世界国家23 神と永遠の道を撰べ

 ――暴力主義と唯物主義を排す――

 闘争主義を排す

 天地宇宙の理法は、ニーチエ、トライチユ、スチルネル等が唱導じ日本の軍閥が考えた「闘争が宇宙を進化せしめる」というようなものではない。その反対だ。互助が巧く行けば行くほど、進化は早い。動物の生態研究は、その事実をわれ等に物語るのである。食肉獣の一面のみを見て他の部分を見ず、また他の動物の愛の原則を無視して、生存競争のみが宇宙を支配していると見るのは、全く近視眼者といわねばならない。私は度々この事を説いた。本誌にも書いた。
 わが国は戦国時代から封建時代につゞいたため、国民の視野は甚だ狭く、戦争哲学が永い間、国民の間に浸潤していたが、もう戦争哲学に「さよなら」を告げてもよいのではなかろうか。敗戦により軍閥は崩壊し、戦争哲学もその威力を失つた。しかしこれに代つて階級闘争を唱えるものゝふえているのは、前門の虎を追つて、後門の狼を迎え入れた感がある。人間の完成を天職としている筈の教育者さえが、教場をよそに、赤旗を振つて闘争を叫んでいる。教育場の学校の内に「闘争本部」などの看板を散見する。先生を見習つて、児童らが闘争を口にし争議を記し、同盟休校を断行した時、赤旗の教育者はどう処置するのだろうか。
 日本は、一歩誤れば闘争に亡びるのではないか――と憂う。
 軍閥に代る新しき闘争主義者の教育のため、日本は自壊作用を起すのではないか――と惧れる。
 梅毒の傾向のある者は大脳組織を冒されて自我のこちこちとなり、果ては発狂状態にまで進む。ニーチエは精神病院に入院した。梅毒から来たニーチエ哲学――梅毒哲学を信奉する日本の青年は憐れである。巣鴨拘置所にある被告中の一人は梅毒のために発狂状態にあるという。日本軍閥は彼の梅毒哲学によつて支持され、鼓舞激励されて来た。そしてその結果は、日本を敗戦の深淵へ陥入れてしまつたのだ。その衣鉢を継いで梅毒哲学を唱道し、闘争を叫ぶ者は誰だ。マルクス共産党宣言の冒頭に「一個の怪物欧洲の天地を徘徊す、共産党これなり」とあるが、この怪物は今日も世界に徘徊しつゝあるのである。
 真の共産主義は愛で行かねばならぬ。愛なくして何の共産主義だ。
 闘争のための闘争はあり得ない。闘争をやりすぎて自壊作用を犯して亡国の嘆をかこつに至りしもの、その例、ギリシヤにあり、バビロンにあり、日本もこれに倣わんとするのか?

 マホメツトと共産主義

 階級闘争に反対するからといつて、わたしは決して資本主義を正しいとするものではない。社会主義が資本主義よりも正しいというのは、社会主義には互助が存するからである。帝国主義軍閥と資本主義が一つとなつて戦争をした。その真似をして共産主義者が闘争一点張りで進んで、暴力を以て、世界を共産化しようというのは、昔、マホメットが剣とコーランを以てその改信を貫ぬこうとしたのと同一轍を踏むものであろう。マホメットは最初はイエスの愛で行こうとしたが、メッカ人が反対し、ついに闘争に至つた。そして二十年間にアラビア、アフリカ、小アジア、エヂブト、ペルシヤを征服したが、その代り愛する女婿は兄弟喧嘩のため殺された。マホメツトは目を覚したが既に手遅れだつた。彼は六十二歳で煩悶の中に死んだ。
 マホメツト帝国の亡んだのは闘争のためであつた。彼は剣を以て欧洲を征服し、剣のために自ら亡んだ。共産党もまたマホメツトと運命を共にするのではないだろうか。
 真の社会主義を実現しようとすれば、闘争主義を一擲せねばならない。闘争で民主国家は興隆するものではない。暴力的社会主義は正しき社会主義とはいえない。
 われ等は暴力主義と唯物主義に反対する。真の社会主義運動は人格的社会主義でなければならない。リンカーンは剣をとつて戦つた。しかし、それは警察手段としてゞあつて、決して唯物的革命のためではない。現に彼は勝利の日に、南軍の首魁を死刑にしようとする幕僚を制して「同じアメリカ人民を兄弟として扱いたくないとする人があるが、私はこれに同意することは出来ない。わたしは悪意をもたず、愛をもつて彼等を遇したい」といつた。彼と暴力主義者との間には雲泥の差がある。

