世界国家20 潮時を忘るな(1948年7月)

 キリストは「時」を行動に対する大切な要素として、いつも計算に入れられた。
 舟には潮待ちと云うものがある。逆潮では、瀬戸内海でも、朝鮮の仁川でも、九州の有明湾でも、運航の出来ない場合がある。キリストすら、エルサレム行に「時」を待ち合せられた。
 日本は此処一年で、凡てが決定する。唯物論的暴力主義が勝つか、精神主義的贖罪愛運動が時代をリードするか? こゝ一年で決定する。
 唯物暴力論のやうな底の抜けた袋でも、雑巾には使用出来る。日本は今敗戦で、畳の上に水をまいた時だから、雑巾が欲しいのだ。キリストの弟子が、雑巾代りになる勇気を持てば、すぐ役に立つが、気位ばかり高くて、下坐奉仕を忘れ、応用を怠る時、底なし袋に敗けてしまう。
 泥棒は冒険を知り、計画を持ち、人の眠つているスキをねらう。
 善人は冒険を恐れ、計画を捨て、いつも居睡つている。そして悪人に敗けてしまう。
 唯物暴力主義は、ギヤング団を組織し、略奪に行動隊を組む。
 キリストの比喩にある如く、愚なる乙女は、花婿の来る時を遅い遅いと云つて居睡り、ついにその機会を逃してしまつた。
 今年一年が、上げ潮だ。火皿に油をつぎ、緊張して聖霊の働くをまて!
 応用キリスト運動を、凡ての線に展開せよ。
 夜明けになつて、もう電燈のいらぬ時に、灯はいらぬ。夜道を急ぎ闇に追つかれぬようにせよ。
 今年一年が、日本救国の端境期だ!
 悪の勢力は、私らを追抜かんとしている。凡てに喰ひ込んでくる。
 唯物無神主義に決死の勇気を以つて奪戦せよ!
 時だ! 上潮だ! この時を捕えなければ、聖霊の働く時期をまたこの次の機会迄待たねばならぬ。(一九四八年七月号)