上北沢(桜上水)とキリスト者 その1

桜上水」というブログにタッピングに関する興味深い記述があったので紹介したい。
 http://plaza.rakuten.co.jp/sj2006/diary/20100113/

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桜上水5丁目の通りのいくつかに名前がついた。
中に、タッピング坂というのがあり、それは、上北沢の松沢教会にあった賀川豊彦さんの支援者であったタッピング一家所在地に由来するという。

1895年、ヘンリー タッピングは、夫人のG.F.(Genevieve Faville)タッピングを伴い、アメリカ・バプテスト派教会の宣教師として来日、関東学院前身のひとつ東京学院の英語教師となった。
1907から1920年まで盛岡バプテスト教会に赴任、キリスト教の伝道に従事するかたわら盛岡中学で英語を教えた。そのとき聖書を教えた中に、宮沢賢治がある。

奥さまのG.F.は、来日後間もなく、築地の居留地内にあった自宅を解放し、幼稚園を開設。さらに保母養成機関を設立し、これは今日「千石」にある彰栄保育福祉専門学校へと発展した。
G.F.は、盛岡でも自宅を解放し、幼稚園を設立。これは、現在の学校法人内丸学園・認定こども園 盛岡幼稚園である。
盛岡時代、夫妻の長女ヘレン、息子のウィラードも盛岡に滞在し、ヘレンは盛岡中学校で英語を教えたとある。

ヘンリーは、盛岡のあと、一年間の休暇があり、その後1922年横浜へ拠点を移す。

賀川豊彦の妻、ハルは、1888年生まれ。生まれは横須賀である。横須賀の豊島小学校を卒業、印刷会社(福音印刷合資会社)に勤めた父親の転勤で神戸に行き、そこで賀川と知り合う。
福音印刷の創業者村岡平吉はハルの叔父で、この人の三男敬三氏の奥様が、「赤毛のアン」の翻訳者「村岡花子」。

福音印刷は、1898年の設立以来アジア各国語の聖書印刷を引き受け、神戸支店開設は1904年。
この時期、ハルは日本基督教女子青年会発行の機関誌『女子青年界』(第17巻7月号)に「木賃宿の人々」を寄稿した。当時の編集者が後の恵泉女学園創立者河井道である。

盛岡幼稚園でG.F.に接した女優長岡輝子は、賀川とタッピング一家に既に知遇があった可能性を次のように記している。
「タッピングの長女ヘレンは、明治44年コロンビア大学を卒業して宣教師となり、大正10(1921)年頃は、神戸女子青年会(YWCA)の初代総幹事といして活動しているので、その頃活躍していた賀川豊彦の仕事には、多大の共感を持たれたのでしょう」

1923年9月1日関東大震災
賀川は、震災を契機に東京本所に自宅を移し、震災救援活動にあたる。
新聞報道に見る賀川の活躍に感激した徳富蘆花は、賀川に手紙を出し、それを契機に、賀川は、1924年東京は荏原郡松沢村に自宅を移し、このとき賀川と上北沢の関係が始まった。

桜並木で知られる上北沢の住宅開発は、第一土地建物によるが、同社社長の木村泰治は、元来台湾の実業家で後に台湾商工会議所の初代会頭を勤めた。木村の父親は、ニコライ堂で知られるロシア人修道司祭ニコライに漢文を教えた人であり、ニコライとともに同志社設立者新島襄も木村の父に学んだ。
泰治は1886年東京英学校(現日本学園)入学とあり、同志社の出身ではないが、泰治と蘆花をつなぐ縁は、少なくとももう一つある。
泰治は台湾渡航前に内閣官報局にあり、そこで後の二葉亭四迷の知遇を得、彼の勧めにより泰治は台湾へ渡航、台湾日々新聞に勤めたものである。二葉亭と蘆花は互いに識るところであり、その縁で泰治と蘆花に知遇があった可能性は十分にありうる。

また、泰治の第一土地建物社員に山本文之助という人があり、この人の息子さんが山本七平
文之助は幼少に親戚筋の大石誠之助の薫陶を受け育ったキリスト者である。
蘆花とほぼ同年代の誠之助は、一時同志社にあり、その後、大逆事件連座して処刑された。
蘆花、大石両者に交流がありたかはわからぬが、大逆事件に際し、秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、1911年1月に幸徳らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。

山本文之助の叔父に角源泉という人があり、司法官から逓信官僚に転じ、札幌逓信管理局長まで務めた後、台湾総督府通信局長、土木局長を経て台湾電力の副社長となった。
源泉の縁で、文之助は、富士製紙旭川電気事務所に赴任、そこで生涯の師と仰いだ内村鑑三のと出会い、旭川豊岡教会の青年会長を務めた。1920年文之助は旭川を去って台湾電力に入社、東京支店の総務課長となる。
源泉は1923年末、事業の失敗から台湾電力副社長を辞任した。文之助も台湾電力を退社、その不動産を処分する第一土地建物株式会社に移る。この第一土地建物の社長が、台湾日々新聞社編集長から実業家へ転じていた木村泰治であった。

