に化するなり。
                   (コリント後三・一八)

 パウロ聖霊の働きによって、我々も主と同じ像(かたち)に似るのだ、変化するのだとこゝに書いているが、パウロがこう云う気持になった動機について少し瞑想してみたい。
 コリント後書と云う書物はパウロの自叙伝であり、パウロの批評に対する叉コリント人への返事でもある。
 コリントの町はコリント湾に面した港であるが、こゝの人々はパウロに対して或疑惑を持ってゐた。第一、パウロは度々コリントへ行くと云い乍ら色々な故障で行けなかったので、彼等はパウロは嘘つきだと云い出した。第二に、パウロはキリストの弟子だと云ってゐるが、そうでなくて、むしろ、クリスチャンをいじめた反キリスト的な行動を取つた人であるから、パウロは自称キリストの弟子であり偽使徒であると云つた。それでパウロはコリント前書九章一節に「我は自主の者ならずや、使徒にあらずや、我らの主イエスを見しにあらずや……」とこう云う辯解をせねばならぬ立場にあったのであつた。第三に彼は寄附金を募集してゐるが。あれはパウロ自身の為に使つてゐるのだ、だから。パウロはごまかし屋だと云った。このような致命的な批評を受けた上に、尚もパウロは第四に女の問題、即ち不品行だと責められた。パウロは余り偉いのでパウロの欠点をひろうために、ずゐぶんひどい批評をしたらしい、女の問題と云ふのも、伝説によると小アジアの王セルキヤの娘、タチアナ姫が、パウロの弟子になりあちらこちら附いて廻ったことが新約典と云う書物に記されてある。新約の研究の権威ウヰリアム・ラムゼーはこれに対して、セルキア王の娘タチアナが附いて廻つた話は本当であろう。年齢も恐らく三十以上も違った若い姫であつたろうと云ってゐる。パウロはこれに就いても、コリント前書九章五節に「我らは他の使徒たち……の如く、妹姉たる妻を携うる権なきか」と云ってゐる。当時、イエスの弟子達は伝道旅行に妻も一緒につれて行つたらしい。バウロは妻君でもかまわないぢやないかとパウロは自分がやましくないので平気でいた。こう云つたようなずゐぶんな酷評を受けたのに対して辯明とも云うのがコリント後書であるが、この中にパウロは自分自身が段々、イエス・キリストの感化によって栄光より栄光にすゝみ。キリストと同じ像に変化して来ると云う自覚を持ち出した。それで彼はあらゆる酷評も、けつとばして前進した。パウロはコリント後書位、自分の事を大胆率直に書いてゐる書はないので、これを読むと我々も人に批評された場合でも必ず気が強くなる程である。然しパウロは決して自分が偉いのだとに云わなかった。あくまでも自力は弱い者だと云っている。然し「されど、我弱き時に最も強い」のだ。神の力によって強くされるのだと屡々書いている。
 このように中傷、誤解が。ふりかゝつて来て、伝道者に取って致命的なことであつたのに、彼は何等臆せずしてこの患難を突破している。
 今日の日本の混頓時代に於ては次から次へと、地盤が狂って来る。昨日の指導者は今日は戦犯者として追放される。丁度中世紀の如きことが、次から次へと展開されているが、パウロは苦労をかさねればかさねる程、段々みがかれて来、苦労して苦労して労し抜く時、キリストと同じ像に変って来ることに気がついた。パウロはコリント後書十一章二十三節以下に「わが労は更に多く。獄に入れられしこと更に多く、鞭うたれしこと更に夥だしく、死に瀕みしこと恐々なり……」とあらゆる患難に遇つたことを二十四節以下にも記しているが、パウロは苦労をしなければキリストに似る者とならない事に気がついた。苦労をしないとキリストは解らないのだ。そして全人類、全宇宙を救う為にはまだく苦労する人が出なければならないのだと考えた。パウロはコロサイ書二章二十四節に「われ今なんぢらの為に受くる苦難を喜び、またキリストの身体たる教会(この教会と云ふ訳はまづい。原語ではエクレシア、聖なる社会組織、選ばれたる者の群と云う意味である)のために、わが身をもてキリストの患難の欠けた事を補う」と彼自自身、刑務所に入つて、なんぢらの為に受くる苦難を喜び……と、コロサイ人をふくめた全クリスチャンの為に苦しむことを喜びとして、パウロはキリストの患難のまだたらぬ所を補う患難の補欠者として自寛に立つていた。これは大事な点であってこゝをよく味わねばならぬ。