 宇宙目的を意識せよ

 暴力主義者は宗教を阿片だという。しかしわたしはそう思わない。幼稚蒙昧の時代と、文化花咲く現代とでは宗教意識に格段の差のあることをまず知らねばならない。
 全人類の運命に対する意識をどう持つか、宗教意識のあり方が問題である。
 原子と原子爆弾は違う。唯物辯証法は原子を見ずたゞ原子爆弾のみを見る。つまり機能をぬかしている。 
 原子はいくらあつても原子爆弾にはならない。爆弾は智慧が要る。智慧と原子は異る。
 人間を物だとするのは誤りだ。人間は活動力を持つ。力は法則と力と撰択と目的を持つ。宇宙は見えるだけのものではない。撰択性を持ち、法則を持つて、或る目的のために活動している。その宇宙の目的を意識する事を宗教というのだ。目的をはつきりと把握し、その目的のために協力して、闘争を排し、平和の手段をもつて目的に向つて前進せねば、宇宙が折角苦心して人類を作つてくれた大きな努力に対し酬いることができない。
 宇宙に目的がある。一つの細胞をくらべて見ても、その中には染色体がある。しかしその染色体は美しい十六本から成り、正確な加減乗除の理法で組立てられ、何万という因子があつてそれが一糸乱れず合つている。この驚くべく細微な組立が一つ一つの細胞に整然としてなされているのを見る時、宇宙には厳として目的の秘められていることを感じないではいられないのである。
 遺伝学の発達によつて見ても、宇宙は決してでたらめのものではなく、目的のはつきりとしていることが首肯される。それはたとえばB29が、雨の降る日も方向を違えず東京に侵入して来て爆撃を敢行するために長短波のビーコンにより、指向性を持つていたのと似ている。
 宇宙に目的なんてない、でたらめだ、遇然だ――とする唯物論者はラヂオ・ビーコンなくてB29が東京侵入を敢行したと考えるに均しい。

 普遍絶対の法則

 宇宙の目的に副えよ、人間よ、と神は叫んでいる。現象の闇に迷うている間は、人類は救われない。
 神はあるか、と問うのか。落下するものは幾度試みても落ちる。法則は普遍、絶対だ。絶対なものを神というのだ。即ち変化する宇宙に、変化せぬ絶対がある。だから、金比羅さんや稲荷さんを拝むには当らない。絶対はある。目に見えないが法則はある。何億という法則が人間を取巻いている。
 その法則のほかに、力が与えられ、さらに撰択と目的とが与えられている。
 しかし、目に見えないものはないのだ、というのか。君よ、心は目に見えないが、それだから、心はないというのか。
 目には見えないが法則はある。神はある。宇宙の意味を読みとる者にして始めて宇宙に目的のあることが判る。それは文字を知る者にして始めて書物に目的があるのと同じである。
 宇宙の意味を読みとる者でなければ宇宙に目的のあることは判らない。
 自在性を宇宙に与えるものは自由自在の神のほかにはない。それが、人間の心に投影するのだ。
 神は人の心に愛を示す。人間の良心を透し、自然を透して、愛を示す。或人はいうだろう。
 それなら、もつと神を明確にわれ等に移るようにせよ、と。しかし、人間の良心を捨てゝしまつている者に、どうして神が乗り移り得ようぞ。良心を喪失している近頃の一部の青年は集団強盗や殺人をさえ敢てする。そうした、宇宙に目的なしとする者に、神が乗り移ろうとしても乗り移れるものではない。しかし、もし彼等がいささかでも神の方に向つて真理を捜しあてゝ悔い改めるなら、その瞬間に神の力は彼の上に乗り移るであろう。
 瞑想録の著者として有名なパスカルは十六歳でパリの大学の優等生となつた天才であるが、脱線して伯爵夫人と情痴の世界に陥ろうとした一歩前、或る日、セーヌ川の橋の上を、二人で馬車を駈つていると、何に驚いたか馬が突然欄干から水中に飛込んだ。馬車は二人を乗せたまゝ川に落ちようとして、欄干に引つかゝつて危うく死を免れた。その瞬間、パスカルは人間というものゝもろさ、はかなさを痛感し、改心して、邪恋を精算し、神と永逮の道を歩もうと決心した。そして新教の修道院に入り、瞑想録という不朽の名作を遺したのであつた。
 良心を呼び覚すことが出来た人にして、はじめて宇宙に目的のあることが感ぜられ、神と永遠の道に入ることが出来るのである。

