小説『その流域』のデジタル化

 昨年末から、小説『その流域』のデジタル化を進めている。近く公開する予定である。(伴 武澄)
『その流域』は1935年11月、徳島県を流れる那賀川の流域の小学校分校を舞台にして農村の疲弊をテーマに賀川豊彦が書き下ろした「農村復興小説五部作」の一作品である。
 「農村復興小説」は、昭和6年の名著『一粒の麦』(講談社)に始まり、昭和10年『乳と蜜の流るる郷』(改造社)、昭和12年『荒野に叫ぶ声』(第一書房)、昭和13年『第三紀層の上に』(講談社)と続く。
 賀川が農村復興小説を書くようになった経緯については武藤富男が『賀川豊彦全集19巻』に詳しく書いている。以下、転載する。
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 賀川の社会運動は、昭和になってから農村更生に主力が注がれた観がある。彼が杉山元治郎、村鳥帰之、小川渙三らとともに日本農民組合を結成したのは、大正十年十月、日本農民組合機関紙『土地と自由』を創刊したのはその翌年であった。しかし大正十二年九月、関東の大震災直後、東京本所にセッツルメントを興し、被災者救済に当るや、大正十四年まではセッツルメント事業に力を入れた。ところが大正十三年十一月から大正十四年七月にかけて欧米を視察し、殊にデンマークの農業を研究して帰朝した後は、彼の農村に対する興味と熱意とはいっそう深くなったようである。
 大正十四年五月五日に普通選挙法が公布されるや、一二月一日には神田のYMCAにおいて『農民労働党』が結成されたが、直ちに警視庁から解散を命ぜられた。この年賀川は『百万人救霊運動』を展開し、十二月末、ジョン・R・モット博士を迎えて協議会をもち、百万人救霊運動私案を発表した。その冒頭には次の諸項が掲げられた。
『農民伝道、全国七割五分の人々に到達するために、あらゆる機関を利用すること・・・全国に直に四十の農民学校をつくるべし、その経営はイエスの精神を中心とし、小農民の子弟を数十名に限り、数ヶ月間共同生活をさせ、宗教的に導き、これを農村に帰農せしむべし・・・農村精神文化の指導・・・農村にキリスト教的技術者を指導者として送る・農村に医療ミッションを組織する神学校の農村社会科創設。』
 更にこの年の十二月には大阪に農村消費組合協会を設立し、翌年六月には、日本農民組合新潟県連合会が経営する木崎村農村小学校の校長に推された。
大正十五年十月、一家をあげて兵庫県武庫郡瓦木村に転居するや、翌昭和二年一月十九日、日本農村伝道団を組織し二月十一日には自宅を解放して第一回日本農民福音学校を開設し、六月二十日には第一回女子農民福音学校を開いた。次いで昭和四年に農村伝道団から月刊誌『土と人』とを発行し、昭和五年には御殿場に農民福音学校高根学闘を創設し、昭和九年には北海道空知郡江部乙村に北海道農民福音学校を開設した。
 このように賀川の農村伝道は、大正末期から昭和の初期にかけて着々と布石がなされ、その間に彼は全国をかけめぐって伝道しつつ農村の指導をなし、立体農業と協同組合の精神を鼓吹し一方において農村復興を題材とする小説を諸雑誌に発表し、また単行本をして出版した。次のようである。昭和六年に講談社から名著『一粒の麦』昭和十年に改造社から『乳と蜜の流るる郷』、講談社から『その流域』、昭和十二年に第一書房から『荒野に叫ぶ声』、昭和十三年に講談社から『第三紀層の上に』が出版された。
 これら五つの小説は農村復興を目的とする小説であり、私のいう『目的小説』である(本全集第十七巻解説参照)。しかもこの五つの小説の出された時期が日本軍国主義の抬頭期から爛熟期に対応していることは注目に値する。すなわち満洲事変から支那事変に至る時期である。
 農民勤労の成果を軍備に注入し、資本家をしてもうけさせて、農村に資金を還元することのない軍国主義、働き盛りの壮丁を軍隊に徴発し、戦場に狩り出して農村労働力の不足を来らせる軍国主義、それは農村を極度に疲弊させた。そして皮肉にも、農村の疲弊を憂えて社会改造をめざした国家社会主義的革命は五・一五事件二・二六事件となって軍部のうちに起こった。
 賀川の農村伝道と農村復興運動はこの期間に力強く展開されたのである。賀川は資本主義、軍国主義に真正面から挑戦せず、与えられた社会環境の中にあって相互扶助に基づく協同組合運動、祈りによる道徳の向上、即ち禁酒、賭博の廃止、遊興の禁止等の道徳運動、殻果作物と牧畜とを加えた農法の改良、すなわち立体農業運動、この三つの運動を展開することにより日本の農村を救おうとした。この目的を広く深く日本の農村に浸透させようとして彼の書いたものが、これら五つの小説である。その小説の作風及び特色については本全集第十七巻の解説を参照されたい。
 なお五つの小説のうち『一粒の麦』と「第三紀層の上に』とは雑誌「雄弁」に連載されたものである。