伴武澄が語る「甦る賀川豊彦の平和思想」(10)

 賀川の弟子で武内勝という人がいます。一番弟子です。賀川が活動の拠点を東京に移した後も、神戸のスラムの施設をずっと維持しました。愚直なまでの人でした。その人が大恐慌時代に考えだしたのが、失業者に対して給付金を出す仕組みです。仕組みは長くなるので説明しませんが、興味のある方があったら、多分そこにおられる鳥飼先生が非常に詳しいので聞いて下さい。

 そのアイデア東京市で採用されたんです。失業保険もなかった時代に、賀川の一番弟子がつくった仕組みを東京市が採用したのです。すごくないですか。もう腰が抜けるほどたくさんのことをやっています。

 今日は平和理念ということをしゃべるということでやってきました。賀川を読み解くキーワードの一つはもちろん「貧困」です。貧困の対極にあるのが平和なんです。

 賀川は学生時代から徹底した平和主義者でした。戦前は学校で軍事教練というものがありました。軍人が学校に来て、木の鉄砲でえいやぁと生徒たちを鍛えるのです。賀川は徳島中学時代、それを拒否して何度も殴られています。殴られても拒否するのです。明治学院のときには、徳島毎日新聞に長文の平和理論を連載しました。カントから始まって、ニーチェ・・・、ちょっと僕などは理解できないようなヨーロッパの平和哲学論を展開しています。大学の予科ですよ。予科生でそれらをすべて読破して理解していたのですからかないません。