有馬頼寧 ( ありまよりやす )

1884年(明17)12月17日,東京都中央区日本橋蠣殻町(旧日本橋区)に生まれた。父は久留米21万石の藩主頼万。東京帝国大学農科大学を卒業後,1年有半欧米各国の農村を視察して1911年(明44)帰国し,農商務省産業組合課に勤務して産業組合(産組)の指導に当たること6か年,辞して東京帝国大学農科大学講師,ついで助教授として農政学を講じた。1924年(大13)衆議院議員に当選し政友会に所属したが,この間信愛学院を創設し労働者の教育に当たり,早稲田大学の北沢新次郎らと日本教育者協会を組織し,教育の機会均等を唱えた。また同愛会を創立,部落の融和運動に尽くし,さらに鈴木文治らの農民組合運動に参加するなど,社会の注目の的となった。1927年(昭2)伯爵となり,衆議院議員議席を失う。翌1928年,産業組合中央金庫(産組中金)の監事,さらに翌々年,産業組合中央会(産組中央会)の監事となり,とくに千石興太郎(別項)らと親交を結んだ。1929年(昭4)貴族院議員に互選され,のち,斎藤実内閣の農林政務次官となる。1933年(昭8)産組中金理事長となり,翌々年,産組中央会会頭を兼任した。この間産組の勢力伸長のために活動,また賀川豊彦(別項)が関東大震災後設立した学生消費組合(東大,早大,明大,拓大)の経営を援助した。1937年(昭12)近衛文麿内閣の農林大臣となったが,風見章らと図り,産業組合青年連盟を主体として,農村革新協議会を結成し国民組織再編成の一翼としようとした。1939年(昭14)農林大臣を辞任し,ふたたび産組中央会会頭に就任した。彼はかねて産組の保険進出を企図していたが,千石らとはかり産業組合役職員共済組合設立準備会を組織し,共済制度と保険会社の買収にのりだした。しかし,当時熾烈をきわめた反産運動の勢力は議会および政府を動かし,ついに1940年(昭15)2月27日,農林大臣島田俊雄の保険会社買収中止命令が発せられ,産組の保険進出は挫折した。しかし,なお保険進出は根強くすすめられ,ついに井川忠雄(別項)を社長とする共栄火災海上保険株式会社の設立となった。戦争の拡大とともに近衛文麿は有馬らとはかり,大政翼賛会を結成した。彼は産組中央会会頭と貴族院議員とを辞してその事務総長となったが,こと志と違い,その改組に際し職を辞した。太平洋戦争の勃発に際しては賀川豊彦とともに未然に戦争防止すべく努力したが及ばず,終戦とともに戦争犯罪容疑者として連合軍により巣鴨に収容されたが,無罪となった。晩年,日本中央競馬会の理事長となったが,常に協同組合の発展を念頭においていた。随筆を得意とし,著作も多い。主著『農民離村の研究』『農村問題の知識』『七十年の回想』『農人形』など。1957年(昭32)1月9日没。(豊福保次)
=協同組合人物略伝 【国内】から転載
http://www.ienohikari.net/data/kjinryaku/meisai/arima.htm