世界国家9 敵を愛する精神(1947年11月号)

       愛国心だけでは足りない

 ロンドンの大英美術館の東側に一つの銅像がたつている。背面は十字架。前面は、イギリス兵でない他国の軍装をした負傷兵をやさしく掻い抱いている一人の看護婦の像。そして像の台石には「愛国心だけでは足りない」と刻まれている。この銅像は一体何ものゝ像であり、また何事を語ろうとしているものだろう。
 話は第一次欧洲戦争の初めに遡らねばならぬ。戦塵がヨーロッパを覆ひ、ベルギーはまず戦乱の巷と化した。その時、イギリス軍に従つてベルギー戦線に派遣されていた一人の看護婦があつた。彼女はカベルといつた。
 カベルは野戦病院で負傷兵を看護していたが、イギリスの軍の形勢が悪くなつて、退却をよぎなくされた。その時、ドイツ軍の進撃があまりにも急速だつたため、カベルの属していた野戦病院はあとに取り残されてしまつた。病院はドイツ軍の手におちてドイツの負傷兵が運ばれて来た。カベルは、逃げようともしないで、続々と運ばれて来るドイツ兵を親切に看護した。それはきのうのイギリス兵の場合と少しも変るところがなかつた。赤十字の精神がそうである如く、彼女も全く敵味方などという観念をもたず、傷き病める兵たちを愛し慰めるほかに余念がなかつた。
 ところが、戦争に昂奮していたドイツの将校の中には、カベルを疑うものがあつた。彼女があまりにも親切にドイツ兵を看護するからである。祖国愛と敵愾心でこり固つている彼等には、カベルの挙動は怪しいと見るよりほかはなかつたのだ。
 「カベルはイギリスの軍事探偵に違いない」
 ドイツの将校はそう断定した。そして彼女は軍事探偵の容疑を以て銃殺されることに決定した。カベルは少しも騒がなかつた。そして最後の瞬間まで、彼女の天職であり神から与えられた使命である看護の手を措こうともしなかった。彼女は重傷のドイツ兵に対し最後の手当をしてから従容として、ドイツ兵の銃口の前に立つた。
 その時、カベルはたゞ一言いつた。
 「愛国心だけでは足りない!」
 こうしてカベルは彼女が心から看護したドイツ兵の仲間の射つだ弾丸に肉体を貫かれて、魂だけは天国へ帰つていつた。

       汝らの仇を愛せよ

 「愛国心だけでは足りない」というカペルの言葉は、真の愛が国境を越え、恩讐を超越するものでなければならぬことを喝破したものである。カペルのこの崇高なる行為と言葉はどこに淵源しているのだろう。いうまでもない基督の十字架の精神、基督の敵を愛する精神に出ているのである。
 基督はこういつている
  「われ汝ら聴くものに告ぐ。
  汝らの仇を愛し、汝らを憎む者を善くし、
  汝らをのろう者を祝し、汝らを辱かしむる者のために祈れ。

  なんぢの頬を打つ者には。他の頬をも向けよ。
  なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。
  すべて。求むる者には与え。なんぢの物を奪う者にまたもとむな」                         
 何という大宣言だろう。世界の道徳の歴史に嘗てなき革命的宣言といえよう。慈悲を説いた釈迦も、なんぢらの仇を愛せよ、とまでは説かなかつた。まして、他の宗教家、道徳家は全く此処までは至り得なかつた。
 基督はさらに言葉をつゞけて次の如くいつている。
  「なんぢら人にせられんと思うごとく人にも然かせよ、なんぢ
  ら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人に
  ても己を愛する者を愛するなり。
  汝ら、おのれに善をなす者に善をなすとも、何の嘉すべき事あ
  らん、罪人にても故しきものを受けんとて罪人に貸すなり。
  汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、
  その報ひは大ならん。かつ至高者の子たるべし」

