『医療組合論』第六章 実費診療所と医療組合

第六章 実費診療所と医療組合

明白なる差別

世間では、医療組合運動を一種の実費診療運動の生れ変りの如く考へてゐる人もある。開業医諸君の比較的頭の古い人には、さういふ風に考へてゐる人が非常に多いやうに、私には見受けられる。
また、医療組合運動の根本に徹底しない人のうちには、実費診療所でなければならぬやうにいふ人がある。一九三二年頃から無産政党は、多くの実費診療所を創った。現に、大阪では、社民系統の実費診療所があり、労農党系統の診療所もあり、左翼に属する実費診療所があるといふ状態である。これらは多く、その党派を宣伝するために創られたるものであって、根本的に医療制度を改進しようといふ動機から出たものではない。
資本主義形態の診療機関

また、明治の末に始まった東京新橋の実費診療所は医師会の迫害に遭ったことによって有名なものであるが、これは、医師会の薬価統一に反対して起った料金低下運動であって薄利多売主義によって経営を持たして行かうといふ資本主義的経営の一つの現れにしか過ぎない。勿論私は、明治末期に、この種類の実費診療所が持ってゐた大きな使命を忘れるものではない。鈴木梅四郎氏などが努力せられたので、大正年聞に、公共団体の経営する大阪東京に於て開始せられた実費診療式の市民病院が、幾つとなく、設立せられる可能性が出来たのであった。
然し、それが仮令、公共団体によって経営せらるゝにしても、実費診療はやはり一つの実費診療であって、その経営形態は一つの資本主義的方式であることに於て違ひはない。
私は、実費診療所の必要を決して無視するものではない。それは簡便な道であり、組織が単純であり、七面倒くさい法律上の手続は要らず、面倒くさい会議や、事務所品目に多くの経費をかける必要はない。然しそれだけまた実費診療所は、多くの難点を持ってゐる。それは無組織であり、自由競争主義であり、余剰価値の発生を処分する方式を持って居らず、診療機関の需給関係を明細に知り得るよき将来の社会組織を暗示してゐない。
統計学的に考へて、ある一定の地域にある一定の罹病率があり、或一定の職業に、或一定の罹病率がある。その統計的な研究の結果一地区に無用な病院を建てないで診療設備にも、統制経済の計画を加味することによって、一民族の医療財政を安定ならしめることが出来る。然るに、実費診療所は、かうした統制経済を基礎にして出発してゐない。そこに、組織上の無理があることを、我々は考へなければならない。
我々は、医療機関的企業によって、医療財政の国家的消費を省く必要がある。そのために我々は、自由競争主義による医療機聞に賛成し難い。
医療自由競争脱却

然しある人はいふだらう。技術の優れた医者には自然多く集ってくるから仕方がないではないかと。
私は、仮令、一人の医者がすぐれた技倆を持ってゐるにしても、彼が余剰価値を発生させて、多く儲ける必要は少しもないと思ふ。彼も医療組合の一病院に関係して他の医療組合から委託された場合に、連絡をとって、金儲けを離れて治療すべきではないか。
実費診療所は、薄利多売主義で行くから、或は儲かるかも知れない。その儲かった場合に、それは個人の所有になってしまふではないか。勿論公共団体や財団法人の場合には、さうした憂ひはないにしても、病院と患者の間に有機的組織のないことは否定出来ない。有機的組織があれば、病院の経営に対して、いろいろ口をさしはさむ権利がある。然し、官公立の実費診療病院や、財団経営のものに対しては、患者は一々頭を下げるよりほか方法がない、そこでよく出てくる苦情が起こる。
組合病院の優秀性は全くそこにある。患者の一人一人が有機的組織を持ってゐるからどんな無理でもいへる。ちゃうど自分の家に寝てゐるのと少しも変らない。自分の家と思へば、藁小屋でも嬉しい気になる。大病院に入ったからとて、他人の家に住んでゐるやうな気持であれば、何だか肩がはって窮屈である。そこに実費診療所と医療組合の社会心理的差異がある。

官公立実費診療所と医療組合の連絡

私は、将来、官公立の実費診療所も、医療組合と連絡をとる必要が大いにあらうと思ふ。それは、医療財政から見ても、国家的に必要なことである。最近、青森県の医療組合の発達の結果、全国的に有名な赤十字病院が多少患者数を失ったといふことを私は聞いた。恐らくこれは有り得ることであって、民衆の気持は医療機関に対しても自治を要求するであらう。さうなれば折角立派な赤十字病院を建てゝも、その設備が無要になるおそれがある。仮令、さうならなくとも、実費診療所の中に、医療組合の嘱託をうけて、病室をあけてをいても差支ない訳である。
さうすることによって、赤十字病院或は県立病院の如きは、患者が集まる数に於て、地域的な、また数字的確実さを増す訳である。よく県立病院の医者などが、数年そこに勤めてゐて後に開業することがある。さうすると、新しい開業医は、県立病院の患者を連れて出てしまひ、県立病院の会計が困難を極めるといふことを屡々聞く。もしその県立病院がその地方の医療組合と連絡をとってゐるならば、さうした患者の争奪戦はなくなる訳である。実費診療所の困難は全くこゝにある。その企業は、片方的であって、供給だけは設備せられるけれども、需要の方の組織がついてゐない。

多元的医療財政の必要

従って、一旦財政的の困難に直面した場合、いろいろ不都合のことが起ってくる。即ち余り儲け過ぎた場合にも、あまり損をした場合にも、両方とも悪い。もし余り儲けた場合、医療組合の会員達に予防的保健及び健康保険運動が出来るやうにすれば、その儲けは無駄に消費はされない。また損をした場合(それは、村立診療所などによくあることである)窮乏した農村の経済では村税から医者の給料を支払ふ金がないことがある。もしこんな場合に産業組合と連絡をとってゐるならば、医療組合の経費は、産業組合の利益から支出することが出来るし、なほ不足した場合に、村から補助を出すことも出来る。
保険行政の財源は一方的ではなく、多元的である必要がある。即ち、単線ではなく、複々線にしてをけば、村や町で病院の経営に困ることは絶対になくなる。私は病院は組合で経営して町が之に補助をなし、何人も喜んで之に寄附するといふ方式が一番よいと思ってゐる。さうすれば、村で税金が集まらなくとも、村に医者を雇ふことが出来る訳である。
以上のやうな理由で、私は、実費診療所の使命はもう終ったやうに思ふ。これからは、実費診療所を医療組合に更めて、医療行政を統制経済の上にすゑる必要があると思ふ。
たゞ困った事は、今迄の産業組合が、地域的の組合をのみ許すために、実費診療所の患者が直に組合員になれないといふ心配がある。然しかういふ場合には、地域別に組合を作って連合体を組織し一つの中央病院に関係をつければいゝのである。
もう一つの危険性は、実費診療所にきてゐる患者が、比較的貧しい患者であるために、十円以上の出資額に困難を感じるといふことである。東京府下八王子の医療組合相互病院の如きが、知事に認可されて、却て患者を幾割か少くしたといふのは、出資額の払込みに貧しい人達が困難を感じるためだらうと私は推察する。それで、政府当局に於ては、日本に於ける医療行政の、完成のために、医療組合の払込出資額を最少限に止めることを許し、今までの作ってゐる官公立の実費診療病院と、それらの医療組合とを完全に連絡せしめる必要があると思ふ。さうすることによって、日本の医療行政は大盤石の上にすゑられたものと考へてよい。