34 「メノナイトの絶対反戦主義」(1948年12月)

 山羊を送つてくれる人々
 戦後日本に山羊や牛を親切に送つてくれる人々は、普通ブラザレンとよばれているけれど、実はメノナイトと称せられている団体に属しているのである。メノナイトは四百年以上もつゞいている誠に珍しい宗団で、絶対反戦主義キリスト教共産主義を実践し、一種の無政府主義さえ実行して、官吏拒否、世俗解脱を唱えて来た興味ある人々である。世界の歴史に於て、宗教的共産主義生活を喜んで一同がやつているのは彼等だけであるといえよう。
 私は十二年前、米国のインデイア州其他で彼等と親しくなつたので、戦後日本を助けるのに官吏を認めぬ彼等は、私と連絡をとつてくれた。生き物なら一時的に消耗してしまわず、だんだん殖えて長く役に立つから山羊を送ろうかと交渉して来たので、私は「是非ほしい」と電報をうつた。二百五十頭ずつ十ヶ月間合計二千五百頭送つてくれることになつている。彼等はこの事業でも解るように、山上の垂訓を文字通り実行しているが、その点を我々も学びたいと思う。

 剣を持たなかつたフツタア

 メノナイトの歴史は宗教改革の昔にかえらねばならない。ライン河はスヰス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダの諸国を流れていて、鉄道のなかつた時代には、ヨーロツパ諸国を連絡する脊髄ともいうべき、地理的ルートであつた。ルツターは一五二一年にウヰツテンブルグ教会の入口に、法王排撃の改革的九十五ケ条の宣言文をはりつけたウイツテンブルグはライン河畔フランクフルトに近い町だつたので、ルツターの宗教革命はスヰスにもすぐ影響を与えた。ルツターの主張に動かされて聖書をよむと、今まで聖書をよまさなかつた法王のやつていることに、色々と間違つたことが発見された。そして今迄圧迫されていた農民達が、一斉に革命をやりたいと思うようになつて来た。
 それらのスヰス人のうち最も厳格な信仰を把持していたのは、ヤコブ・フツタアに指導された一団であつた。フツタアは宗教改革の先駆者達が剣をもつていたのに極力反対した。スヰスより起つたツヰングリーは強力なカトリツク側のハツプスブルグ家と激しい戦を試みて、遂に戦死をとげた。ルツターもウイツテンブルグでは身辺が危くなつたので、北方のサクソニー侯の城に逃げて活動をつゞけた。その時いつ危険が迫つて来るかわからぬので、ルツターはサクソニー侯から武士の待遇をうけ、いつも剣を携えていた。しかしフツタアは山上の垂訓を文字通り実行すべきことを主張し、ツヰングリツやルツターに反対して、戦争は絶対に神の心に反するものであるとし、絶対非戦論を唱えた。当時新教の牧師でサアベルや懐剣を待たずに歩いて活躍したのはフツタアだけであつたと伝えられている。
 彼は同志にも剣を持たさず、家に鍵をかけさせず、徴兵にも反対させた。当時ドイツには数十名の大名があり、その上にハツプスブルグ皇帝がいて、お互に勢力を張り合つていたので、どうしても強力な兵士を持つていなければならぬために、戦争に反対するフツタアの群は大名たちからひどい迫害を受けていぢめられ通した。ルツターさえサクソニー侯の助をうけていたので、宗教と政治とがからまつていた。それをフツター達は否定し、官吏の拒否と戦争反対を実行していた。