 キリストは万世に至るまでの苦労人である。キリストは宇宙の絶対的修繕の原動力である。その原動力としてのキリスト、それを顕現する為にはキリストの歴史的十字架のみでは足らない。それは永久に十字架をもう一つ担うキリストの患難の補欠者が出なければならぬのだ。そしてパウロ自らそのキリストの患難の補欠者であるとの自覚に立っていたから「わが身をもってキリストの患難の欠けたるを補う」と大胆なる宣言をしているのである。
 我々もキリストに似るとはこの苦労に似ることなのであるから、喜んでウンと苦労しなければならないのだ。よく地方へ行くと、有能な人が田舎に引込んでいて戦争が続いて苦労をしたから少し楽がしたい。田舎で百姓がしたいもう苦労はいやだと苦労を回避している人が大勢いる。そんなことで、日本が再建出来るものではない。若い人々も戦争の時のみの特攻隊であってはならない。一瞬にして死ぬことに楽であるが一生苦労し抜くことは容易ではない。苦しんで苦しんで古い言葉で云う不死身とならなければならぬ。キリストの宗教は印度宗教の如く苦難を避けるのと違って苦難に向って十字架に向って突進して行くのが、キリストの宗教の本質である。キリストの生活に似ようとするならばこの不死身にならなければならない。これが他の宗教と違う点である。釈迦の教えは生病老死を避けたい。隠遁したいと云うにあるが、キリストはちがう。よし、苦労が引つかぶって来ても突き進んで行く。苦労を避けたい者は釈迦に行くがよい。栄光より栄光にすゝみ、主と同じ像に化するとパウロが云った意味は、いくら、患難、苦難が来ても動じない姿に変る。患難、苦難に克つものとなると云うことで。それは殆ど神の像に近いものである。神の子となった者はいくら罪悪が周囲にあっても、美女が取まいて誘惑しても良心がかきみだされない。罪に染まない。この体験が福音と云うのである。パウロはこの融通自在の生活を願つたのである。苦難を充分突破し得る秘訣。これを把握出来るなら、第一の難関を通つたのであるとパウロは度々云っている。
 この力を持った者は人生の波濤、有為転変は物の数でない。ピリピ書四章十一節以下に、「われ窮乏によりて之を言ふにあらず、我は如何なる状に居るとも、足ることを学びたればなり。我は卑賤にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも富むことにも、乏しき事にも。一切の秘訣を得たり、我を強くし給ふ者によって凡てのことをなし得るなり」と、パウロが段々キリストに似て来たとの確信を得。監獄に居り乍ら一切の秘訣を得たと書いている。日本の若い人々もこの融通自在の秘訣を握って欲しい。これを把握すれば失敗しようが、苦難にぶつかろうが、必ず起き上れる。
 私は団栗をみても感ずるが。団栗は簡単な形であるが、先が尖つていて、地に落ちてもちやんと尖つた方が下を向いて落ちるようになるから芽が出るのである。団栗でさえ、落ちても芽が出るように落ちることを心得えているのである。我々も倒れても上手に倒れて、起き上らねばならぬ。孔子の愛読した「易経」は不遇の者の読む書である。戦いに負けた場合にもあせるな。落ち目になったら落ちるがよい。大臣であった者が落ちた場合にも、一番下まで落ちて、村に帰つて三百戸位の村長で満足して居れ、そうして落着いていれば、叉芽が出る時が来る。鴨は陸に上ってはならぬ、水にいるのが一番安全なのだと戒しめている。激変の時代に、決してあせらずパウロは満足せよと云っている。彼は刑務所に入っていても満足して、喜びに溢れて信者に励ましの手紙をかいた。彼の書として残っているものは刑務所で書いたものが多い。