       敵を愛し得る原理

 敵を愛せよ。といゝ、憎む者をよくし呪う者を祝せよ、といゝ、辱しむる者のために祈れ、という、その一つ一つが、みな至難の事ばかりである。或者は、こうした事は全く実行不可能というであろう。だが、基督はこれを実行した。十字架上で殺される瞬間、自らを殺す者のために祈つている「父よ。彼らを赦し給へ、そのなすところを知らざればなり」と。
 また使徒行伝によれば、ステパノもまた基督に倣って、自分を殺さうとする者のために、祈つている。ステパノだけではない。初代教会の多くの殉教者は、みな「この敵を愛する精神」で。彼等を迫害する者を愛した。
 では、どうして敵を愛し得るのか、憎む者をよくし、呪う者を祝し、辱しむる者のために祈るという如き至難事が、どうして出来るのだろうか。私は大別して五つの原理を挙げ得ると思う。
 一、神を信ずる信仰から来る連帯意識性
 二、基督が体験した神の贖罪愛的精神から来る人類欠点の補修性
 三、社会の復数性の承認
 四、時間的成長に対する犠牲的投資
 五、神の子としての救いの完成
 右のうちの、一と二は神より見たる場合であり、三以下は人間的に見た場合――横の関係から見た場合である。以上五つの宗教意識の背景がなければ、地上において、天地宇宙の神と同じ心地になり得るものではない。
 以下敵を愛する精神の原理を一つ一つ冥想して行こう。

       信仰から来る連帯意識性

 新約聖書のルカ伝には放蕩息子の物語がある。親は家へ戻って来た放蕩息子を家族の一員として迎え、心から愛しようとする。ところが兄息子はこれに反対し、父が悪人を愛するのは間違っていると抗議する。父はこれを制して、当然滅びてしまう筈だった息子が無事に帰って来だのだから、喜び迎えるのが当りまえではないかと説く。つまり、全体の立場に立つて、父は子をさとしたのであつた。
連帯意識のあらわれである。
 基督が敵を愛せよ。というのも、ひつきよう、宇宙全体の神の立場から発する連帯意識のあらわれである。神は悪人の滅びる事すら希望してはいない。神は、神の作つた如何なる小さき者をも、なお愛して、これを滅ぼさせない。この連帯意識から、敵を愛する精神が生れる。
 新約以前、イザヤ書には、イスラエルから離れてゆく者を神が悲しみ悩む神のもだえが記載されているが、神の全体的意識を以て、人間の相等的なる局部的意識に置き替え得られない者には、この宇宙の連帯意識は湧いて来ない。また人間全体の連帯も湧いて来るものではない。
 敵を愛する精神は、この神を信づる信仰から来る連帯意識性に出発するものである。

       贖罪愛から来る人類補修性

 神の信仰から来る連帯意識性があり得ても、なお手に負えない場合がある。その場合は連帯意識性からさらに一歩前進して人類の欠陥をも修理して行かうという補修性にまで到達せねばならない。如何なる犠牲を払つても、その者が改心するまで迫つて行つて、真人間にしようとする気持、絶対者が相対者救済の気持で出発する精神、その精神が敵を愛する精神としてにぢみ出て来る。それは基督の贖罪愛から来る。
 前に掲げた基督の言葉の「汝ら得るところあらんと思いて人に貸すとも何の嘉すべき事あらん」汝らは仇を愛し。善をなし、何をも求めずして貸せ、さらばそのむくいは大ならん且つ至高者の子たるべし」とある如く、博大なる救わんとする意志を持つ者でなければ、敵を愛する精神は湧いて来るものではない。
 支那の聖人孔子の仁の中にも、敵を愛する精神は入つていない。
孔子は今を去る二千有余年前、魯の国の昌平郷に生れた。当時は支那三代周の世であったが、春秋の十二国と唱えて諸侯が相争つたのみならず、君を弑し、親を殺す者さへあつて道義の頽廃その極に達していたので、孔子は仁を唱道し人倫五常の道を説いた。しかし、その孔子も一度隣国の斉の王が魯に無礼を立働くのを見るや、怒つて「敵を殺せ」を命じている。孔子は仁を説いたが、基督の如く、宇宙の絶対無限の神から出発した愛の意識を持たず、況んや愛の更に上昇した贖罪愛には至り得なかつた。だからこそ、疳(かん)にさわる事があれば忽ち「敵を殺せ」と命じたのである。
 孔子ばかりではない。宇宙は神の創造であり、人類は神のものだという意識を持つていたマホメツトでさえ、迫害する者に対しては飽くまで剣をとつて抗争した。もちろん六十歳過ぎて、これを悔い、自分が間違つていたといつて告白してはいるが、彼の教理には、人を救うために自ら仆れてもいゝとする贖罪愛の思想はない。
 これに反し、基督はもちろん、その弟子すら、はぢめから「なんぢの頬を打つ者には、他の頬を向けよ。なんぢの上衣を取る者は、下衣をも拒むな」という無抵抗的抵抗を身につけていた。

