世界国家5 経済民主とキリスト精神(1947年3・4月号)

        一
 一八七一年、普仏戦争後疲弊した独乙を救わんとして、一士官ライフアイゼンが、自分の住んでゐる町、ライン河の畔なるハーデス ブルゲに一つの協同組合を作つた。これが農業協同組合の始めであつて当時英国マンチェスターにあつたロツチデール消費組合とは後に述べるような異なるものである。

 そもそも協同組合のスローガンは三つある。(一)利益の払戻し、(二)持株の制限、(三)一人一票の投票権である。利益の払戻しが個人に対して行われると個人に利益が集中され。富める者は益々富を加え、貧乏人は益々貧しくなつて行く事になる。それ故払戻しは社会に対して行わるべきであり、しかも地主にではなく小作人に戻さるべきであるというのがライフアイゼンの協同主義の主張であつた。英国のロツチデル消費組合が払戻しを個人に対してしたに反し、ライフアイゼンは小作人に対してしたのである。こうした事は真にキリスト教人道主義に目覚めた人々の間でなくては出来ない事であつて、事実この事が昔メーノルが始めたメノナイトのキリスト教社会主義運動として立派に行われていたことがある。メノナイトは日本語では聖霊派と訳され、ロシヤ語ではヅボアトと呼ばれている。昔ロシヤでは、四百の町々が一つになつてこのヅポアトの運動が実行されていた。かの文豪トルストイの作品は、このヅボアトの思想の影響を非常に深く受けている。その後この精神的な共産主義が、バクニン、プルトン、クルポトキン等にゆがめられて、非精神的な、唯物的な共産主義が生じて来た。
 このヅボアトではどんな事が、何んな組織でなされたかというと、そこには二人の牧師が居て、一人は聖書を教え、他の一人はボチと呼ばれて財務を専門に掌どる。この派の人々は自分が得た一切の所得は、金にせよ、物にせよ、一物たりとも自分の懐にしないで、全部を教会に捧げてしまう。それをボチが掌り、信者一人一人の状態に応じて分配する。働きの多い若い、屈強な者は常に多く捧げて少なく分配されよう。病人のいるがために食うに困るような者達は、分配で大いに助けられよう。こうしてこの団体では完全な共産主義が行われている。一人の不平者もなく、自己のものを一切捧げて、新たに分配されるもので満足して生活を送つていた。この団体の共産主義の特長は与えようとする事にある。取ろうとする所には力を必要として、摩擦を生ずる。しかし与えようとする所には醜い争いは起らない。
 口で云えば簡単なこの与えようとする事が、行うに当つて如何に困難であるかは、皆によくわかると思う。この至難な与えようとする心、この与えようとする社会主義が、何んな精神から生じ得るであろうかは、ヅボアトが成功を収めた事によつて知られるであろう。それは唯キリスト教的な博愛精神による集団生活により、皆が互いに愛し合い。助け合う心に燃えていたことにあつた。
 そこで日本の現状を見る。今や民主主義が大きな声で叫ばれて、労働運動が活溌になつてきた。しかし日本は依然として酒と梅毒の国である。飲酒と、五万の娼婦、八万の芸妓。五万の密娼とが恐るべき梅毒の媒介をなしつゝある日本である。自分だけが美酒に陶然と酔い、自分だけが女を享楽すれば良いという日本の社会に、どんな博愛があるだろうか。信州に関東方面の重罪人を入れる大きな監獄がある。そこには五五〇人の重い犯罪人が収容されている。その八割が梅毒患者である。買娼が人間を奴隷あつかいにするものである事は言う迄もない。酒と梅毒の国日本に博愛精神のあり得よう筈はない。日本が真に正しい民主主義に生きるには、先づ、酒と梅毒から足を洗はねばならぬ。