 パウロは最初のころは自分が奇蹟の行える人間とは思わなかつたであろうが、融通自在を把握してからの彼は、不思議な力が出て、ピリピの町では或占いの女の発狂を医し、ルステラではいざりを立たしめ、エベソでも大勢の人を医した。妙なことであるが、キリストについていると、不思議なことが次から次へと起るものである。
 先達、干菜へ伝道に行った時。大学生が奇蹟を問題にしていた。私は世の中は可能性の世界であって、必ず決定的な。全然融通の利かないものではないと答えた。同じ物理的なものでも少しスピードを出すと違っだ結果が生ずるのである。ハドソン川岸の列車が脱線した際、そのスピードの為に、何百トンの列車、川つぺりの薄水の上を走り抜けて川の貞中の厚氷の上に止つたため何等損害を受けずに済んだと云う。こんな奇蹟のようなことが、スピードの早さによつて生ずるのであるから可能性の世界が残されていることに気づく。例えば木を見ても。木材となって生命のないものは一年位地中におけば腐つてしまうが生命があれば五千年六千年生きると云う可能がある。人間の場合でも全然肉休的に動けないものでも、心理的道徳的、精神的宗教的に可能があるから立ち上る、これは奇蹟である。
 パウロは自分に不思議な力が与えられたことに気づいた。人の病いを医す力、これは外的なことであるが、それとともに内的にも愛の深くなって行くことに気がついた。ユダヤ人のみと云う小さい世界から、羅馬人にもギリシヤ人にも万国の人々の福音と云う神と同じような広い心になり。彼によつて初めてキリスト教が世界的になつた。同時に又、自分の良心生活が段々きよめられて神の世嗣にされる。そして、智慧に於ても段々進んで行き、更に信仰生活が深くなり、段々キリストに似て来たことに気づいた。
 ジョン・ウエスレーの一団にジョン・フレツチアと云うスヰツランド人がいた。英国に行つてウエスレーの弟子になったが、非常に愛の深い人であった。スヰツラソド人だったから恐らく英語も余り話せなかったであろう、彼は大事業もせずに農村伝道に廻って一生を送ったが、ウエスレーはこのフレツチアが大好きで彼の後継ぎにこのフレツチアを持って来ようとさえした位であった。ウエスレーはキリストに一番似た人は誰かと聞かれると、このフレツチアと答える程であった。私はフレツチアの伝記を読んで実にその親切な細かい愛に感激した。彼はいつでも絶対に玄関の灯を消さずに、近所の小作人が夜中にでもいつでも彼の許を訪れることの出来るようにしていたと云う。いっでも人を助ける為に専念していたと云うこの一事で彼の愛の深さがわかる。夜中でも早朝でもいつでも人を助ける準備をしている、こう云うことが、キリストに似ているのである。私は彼の伝記を読んでから、貧民窟にいた頃は自分の家の灯を消さなかつた。夜中に色々用が出来るものである。「病人だから来てくれ」「よし」といつでも出かける用意をしていた。人を助ける為に敏感になりたい。今、日本に必要なのはこの精神なのである。キリストを信ずるのみでなく、キリストに似る者となって欲しい。一人一人がキリストになつてこの日本を救わねばならぬ。
 天の御父、混乱の日本にあなたの御子キリストに似た若き魂が生れますよう、若き青年の女を聖別して日本を救わせ給え。キリストイエスによつて祈ります。アーメン。(一九四七年二月号)