       無抵抗的抵抗とは

 或人は (その人は支那引揚者の一人だつたが)、戦争に敗れて私は絶対無抵抗者になつた。山上垂訓が実行できるようになつた」と語つた。つまり、殴られても腹を立てないようになつたというのであろう。しかし、これは私のいう無抵抗的抵抗とは違う。彼のいうのはエレミヤ哀歌の一節「汝の唇を地上の塵につけよ」という戦敗国民の屈従だ。基督の無抵抗的抵抗はもつと大きな立場からいつている。あいてよりも遥かな高所に自分を置いて対者に向つている。たとえば、母が子に対しているようなもので、こどもが母の背中でどんなに暴れようと、母の髪を引つぱろうと。母は全く無抵抗で、あゝよし、よしと、却つてこどもを愛撫する。決して、こどもの暴に対し、暴を以て酬いることをしない。

       対者よりも高所にいよ

 こつちが敵よりも高いところにいれば、敵を憎まずに、これをすかすことが出来るのだ。どんなに暴れようと、迫害して来ようと、こちらが不死身なら、何等の痛痒もない。
 不死身の愛なればこそ、上衣を取る者に下衣も与えるのだ。
 不死身の愛は、与え、与えて、とゞまるところを知らない。
 魂が神と共にあれば、不死身の愛が身について、敵が如何なることをしようと、さらに意に介するところはない。そこで、無抵抗でいられる。
 禅門中興の祖といわれ、「駿河にはすぎたるものが二つあり一は富士山二に原の白隠」と謳われた白隠禅師は或る男につばを吐きかけられたが、彼は平然としてその儘、太陽に向ひ、つばが自然にかわくのを待つたという。つまり禅師は自らを高く置いていたので、あいてが禅師を怒らせようとしても、あいてにならずにいたのである。馬鹿にあいてになつていては、こつちが馬鹿になる、と平気でいられる境地まで来なければ、敵を愛するという精神は湧いては来ない。
 夫婦喧嘩も夫婦が対等でいるから起る。もしどちらかが、高い境地にいることが出来たら、争いは起るものではない。国際間の争いにしても、家庭の争いにしても同じである。基督が体験した贖罪愛精神から出発し、絶対無限の神の立場を倫理生活に還元し得るなら敵と雖も愛することが可能となるのである。基督は完全にこれを把握し、これを実践した。
 以上は神から見た敵を愛する精神であるが、次ぎにこれを社会的に飜訳すればどういう形になるであろうか。これについてはパウロが最もよく説明している。

