(8)−フレッチャー・ジョーンズ物語

 もう一つ、エピソードを話したい。2008年春、松沢資料館の杉浦秀典氏から「こんなDVDをもらったんだけれども、興味ありますか」と一片のDVDを手渡されました。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュメンタリーでした。
フレッチャー・ジョーンズは、オーストラリアでは戦前からある有名なアパレルメーカーで、「どんな人でも、どんなサイズでも、どんなにお腹が大きい人でも、うちのズボンは合います」というキャッチフレーズで人気を集めました。
  ジョーンズは第一次大戦の欧州戦線に従軍して大けがをしますが、運良く生き残り帰還します。中学しか出ていませんが、テーラーになることが夢でした。テーラーから身を起こして、アパレル企業を創業し、オーストラリアでは誰もが知っているメーカーに成長させたのです。
 1929年の大恐慌時、ジョーンズの会社は無事でしたが、周囲はどんどん貧しくなっていくのに不安になります。資本家はもともと資金があるから、大した打撃じゃないんが、貧しい人たちがどんどん貧しくなっていくのです。ジョーンズは「これは経済を変えていかなきゃいけない」と考え、経営を根本から学ぼうと思いました。内外の多くの経済書、経営書を取り寄せ、読みました。その中に、賀川の本が1冊ありました。「協同組合的経営」に関するもので、ジョーンズは雷を受けたように「これだ」と確信したのです。
 偶然にも賀川は1935年、伝道のためオーストラリアを訪問しました。メルボルンに来た時、ジョーンズは面談を申し入れ、実現します。
「自分の稼いだ金は全部捧げないと神様に救われないんでしょうか」
「いや、そんなことはない。神様が望むようにあなたが使えばいいんだ」
 翌年、ジョーンズは、賀川の協同組合的経営をその目で確かめるため、来日します。5カ月滞在して、賀川の活動を観察しました。賀川は関東震災後に本所で大々的なセツルメント活動を開始し、生活の拠点を東京に移していました。ジョーンズの見た賀川の事業はただコープショップがあるだけではありませんでした。購買部のまわりに学校や保育園があり、医療があり、質屋があり、全人格的な経営を行っているということに感動したのです。
 帰国してから「僕の会社は株式会社じゃだめだ、コーポラティブにする」と決意し、改革に着手した。実際に改革が実現するのは戦後のことだが、自社株の7割以上を段階的に従業員に譲渡してしまう。ジョーンズがオーナーだった会社はいわゆる社員持ち株会社となったのです。
 フッチャー・ジョーンズ社は10年ぐらい前までは健全経営でしたが、90年代に入ってさすがに中国からの安価なアパレル商品に押され経営が悪化しています。
 「フレッチャー・ジョーンズ物語」を見終わってみると、1時間の間の1割以上が賀川に割かれていたことに気付きました。オーストラリアで2007年9月にテレビ放送された作品です。どれぐらいの人が見たか分かりませんが、2000万の国民のうち数%は見ていたとすると、50万ぐらいは視聴していたはずです。どのような思いで見たのか非常に興味があります。「何だ、この人は」と思ったのか、もうすでに賀川を知っていたかもしれません。「やっぱりそうだ、賀川はすごい」と思ったかもしれません。
 日本で賀川を知る人はもはや神戸以外ではあまりいません。完全に忘れ去られた存在といってもいいくらいです。日本人が知らない賀川をオーストラリアの数十万の人見ていたと思うだけでなにやら嬉しくなってしまう。ドキュメンタリーをプロデュースしたスミス氏は2008年春、松沢資料館を訪れ、「次につくりたいドキュメンタリーは賀川豊彦だ」と言ったそうです。