世界国家7 キリストと「涙」と私の問答(1947年9月号)

 「盲目の日本の盲目の指導者、私は監房に閉ぢ込められて、日本の落ちて行く将来が心配になる」
 私がそう云つて、独言を云つていると、目頭の涙が小さい声でささやいた。
 「実際、日本はだめですよ。すべてに行きつまつてゐる日本に希望なんて持てるもんですか。今に見ててごらんなさい。日本全体が、涙の洪水にひたる時がありますから」
 涙が恐ろしい予言をするので、私は身ぶるいした。私は二昼夜、東京渋谷憲兵隊の独房に端座したまゝ横にならずに黙祷をつづけていた。するとキリストが魂の内側から姿を現わして、私の肉体を占領し、肉体の内側から、皮ばかりになつている私と涙に呼びかけた。
 キリスト「私はあなたの霊の内側に住んでゐるキリストです。あなたは救いを外側に求めてはなりません。あなたが尋ねない先に私はあなたを尋ね、あなたが愛さないうちに、私はあなたを愛しています。私はあなたを誤解のうちに守り。ゴロツキの襲撃に対しても、常に保護し、悪漢のピストル、貧民窟のだらく、無智な軍閥から守つて来て上げたキリストです。あなたは外側の奇蹟を信じてはなりません。私は永遠のキリストです。病をいやし。罪人をなぐさめ。亡びた国を興し、叛ける放蕩息子を母の許にかえす愛の力そのものです」
 その澄み切つた声に、私は股の間に突込んでいた首をちゞめ、一九〇〇年前、十字架の上に死んだキリストが、永遠に人類の悩みを負う。強き霊力であることを発見した。御光は私のうちに住むキリストよりさし出で、抜けがらのようになつた私の皮を貫いて、憲兵隊の監房を照らした。それは私に取つては、生死を超越した絶対なる信仰である。神の救いの力を経験した有り難い瞬間であつた。

 内側に住んでいてくれるキリストは、真昼でも、真夜中でも、私の行くところは何処にでも随いて行つてくれる。それで私は如何なる困難にも、如何なる強迫にも大胆不敵なる行動を取ることに決定した。キリストが内側に住んでいるのだ。そう思う瞬間、歴史上のキリストは、現実のキリストである。晴れに、くもりに、時雨に、暴風雨に、私は少しも恐れる必要がない。一九四五年三月九日以後、東京は火の海と化した。その火の海の中にも、私は内側に住み給うキリストを信頼して、疎開することを肯んじなかつた。私は火の海の中に取り残された最後の悩める者の中に、十字架の愛をたてねばならぬと決心した。
 火の雨が天国から降つて来た。私の隣保館も皆燃えてしまつた。私の軒先きにも数十尺の火柱が立つた。私は火の雨をさけるために逃げ廻つた。然し私は太陽が出ると。また悩めるものを尋ねて、徒歩で数里の道を往復した。栄養失調はつづいた。体重は四分の一を失つた。然し私は内側に住み給うキリストを信頼して、少しも不安は持たなかつた。
 キリストと共に十字架に死ぬのだ。そしてキリストとともに墓から甦るのだ。そんなことを云いつゝ杖にすがりつゝもキリストと歩む道をふむことを決心して悩める者を探して歩いた。
 一九四五年八月十五日、日本は完全に敗退した、終戦後、私を暗殺するものがあると云うので、私は茨城川の森の中にかくれた瞬間にも、亦キリストは随いで来てくれた。キリストはいつも魂の内側から呼びかけていてくれる。キリストの眼は、私の眼の内側から見、キリストのロは私のロの内側から、そしてキリストの耳は私の耳の内側から聞いてくれる。キリストは内側に住んでいてくれる。そして私に限らず、愛に飢えている者に取つては、キリストは必ず、内側から魂の扉を開いて入つて来てくれる。たゞ魂の扉を開かぬものに取つては。いくら入りたくても、キリストは入つて来られない。
 暴風雨に、疾風に、滅亡に、インフレーシヨンに、人生の波濤がどんなに高くともキリストは私の魂の内側から必ず守つてくれる。そしてキリストはまた、凡ての日本人を祝せんがために、今日も涙を流して我等の為に祈つていてくれる。(一九四七年九月号)