 社会主義はこれを二つに大別する事が出来る。その一つは欧洲大陸に発達した共産主義社会主義であり。他の一つは英国を中心として発達した英国社会主義である。前者はマルクス唯物史観を根柢とし、文化というものはその時代の唯物的生産の形式によつて主として決定されると主張する。そして文化と道徳とは無関係なものだとする。これに反して英国の社会主義は、文化はその時代の精神的意識の形式によつて主として決定されるとする唯心的な史観に立つている。かく両者は唯物、唯心の両極に立つことによつて、互いに対照的関係をなしている。
 英国の社会主義にこの唯心的史観を持ち込んだのは、かのジョン・ラスキンであつた。今日の英国の労働党員では、議員候補に立つものは。ラスキン大学を出なければならないというやうになつている。ラスキンカレヂは、オツクスフオード大学の中にあつて、二年の課程で学生にラスキンの唯心的史観をたゝ込む。英国の労働運動はすべてこのラスキンの精神に立脚している。ラスキンは多数の本をあらはした。その中でも「ヴエニスの石」は彼の精神がもつとも良く盛られている。この本は私が訳して世界思想全集の中に入れてある。それはイタリヤの古都ヴエニスの建築を通して見た建築史であつて、文化は道徳的意識に左右されるものである事実を、建築によつて実証したものである。
 ヴェニスはイタリヤ半島の東岸の附け根の部分に位置し、その昔、ギリシヤ、エジプト、トルコ等と欧洲大陸とを結ぶ重要な港で、繁華な町であつた。其処には昔から今日までのあらゆる時代の建築が、様々の美しい大理石で建てられて、それぞれの時代の特長を誇示してゐる。これらの建築を大きく分類して、第一はローマ文化とギリシヤ文化との混血児のビザンチン建築、第二は十一世紀より十五世紀までのゴシツク建築、第三は文芸復興期前期、第四は文芸復興期後期と四つに分ける事が出来る。その中で美と堅固と荘厳とに最も秀れた。不朽の生命を持つているものはゴシツク建築である。
 一〇九九年から一三五〇年までの二五〇年に渡り、欧洲各国は何れも十字軍の遠征に全力を注いだ。しかも前後八回企てた大遠征も結局は失敗に帰して。出征した軍人の大多数は再び古郷を見る事が出来なかつた。フランスだけでも、二五〇万の出征者があつたが。殆んど大方が異境の土になつて終つた。悲嘆にくれた遺族らは、待てども帰らぬ霊を祭るために、教会堂を建てた。日本なら忠魂碑を立てる所である。これがゴシツク建築の始めであつた。
 この建築は、窓は木の葉に、天井は木の枝に型どつてつくられたもので。屋根には天までとどくかと思われる高い尖塔が聳えている。その代表的なものは、パリーのノートルダム寺院であり、独乙のケルン聖堂である。ラスキンは建築の七つの燈火として、敬虔、真理。服従、奉仕、勤労。愛、協同を挙げている。ゴシツクの聖堂は、忠魂の為めの建築であつた。之れを建てた人々の心には神に対する敬虔が溢れていた。又ゴシツク建築の美は、その建築の方式が貞理にかなつていることに基づいていた。独乙の力学者マツハは「最も力学的なものが最も美しい」といつたが全く然りである。
 ゴシツク建築の工人たちは、一度プランが立てられるや。黙々として分を守つた。そして骨を惜しまず働いた。石屋は土台を組み、金細工屋は窓飾りをつけた。この部分は甲の村が作り、次の部分は乙の村が引受けて建てる。甲乙各村は、それぞれ細部の意匠に自分だもの創作を試みる。それらが集つて全休のプランを合成したところに、えもいわれぬ美を構成している。こうして村と町と市とが、親、子、孫と事業を相継いで努力を続けた。
 聖堂の中には創業以来二五〇年をも経過して漸く出来上つたものも少なくない。これらの工事に従事した人々は互いに愛の精神に満ちて、村と村とは力を合わせ、親と子とは心を一つにして、而も一切を無料で奉仕した。こうした崇高な精神の推積が、欧洲の都市に聳ゆるゴシツクの大聖堂となつたのである。