       社会の複数性の承認

 パウロには敵が多かつた。彼がイエスの弟子となる前。多くの基督教信者を迫害してたからである。従つて彼を信用せず、これを罵るものや、反対する者が絶えなかつた。その時パウロはどういう態度をとつたか。彼は自分独りが真の軌道を歩ゆんでいるのではない。神のもう一つの軌道があるかも知れない。そして、敵の行為をも承認しようという寛容の精神で臨んだ。
 パウロはまた割礼に反対した。ユダヤ人は習慣を遵守しなければ救に入らぬといつたが、パウロは、魂が神と一つになればいゝのだとして、割礼その他の習慣を一蹴した、従つてパウロは多くのユダヤ人たちからは糾弾されたが、彼は克く耐え忍び、論敵に対しても寛容なる態度を持した。つまり社会の複数性を思うたからである。
 地球は複雑だ。各植物には各植物の、各動物には各動物の使命がある。それを一つの流儀に偏して他を批難してはならない。群盲象を評するの愚を学んではならない。
 あまり大きな存在に会うと、局眼的の生活をしている者は誤謬を冒し易い。絶えず、綜合的に見る要がある。社会は複雑性なのだから。
 ヨーロツパでは十七世紀の初めに宗教戦争が三十年もつづいた。
新旧両教徒の宗派的抗争であつた。現在もインドでブラマ教徒と回教徒とが抗争し、ペルシヤ境ではベンガル教反対の米人が、回教徒の迫害をうけてぃる。宗教以外では共産党が、世界の各地で反共産党分子と戦つている。
 彼等が宇宙全体の連帯意識に目ざめ、その複雑性を勘考して、今少し他に対して寛容であつてくれたら――と思う。いゝや彼等に望む前に、われわれが宇宙全体の本質に鑑みてもつとへり下る必要がある。
 蛙がおたまじやくしを変な奴だとして殺したとしたらどんなものだろう。おたまじやくしは時がたてば蛙になるのだ。寛容な心持で、魂の成熟するのを待つべきだ。
 社会は複雑だ。複数だ。そのことを勘考し、自分の嫌いなもの、いやなものだからどいつて排斥したり、迫害したりしないで、寛容な態度を持たねばならぬ。自分独りであると考へず、敵にも存在理由のあることを認めることだ。競争者の存在の承認だ。そうする事によつて、われわれは敵を愛する精神を持つことが可能となるのである。

       時間的成長に対する犠牲的投資

 洗礼者ヨハネは自分は衰えて来る。そして後に至る者が栄える。自分はその後至者の鞋をとるにも足らぬ――と謙遜な態度に出て後至者イエスを祝福した。時間的に成長する者のため一歩をゆづつたのだ。またイギリスの詩人は「大人はこどもの崇拝者となれ。なぜならこどもは大人の父だから」と喝破した。逆説的言い廻しではあるが、将来のあるこどもこそ尊敬さるべきである。
 パウロも、コリント人への書中で「その親は親のために貯うべきにあらず、親は子のために貯うべきなり、我は大に喜びて汝らの霊魂のために物を費やし。また身をも費さん」といつて、子の成長のためには自らを忘れて犠牲的投資を敢てするのだ――といつている。
これこそ、敵を愛する精神の根本原理に通うものというべきであろう。

       神の子としての救いの完成

 パウロはさらにピリピ書において救いの完成のため無抵抗でいるのだといつている。(ピリピ1・一九)
 また前に掲げたルカ伝で基督はいと高き者となるために敵を愛するのだといつている。即ち人類が互に自我を主張して抗争をつゞける限り人類は永久に救われないが、贖罪愛から出発し、人を救わんとする衝動から、絶対無抵抗をとるなら、自らは勿論人をも救い得るのだ。
 パウロは己れを愛するから敵をも愛するのだ、といつた。われわれは神の子としての救いの完成において、敵を愛する精神を把握し得るのである。
 太平洋の奇蹟はオーストラリヤの近くの一食人食の島でパオと呼ぶ土人が喰人種を改心せしめた一事だ。彼は喰はれるのを覚悟し、人を喰つているところへ四十日の食糧だけをもつてカヌーを乗りつけた。そしてその島の島民全体の改心に成功した。このパオこそ己れの救ひを完成し、同時に人の救いを完成したのであつた。そこに神の奇蹟がある。
 神の冒険性が、敵を愛する精神に現はれているのだ。
 敵を愛する精神は、新約第一の冒険だ。十字架意識による敵を愛する精神、新約最高の精神だ。
 この敵を愛する精神が、どの程度に現代に適用し得るか、それによつて新しき文明の価値は決する。
 今や新しき戦争が世界のこゝかしこで準備されている気配がある。唯物的暴力主義と民主主義との間に深い溝が作られて争いが激化して行く形勢にある。冀くはこの大きな溝を基督の贖罪愛の血によつて結びつけ、敵を愛する精神をもつて新文明を生むを得るように。――
 無戦世界の実現の一日も早やからんことを――。
 世界の国家聯合から、更に世界国家の実現へ進み得る様に。(一九四七年十一月号)