蘆花と内村鑑三に交流があったことは知られるところであり、賀川豊彦もまた交流の中にあった。
賀川夫妻は、関東大震災の前年1922年に伝道のため、台湾に渡っている。
この渡航に、キリスト者たる山本文之助が関わった可能性もまた考え得られる。

木村は、上北沢における住宅開発について、次のように自著に書いている。
「私は北沢(筆者注現在の上北沢)を開く時、資金は、台湾で社長をしていた台湾土地建物会社の資金百五十万円を、臨時に融資して、大正13年第一土地建物株式会社を、銀座三丁目に創立したが、実は、台湾会社の株主からは大反対をうけた。東京の住宅地を、台湾の金で開くことは不当だというのである。私は、『台湾の会社に結局損をしないようにするから、しばらくの間、国の為だと思って見ていて貰いたい』と説得して、北沢の計画に入ったのだ。これによって、私個人は少しも利得がなかったが、台湾の株主には迷惑をかけずにすんだ。今、省みても意義のある仕事をしたと思っている」上北沢桜並木町区の歴史より
上北沢の住宅開発は、東京の震災復興を目指し始まったものなのである。

山本文之助は、第一土地建物に転じた際には、東京府荏原郡駒沢村大字上馬引沢11番地に居住。その後三軒茶屋の角源泉宅の一隅に居を構えたが、第一土地建物の倒産(文之助は一人支配人として残り、残務整理にあたったとある)、角のがん発病などあり、1942年上北沢一丁目82番地に移転、1963年に火災に遭うまでこの地にあった。
私たち家族は偶然、昭和初期、駒沢村上馬引沢12番地にあり、その後、上北沢一丁目92番地に移り住んだ。

木村の第一土地建物が、上北沢を震災復興期の住宅分譲地として白羽の矢を立てた経過を説明するものはない。しかし、このような、木村、角、山本と蘆花、賀川の関わりの可能性を観るとき、かの地が桜並木の住宅地として分譲される背景には蘆花の縁がありた可能性は極めて高い。
蘆花が「みみずのたはごと」に描いた「紫雲英(れんげそう)」の地から眺めたは、まさに上北沢桜並木その場所なのだ。

賀川一家は、この分譲期に上北沢に居を構え、いったん兵庫県武庫郡瓦木村に移った後、1929年、再び松沢村に戻る。

前述の長岡輝子は、横浜から上北沢にかけてのタッピング一家と賀川のかかわりを次のように記しておられる。
「ご自分達は帰米して5年後に再び来日され、横浜に新しく家を建てられ、関東学院で教師をされたり、A・ライシャワー牧師(ライシャワー元駐日大使の父)の仕事を手伝われたりしていました。そこにあの関東大震災が起こり、家も何もかも消失したのです。その中で被災者たちのために老齢もかえりみず、宣教師の働きをなされたのです。その結果、体をこわされて昭和2年、ミッションを引退されました。」

中略

賀川豊彦がニューヨークで帰米中のヘレンに会い、彼の仕事に参加を求めると、彼女は両親と三人での参加を申し出ました。この三人の参加は、賀川の仕事を世界的に広めることになりました。
ヘレンは、先ず、賀川豊彦の海外伝道旅行に同行して秘書の役割を果たしました。老齢の両親は、賀川の伝道文書の翻訳、整理、英文パンフレットを作成して海外に発送する・・・賀川はそういう彼らのことを天使たちと呼びました。又、賀川が組合病院を東京に建てた時も、彼の苦境を知ったタッピング家は、宣教師での僅少な貯金から思い切った寄付をして人々を感動させました」

上北沢では、第一土地建物の桜並木分譲から、それまで駅の無かった下高井戸ー北澤(上北沢)間に、京王線の車庫を誘致し、新駅を設けることになった。
北沢川の北岸、茅山と呼ばれ、遥か南に、船橋から横根(現桜丘)、西に、八幡山、粕谷、烏山、北には、高井戸、下高井戸から遠く大宮八幡までを望む景勝の高台。ここの縦横(たてよこ)に道を通し、角々に桜を配し、住宅を分譲する。現在の桜上水駅とその南側一帯。時は大正の末から昭和にかけてである。
タッピング一家は、小ぶりの谷戸が茅山に食い込み、視界が開けた特に景観の良い場所を選んで、自宅を構えた。タッピング坂の西側、現在の桜上水5丁目16。

タッピング邸から北へ京王線の踏切(現存せず)を渡ったところに、
A.K.ライシャワ夫妻、福音教会宣教師L.F.クレーマ女史によって日本ろう話学校が1926年に移転しているので、タッピング一家の上北沢移転は、その前後であると推測される。