 農民戦争の失敗

 宗教改革の流はオランダに近いコローンから少しはなれたミユンステルの農民達の中にも大きな感化を与えた。そこへオランダのライデンから来た普通「ライデンのジヨン」という人物が彼等を指導して大きな運動となつた。ライデンのジヨンはフツターと同じく、赤坊の時に洗礼をうけても意識がないのだから無駄であると主張し、赤坊の洗礼を禁止したのでアナパプテストと呼ばれている。アナバプテストの運動は猛烈になつて、農民達は税金、徴兵に反対して小作争議を起したが、それがだんだん大きくなつて遂に大名達への謀反となり、歴史上有名な農民戦争となつてしまつた。
 勢力が強大になるにつれ、ライデンのジヨンは妙なことをいい出した。初めは純粋な宗教的動機から謀反していたのであるが、余り過激になつたため脱線したのであろう。自分は来るべきキリストの生れ代りだというのである。   
 洪秀全バプテスト教会のリーフレツトをよみ、太平天国運動を起したが、やはり同じようなことをいつて失敗したようなものである。純な宗教運動が余り過激になると間違を起しやすいことはよほど注意しなければならない。ジヨンは間もなく、ダビデ王の生れ代りである、ダビデは妾を持つていたから自分も妾を持つてもいゝといい出した。  
 山上の垂訓とすつかり離れた彼の指導が失敗するのは当然で、ミユンステルで敗北を告げてしまつた。
 
 サイモン・メノール

 その後、オランダのカトリツク教徒だつたサイモン・メノールという人が、山上の垂訓を実行するためには、カトリツクのように法王制では地上の権力と妥協される危険があるので、先ず政治的勢力を否定しようと主張し出した。官吏になると権力を利用して堕落するから、信者全部が世俗と結ぶことを避けることになつた。それで個人の隠遁のみならず信者全体が隠遁せねばならぬと考え、信者は山の中や谷の中にはいり、貧しい生活をつゞけた。彼らは社会から全く分離していたので、どうしてもお互に助け合いをしなければやつてゆけぬから、自然共産主義生活を実行するようになつた。
 かくて山上の垂訓を文字通り実行せんがために、彼等の苦労にみちた努力が始められた。彼等はルツターもサーベルをつけているから、口だけで信仰信仰といつてもうそだと考え、カルビンも人を救うのが神の予定であるといつているが、それならば人が罪を犯したのも神の予定だといわねばならぬからいけないと考えた。そして唯あくまで山上の垂訓を実行して、キリストの教訓を完全に実現することを求めて全力をつくした。

 散らされたメノナイト

 このメノールの教を奉じた人々は、余り激しく迫害せられたので、一部は「低地ドイツ」の政府と妥協してその地に止まつたが、あく迄徹底を求めた人々は、ロシヤに逃げ込んだ。一七二五年ロシヤの女王カザリンがシベリヤは人口が足りなかつたので、戦争はしなくてもよいという条件で招いたのに応じて、シベリヤに移住した。彼等はあく迄徹底して戦争に反対し、セブンステー・アドヴエンチストの如く、キリストの再来を祈り求めて、教育も余り重んぜず、余裕のない生活を送つた。大休農業をやり、人口が増加すれば他の地方へ移住して開拓した。
 ところがシベリヤへ移住した人達は、蒙古人から非常にいぢめられた。蒙古人は彼等の無抵抗なのを知り、美しい妻や娘達や、牛や羊を盗むために再三襲撃したので、それで止むを得ず蒙古人と争わねばならなくなり、一ばん可哀想であつた。そのメノナイトが文豪のトルストイに強い感化を及ぼし、彼の反戦主義はこゝから来たのである。トルストイが晩年逃げて来たのも、メノナイトの修道院であつた。
 そんな事情で大体のメノナイトはウクライナ地方におさまり、現在はバプテスト系の数百万になつている。ウクライナ共和国がドイツ系の人々によつて成り立つているのは其のためである。彼等のうち皇帝政治と妥協したものは、バプテスト教会と称して、今日も教会が盛んであつて、徴兵に賛成したものはレーニン時代になつて認められて無事だつた。
 が、あく迄徴兵に反対し、独裁的な共産主義に服さぬ者はブラジルヘ大挙移住したり、又北米合衆国やカナダへ逃げ出した。米国のメノナイトの本山ともいうべき所は、ペンシルバニアのジヤーマンタウンで、彼等が最初に移住したゆかりの地である。
 米国のメノナイト
 米国のメノナイトは全部農業をやり、此頃は教会に二人の牧師をおき、一人は思想牧師といつて説教や教育に従事し、他の一人は財産監督のために働く。全信徒は大家族主義で、全部の者が皆労働し、その持物を凡て持ちより、その財産監督牧師の処理にまかすのである。四百年来この同じ型の生活をつゞけているのであるから、偉大だといわなければならない。彼等は余り自然科学を持たず、多くの人々から時代遅れだと笑われるが、貧乏人も金持ちなく、皆がかなりの生活を送つているのは羨まれている。宗教的儀式は簡単であるけれども、深い信仰に生きていて、多くの尊敬を勝ち得ている。ロシヤに行つた人々のうちには、ハンガリーに流行していたソシニアンの信仰に走つた者もあつた。何しろ社会的な圧迫が多いので、しぱしば分裂を来たした。
 米国へ来たメノナイトは大体政府と協調し、政府の方でもクエーカーと共に徴兵はせず、戦争の時はその代りに、強制勤労を課している。     

