賀川豊彦の『医療組合論』その3

 ほぼ4年間で全国に90もの組合病院・診療所が誕生したのだから、日本医師会で危機感が高まったのは当然のことであった。あらゆる手を尽くして妨害しようとした。

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 日本に於ける開業医の同業組合たる医師会は前述せる如く不当にも公法人の過遇を受け、その権力を常に濫用して凡ゆる医療社会化運動を妨圧して来た。明治四十五年社団法人実費診療所に反対の火蓋を切ってから、到る所にその魔手を伸ばして来たのである。その魔手! 幾度か医療社会化運動を弾圧し来りて、勝利に酔へる魔の手は、医療組合が姿を現はすや直にその本質も実力をも識らずして、只我無者羅(がむしゃら)に攻撃して来た。
 その最も代表的にして有名な、世に所謂八王子事件なるものがその適例である。
 昭和四年九月、三千余名の組合員を擁して東京府八王子市に診療を開始した、八王子相互診療組合(組合長内田正五郎氏)が、多数の患者を集め診療開始後六箇月にして、忽ち組合員は倍加して七千人余になるといふ、全く驚異的発展を遂げた。
 之に対し同地南多摩郡医師会は、昭和五年八月同医療組合勤務の医師堀野計一氏外三名の医師を相手取り、医師会薬価規定に違反の廉で懲戒処分として各自一百五十円也の過怠金を課したが、これを支払はざるため訴訟を提起した。爾来八王子区裁判所で裁判の結果は、医師会側の敗訴となり、続いて控訴し東京地方裁判所で審理の結果、又もや医師会が敗れて仕舞った。
 それは、組合勤務の医師等は、組合に雇傭されて一定の給料を得て、該組合員の医療に従事し、其薬価治療費は該組合に於て決定し 徴収するもので、之らが被告たる組合医師の所得に対するものではないから、医師会の定むる医業報酬規定に違反したものではないといふのである。
 そこで医師会側は猶も根気よく大審院に之を上告した処、今度は形勢逆転してしまった。といふのは、元来医師会に与へられた懲戒権は一つに公法人に附与したる権限で、公法上の性質を有し、監督官庁に於て之が取消なき限りは絶対的のもので、その決議の内容、懲戒の当否に就ては司法裁判所の審議判断すべき範囲でない。地方裁判所が過怠金を科した懲戒処分が相当なるや否やを審理したのは違法の判決で、破毀すべきものだ。故に原判決を破毀して本件を東京地方裁判所に差戻すといふことになったのである。
 要するに医師会令第二十四条に、地方長官は医師会の議決が法令若しくは会則に違反し、叉公益を害すと認めた時は、理由を示してその議決の取消を命ずることが出来るようになってゐるから、今度の懲戒の当不当については、地方長官に於て処分すべきもので、司法官の取扱ふべき範囲外だから、行政官たる知事の方で解決するやうにと暗示したことになった。(昭和七年九月二十八日大審院判決)この結果、遂に昭和八年五月十九日附東京府知事は、南多摩郡医師会に対し、右の懲戒決議の取消命令を発するに至り、全く医師会側の惨敗に終った。
 これは八王子第一事件であって、猶八王子第二事件といふのもある。この方は第一事件の第一審で医師会側敗れるや、新手の組合医師いぢめを考案、即ち医師会で無料健康相談所を始め、之に会員は交替で出勤することを決議した。然し組合医師はとても多忙でもあり、医師会の本心を知ってゐるので、全然服従しなかった。すると早速五百円宛の過怠金を科し、之も支払はぬので裁判になり未だ解決されずにゐる。
その次は、東京医療利用組合が昭和六年設立許可申請を府知事に出すや、医師会は猛烈に反対し、日本医師会長北島多一氏親(みずか)ら陣頭に立ち、府知事を威嚇したり、内務省衛生局を動かし同組合認可の阻止に努めたが、藤沼知事が昭和七年五月二十七日警視総監に栄転の日、遂に置土産的に認可して行った。一年有余医師会と闘って認可を得た同組合では、診療開始に際し、医員の四谷区医師会へ開業届を出すべきや否やを考究後、診療従事後十五日目に届出をなした処、四谷区医師会は周出遅延と称し十円宛の過怠金を科して来たり、同時に薬価規定の除外承認要求に対し不承認を決議し、全くヒステリックな程の反動振りで攻撃して来た。これを四谷事件といふ。
 その後全国各地の医師会の医療組合反対運動は引続き起されてゐるが、何れも失敗に終ってゐる。その医療組合に対する反対口実は慨が左の様なものである。
 医療組合は薬価治療費が安いから、必ず粗診粗療である。随って医療の低下を来すものであり、世界無比の我国開業医制による醇風美俗を破壊するものであるから反対するといふのである。又最近に至つては、組合は出資金を払込み、薬価を現金で支払へるものゝみを吸収し、薬価を払へぬものだけが開業医に集まる。叉組合は一定の医師を組合員に強制して医師の自由選択が出来ないから駄目だといふのである。
 第一の粗診粗療云々は、どこの医師会でも先づ第一の反対理由にしてゐるが、実際に組合が粗診粗療をやったといふ話は聞かない。組合といふものは、組合員即ち患者自身が経営するものなのだから、大切な自分の生命に関して粗診粗療をやらせる訳がない。医療組合は今日迄の開業医のやったやうな無統制で無駄の多い封建時代の経営法によらず、医業経営の合理化をやり、凡て能率的経営法をやり、しかも多額の資金で最新の設備を完備してゐるのであるから、彼等のいふ粗診粗療など、全く一笑に附する価値もない。
 かやうにどの反対理由も、要するに反対せんがための口実にすぎなく、根抵は薬価を定価よりも安くすること、お客を取られるといふ、営利同業組合としての本質から反対する迄であり、今日の医師会が全く営利的同業組合たることを暴露せるものに外ならない。
 かくの如く反対声明や、地方当局に迫り政治的策動をやって、医療組合設立認可を妨害することは常例になってゐるが、最近では医療組合の全国化に愈々周章狼狽し、昭和八年九月七日岩手県花巻温泉に東北六県の医師会幹部が集合し、東京からも日本医師会の会長及書記長が出張して、医療組合対策の大評定を開いた。その結果「社会の客観状勢より観れば、組合運動を無暗に妨圧することは不可能にして、動(やや)もすれば医師会側が反動団体視され勝の状態にあるため、対策としては開業医の悲惨なる実情を当局に陳情し、政治運動により目的を貫徹する」といふ方針に決し、最近の内に各県医師会長は挙って上京し、内務、農林両省を歴訪して陳情することを申合せた。
 これは医師会側の全国的反対運動の前哨戦とも見られ、今後は一層全国的運動に進むであらうと信ぜられる。この事は反産組運動の前衛たる全日木肥料団体連合会の勧誘に快よく応じて、反産組運動に合流したことからも肯かれる。
 医師会としては、誠に猛烈に反対運動を続けてゐるが、内部的には必ずしも反対のみではなく、個々の会員の中にも協調的意見を抱く人も多いが、亦地方医師会の中にも協調的方針を執り始めたのもある。その一例として昭和八年九月長野県小県郡医師会では、各町村長宛「今後医療組合設置案のある場合には是非御相談をかけて欲しい。吾々も共に研究し、協力したい」との書面を送り協調方針を告白してゐる。