大阪労働学校案内



 宣言
 我等は有産階級の独占から教育を解放すべき事を要求する。夫れが有産階級の独占に帰している間、学問は遂に虚勢された馬の如くであろう。
 そして、夫れは学問を司どるミネルバの神に対する冒涜であらねばならぬ。我等は学ぶべき権利を持って居る。我等は有産階級に奪われた大学を奪還しなければならない。
 併し学問は大学の専売ではない。去勢された馬肉屋の如き学問に何の真理が学び得ようか。我等は生きた大学を要求する。我が労働学校には赤門もない、講堂もない、叉高等官何等の位を持つ者も居ない。けれど其処には穢れざる真珠の如き真理がある。自由奔走なる少壮の学者が居る。教える者も教わる者も熱と力がある。その教える処は深奥の学理でないとしても咀嚼すれば其の悉くが血となり肉となるべき真理がある。我が大阪労働学校こそ真にミネルバの神の嘉し給うべき唯一の真の学堂である。
 1922・6 大阪労働学校

 沿革
 我が大阪労働学校は宣言に述べた如く、有産階級に独占され茶毒された従来の教育から解放され、無産者の歴史的使命の遂行の為めの労働者教育の目的を以って、大正十一年六月、賀川豊彦、松澤兼人、村島帰之、山名義鶴氏等の尽力と在阪労働団体篤志家の後援の下に創立され、その開校式を西区安治川一の基督教会に挙げた。校長に賀川氏、主事に松澤氏、講師には京阪神の社会運動に同情ある少壮の教授及弁護士等が夫々その任に当った。松澤氏は同年十二月に辞任され、其後、瀬野久司氏が校務を処理して居たが、十二年初月に制度を改め学生の互選による委員によって管理することにした。
 経営の都合上、大正十三年三月に校舎を此花区江成町の友愛社に移したが、校運の進展その他の事由から大正十四年主事制に復し井上良二氏之に当り、学校の経営に就ても山名、村島、河野、阪本、井上の諸氏の斡旋によって大阪労働学校の事業一切を之に依て処理することとなった。大正十四年7月、校舎を江成町110番地に移したが同年末に労働教育会の後援に依り現在の番地に移転し、漸くその基礎の確立を見るに到った。開校以来今日まで学期を重ねること十有七回、その修業者数五百五十余名に及んでいる(1928・4)
 規約

  1. 本校は大阪労働学校と称し、事務所を大阪市此花区吉野町1丁目三六番地に置く。
  2. 本校は労働者及労働組合員として必要なる知識を与えるを目的とす。
  3. 入学資格は労働組合員たること(但し其の他の者も入学を許すことあり)
  4. 本校は毎年一月五月九月に新学期を開講す。
  5. 修業期間は三ヶ月を一期とし、二期を以て卒業とす。
  6. 授業は毎週月、水、金の午後七時より九時までとし、木曜日には研究会を設く、
  7. 本校の卒業者の為に不定期に高等部を設く。
  8. 聴講料は一期(三ヶ月)参円とす。(但し納付したる聴講料は返付せず)
  9. 本校の経費は大阪労働学校経営委員会によって行われるものとす。
  10. 本校の役員には校長一名、経営委員長一名、経営委員若干名及び主事一名を置く。

 授業科目及び講師
 1.授業科目の主なものは。
 経済学、経済史、財政学、政治学、労働法制、社会学、社会運動史、社会思想史、労働運史、農民運動史、労働組合論等。
 その他時事問題、特別問題等に関する特別講義を開く。
 2.本校関係講師名(ABC順)
 古野 周蔵 林    要 細川 嘉六 細迫 兼光
 後藤 貞治 賀川 豊彦 小岩井 浄 岩崎 卯一
 河野   密 久留間鮫造 櫛田 民蔵 松澤 兼人
 森戸 辰男 村島 帰之 西尾 末廣 大内 兵衛
 斎藤   廣 阪本  勝 杉山元治郎 住谷 悦治
 高野岩三郎 辰巳 経世 山本 宜治 山名 義鶴

 本校役員
 校長 賀川 豊彦 主事 井上 良二
 経営委員 委員長 高野岩三郎
   委員 林   要 細迫 兼光 後藤 貞治
       賀川 豊彦 小岩井 浄 河野  密
       松澤 兼人 森戸 辰男 村島 帰之
       阪本  勝