 学ぶべき点
 日本は新憲法をつくり、絶対平和に変つたのであるから我々はそれを意識して自ら進んで積極的な平和論を持たねばならぬ。然し絶対の平和を主張することが如何に苦難多きものであるかを知らねばならない。彼等はロシヤが唱えるような強迫的な平和でなく、全く信仰による意識的な平和と強制なき共産主義生活を守つて来たのである。米国に於ては共産主義をよぶ時にも、唯物的とか、暴力的とか、ボルシエビキー的とか、ソピエツト的とか必ずいつて、メノナイトなどの宗教的共産主義と区別をしてゐる。
 彼等に学ぶべきは、余り教条斗争をつゞけざることである。あまり議論をするとルツターが失敗したように、愛の実践から遠ざかることである。その反対にメノナイトはいゝ影響を与えて来た。メノナイトのよいところをうけたロヂーウイリアムス牧師は、ボストンの南のちかい州にバプテスト(此派はアナ・バプテストの修正派)として移民して来たが、宗教儀式を重んじ、カルヴイン主義のピユーリタン(清教徒)と意見が合わず、いつも圧迫を受けつゞけたが、そこにたてられたロードアイランドブラウン大学は非常によい成績をあげ、八人の大統領を出すに至つた。 
 余り教条をやかましくいわず、個人的自覚を重んじ、良心的たらんことを求めて来た。人口八十万ばかりのロチエスター市にあるバプテストの神学校にラウセンブツシユという教授がいたが、教条以上に自覚を基礎とする良心を重んずる立場から、戦争反対のキリスト教社会主義の哲学を創述した。そのために種々な反対を受けて苦しんだ。              
 英国に於てもメノナイトに近いバプテストに属するジヨン・ミルトンやジヨン・バンヤンなど立派な人々が出た。彼らは戦争は皆政治的に妥協したが、メノナイトのみが今日迄徹底して山上の垂訓を実行せんと努力して来た。私はメノナイトの足跡を見て、キリストの教訓を実践することが、如何に困難なものであるかを見つめなければならないとつくづく考える。真のクリスチヤンは常に迫害されることを覚悟する必要がある。然もメノナイトのうちから世界的画家レンブラントの芸術や、トルストイの偉大な文学が生れたことは、彼等が如何に美しいものを持つているかを示している。
 現在日本へ親切な慰問として山羊や牛を送つて来ているが、それに一々謝罪の手紙がついているのを見ても、キリストの精神に徹した愛の心持が了解出来るのである。勿論メノナイトには欠点もあるけれど、キリスト愛の実践に真に苦労していることに、燃えあがる共鳴を感ぜずにはいられない。
 我々も平和世界の実現をめざして、メノナイトの精神にならい、死物狂で山上の垂訓の実践のため、あらゆる困難と戦い邁進したいものである。(一九四八年十二月号)