 ラスキンの謂ゆる建築の七つの燈火にくまなく照らし出されて、これらのゴシツク建築は美に於て。規模に於て、又とない偉大な姿を後世に残すに到つた。かく文化は、唯物生産の形式に依つて決定せられるものではない。飽く迄も道徳的なものであり、その時代の精神的意識の形式に依るのである。ラスキンはこの事実を早く喝破しているのである。文化は精神的意識の発展である。英国の労働党は今まで一貫してこの精神に生きている。私はあらゆる人間を開放せんとする労働運動は、すべからくこのラスキンの唯心的経済観に立ち、真に神と愛とに基いた道徳的な運動であらねばならないと思う。
       三
 スヰスは人口たつた七百万、食糧に乏しく、石炭も鉄をも持つていない。まことに物資に恵まれない小国である。それが面白い事には、発明で生きているのである。一九三五年度には、動力に関する発明が九三〇件発表された。米国でさえ三三〇件であつた。実に米国の三倍である。この発明を売つてスヰスは無い鉄や食糧の如き必要品を購入している。
 国内の動力の大方は水力電気を用いて居り、これで農村の電化をはかつている。精密工業、機械工業、化学工業、繊維工業でパターやカゼインの生産工業と、あらゆる工業部門の動力に電力を用いている。そして各工業とも、すばらしい製品を世界の市場に送り出している。
 その代表的な工業の一つである時計について見ても、その歯車を顕微鏡で見ると歯の一枚一枚がまことに立派に出来ているのに対し、日本製のものは、歯車の肌がさながらノコギリの歯の様にギザギザだらけである。このギザギザの歯同志がかみ合つては回転がなめらかにゆくわけがない。日本の職工と
スヰスの職工との精神の差が、製品にこうした大きい差をつけてしまうのである。梅毒気のある日本の職工には、ギザギザの歯しか切る事が出来ない。
 日本の時計がスヰスのそれに対抗して行こうとするなら、日本の職工は先づ酒を止めねばならぬ。そして職工の精神的、道徳的生活が向上せねばならぬ。それなしにはとてもスヰスと競走は出来ないのである。
 私は羞かしいからあまり人に云わない事にしているが、私か三才の時私の実の母は亡くなつた。母は妾であつたが故に父の家に出入する事も許されず、一人の子供を奪われて、一人寂しく死んで行つた。継母は私の幼い時から私に、「お前は私の仇の子供だが自分の子供がないから引き取つて育てているのだ」と度々云つて聞かした。
 私はその度毎に本当の母が気の毒で、気の毒でたまらなかつた。そして金のない為にこの様な運命を踏まねばならなくなる社会を改造すると共に、貧故にこのむごい運命に落ちてゆく人々を救済する為に一生を献げようと決心した。そうする事が母への供養であると確信したからである。私が今まで貧民救済運動や社会運動に挺身して来たのはこうした理由からである。
 私は社会運動の根柢には、愛の精神がなくてはならぬと思つている。総ての社会運動は、道徳運動でなければならぬ。東京あたりで、社会運動をやつている連中が、昼は人民開放運動の会議に過しながら、夜になると東京では顔がさすので、千葉県あたりまで女を買いに行く。こんな連中のする社会運動の何処に自由があり、開放があろうか、私はかゝる人間こそ人の母の仇であると信じている。
 社会運動はどうしても個々の「我」が、真に正しい、清い愛に生きることに基づかねばならぬ。聖書に示されたキリストの贖罪愛、この愛があつてこそ始めて社会運動は真実のものとなる。私は声を大にして叫ぶ。社会運動は道徳連動であり、精神である。そしてこうした精神的基礎なくしては真の民主化経済連動の達成は望めない。(一九四七年三・四月号)