 神と永遠の思慕へ

 神と永遠の思慕を外にして、永遠の平和を保証するものはない。唯物論やエロテイシズムを信奉する人々の力だけで、永遠の平和を招来せしめようとするのは、木に魚を求めるのと同様、不可能である。
 精神の髄から懺悔し、神の使命感に目覚め、愛の世界の実現を期するところに世界平和は来る。
 愛の世界を意識し、全人類のために十字架にかゝつてくれたのが基督である。神は愛の神、修繕の神である。だから一人の人間が悔い改めても神は喜び給う。聖書にある放蕩息子の親は神そのものである。
 その宇宙の神が、投げかけてくれている愛、その不思議な審判、慈悲に気づかずにいることは、申訳けのないことゝいわねばならない。基督はその神の愛を示すために、標本となつて自ら十字架上にかゝられたのである。
 基督が、神の愛のために十字架にかゝられたその瞬間から、歴史は一変した。闘争の歴史が一変して愛の歴史に変つた。そして絶対に戦いをしない修道院フランシスカンの運動として現れアナマ、サイノメノ、エラシメスの平和運動となり、またペスタロツチの愛の教育となり、戦争否定のフオツクスやクエーカーの運動となり、トルストイやガンヂーの無抵抗主義となつた。 
 わが国は幸いにして新しき憲法において戦争の放棄が宣言され、今や平和日本として復活しようとしている。然るに、一部には今なお戦争の迷妄から目覚めないものゝ多いのは何と悲しむべき事ではないか。法律は平和に目覚めているのに、人間の良心がなお戦争の夢から覚めきれずにいる。日本人が良心に目覚めず。唯物論階級闘争に気を奪われている限り。日本に真の平和は来ない。
 世界国家の出現のためには、まず神と永遠の道を選ばねばならぬ。そして神の示し給う方向――そこは絶対に人を傷けないのみか、喜んでひとの尻拭いをし、全世界を平和にしようとする基督への道に進まねばならぬ。
 今、世界は二つに分れ、冷たい戦争が始まつているといわれるが、この時世界の全人類に向つて、世界平和を大声叱呼し得るのは、戦争放棄を宣言した日本のみの持つ特権である。われ等は絶叫する。共産主義の国よ丸腰になれ!そして暴力をすてゝ愛に目覚めよ!民主主義の諸国よ、武装を解除せよ、そして大なる宇宙目的のために努力せよ――と。
 しかしそれと共に、日本自らも深く反省するところがなければならない。今日の廃頽から脱却して、一日も早く道義の日本を打ち建てねばならない。それでなければ、日本は自壊作用を起すであろう。(一九四八年七月号)