『医療組合論』第八章 国民健康保険と医療組合

第八章 国民健康保険と医療組合
健康保険の基礎工事

医療利用組合の使命が、窮乏せる日本を救ふに於て絶大な任務を持ってゐることは、たゞにそれが非常時日本の保健問題を解決する上に効果があるのみならず、それを基礎にして将来我国の医療国営の基礎になるべき標柱を樹てゝ行く点にある。
今、国家が、工場労働者、鉱山労働者並に交通労働者のために強制的健康保険を設けてゐるが、五百七十万戸を有する農民大衆と、六百万戸を含む一般市民層の健康保険は、いまだに顧みられないでその儘捨てられてある。また今日最も憐な人々がありとすれば、それは全国百五十万の人口を有する漁業労働者である。彼等は今日殆ど平均三百円の収入を一戸当りに持ってゐるものは少い。それで彼等にこそ健康保険が必婆なのである。それでもしも、我国の貧乏を絶滅し、疾病より来る生活不安を除去しようと思へば、どうしても国民大衆に健康保険を実施しなければならぬ。その健康保険を実施するに当って如何なる形式をとるか?
今日の日本に於ては政府が直営するものと保険組合によるものと二種類あるが、国民大衆に向っても、この直営と組合営の二方法を用ゆる他に道はあるまい。そしてドイツその他の経験によっても、国営によるものより組合営によるものゝ方が、道徳的訓練が厳格に行はれ、医療設備に於ても、また恵与金の金額に於ても、組合の節制のある処に於ては少しの金額で足りることになってゐる。
今我国に於て百五十万の労働者が強制的健康保険に加入してゐるが、今若し国家的健康保険を一般農民及び市民に実施せんとした場合、我々が今日組織してゐる医療利用組合の組織訓練を経ずして、果して健康保険組合が成功するであらうか? 私は否と答へる。私が国家百年の大計のために医療利用組合を絶叫するのは全く茲にある。医療利用組合の訓練を経ずして、国民的健康保険を実施することは絶対に不可能である。
もし将来国家が、農民の健康保険、市民の商業の徒弟の健康保険を実施するとすれば、それは必ずや今我々が実際にやってゐる医療利用組合の形式をとるであらう。私は、そのためにこそ今日より国民生活の訓練のためにと思って、自主的な医療利用組合を国民に作るべきことを勧めてゐるのである。医療利用組合が市街地及び農村に於て完全な発達をして初めて、医療の需給関係が明瞭になる。今のやうに、たゞ出鱈目な開業医制度で医療の需給関係は絶対にわからない。もちろん組織的な費用をかけてもう少し完全に統計をとれば、医療の需給関係は多少解るかも知れないけれども、殆ど今日の開業医は、それだけの組織能力を持ってゐない。それを開業医に要求することは無理である。

医療の需給関係

曾て私が東京市の社会局に於て疾病から来る貧乏の統計を作らうと調査にかゝった。しかし悲しいかな、それは絶望であった。医師は、自分の患者数を他人に知られることをあまり欲しない。そして各種の弊害によって、報告の基礎が錯雑してゐる。医師会には勿論さういふ資料は集まってゐない。たとひ集ってゐても統計的には出てゐない。私は全く絶望してしまった。もし将来、今日の医療利用組合のやうなものが発達するなら、一区域内の医療の調査は完全に出来る。これだけでも健康保険組合の基礎になり得る。そして健康保険組合が村々町々に出来たとき、医療国営が初めて可能になるのである。
医療国営の準備

開業医諸君は、医療国営の順序を少しも知らないらしい。たゞむやみやたらに我々の組織してゐる医療利用組合を呪ってゐる。ある時にはインチキ患者まで製造して我々の医療組合の門前に来て暴行を働かせ、それを材料にして官憲に訴へて出るものすらある。然し私は彼等の盲目なのに寧ろ同情する。医師会は大いに反省するがよい。我々は決して医師の生活を奪はんとするものではない。医師を国家的に保護しようとしてゐるのである。それには、医師相互間の無用なる競争や重複を省き、憐な患者を基礎にして一儲けせんとするやうな私利私慾を去られんことを希望してゐるのである。それを理解せずして、国家の非常時を弁へず、みづからの経営法が古代酋長時代の非科学的なることをも考へないで、徒らに新しき社会科学の上に立つ国家非常時の医療機関を呪ふことは、近代科学をもって立つ医人としては恥かしいことだと私は思ふ。彼等は自然科学を専門にしてゐるけれども、社会科学には全く封建時代そのまゝの考へを持ってゐるらしい。最近九州関門地方の医師会は、医師の生活権保護のために当局に陳情をなしてゐることを私は新聞で読んだ。
何故に医師の生活権が脅かされるやうになってきたか? それは医療の需給関係が組織的にいってゐないからではないか。医療の需給関係を円満に運ばすには、統制経済の道よりないではないか。
統制経済下の医療機関

統制経済の組織化に医療機関を統制する場合、医療利用組合の他に道はないではないか。人或ひはいふであらう。市町村で医者を雇へばいゝではないか。その例はないではない。日本で最初生れた三つの一つである島根県秋鹿村の医療利用組合の如きは、村の校医があまりに不親切であった結果、産業組合による組合診療所が生れたのであった。唯単に医者だけにかゝるのであれば或は村医もよから
う。然し将来之を健康保険に直すとすれば、どうしても医療利用組合のほかに道はないではないか。私は全国的に医療利用組合が組織され、無理な医者を作らず毎年医師の必要な数が明確になって来れば、統制経済の下に医師の生活の保証は医療利用組合を通じて国家が保証するやうになるのではないかと思ふ。
医療の非営利化

医師会のある人々は徒らに封建思想に捉はれて、統制組織が大きな資金以上の資本金であることを無視し、医療組合病院には資本金がないから完全な治療が出来ないといふことをよく口にしてゐる。それは大きな誤りであって、産業組合組織の資金が如何に潤沢であるかを知らないものがいふのである。そして薬価の如きも組合としては伸縮自在であり、医師会がとるだけのものはとっても、利益があればすぐに払戻してしまふ訳だから、結局、少しも儲ける必要がなく、医師の生活費だけを保証すればいゝことになってゐるのである。我々の目的は、実に医師の経済的苦痛を取除き、専心医道に精進せられんために医療組合をつくるものである。この人道的な運動を誤解して医療利用組合を迫害せんとすることは、仁術としての医道を理解しない人々の浅間しい心から出るものといはねばならぬ。
既に我々の目的が医師の生活保護にある。我々は、日本を疾病より救はんとする場合には、医術者を保護せずして完成するものとは思ってゐない。我々は医療国営によって医師の生活を保証しようとしてゐる。然し米殺の専売が全国農村の産業組合を中心にせずして不可能である如く、国家の肥料管理が全国の購買組合を基礎にせずして出来ない如く、我々は医療国営が全国の窓療利用組合の発達に俟たなければならないことを医師会の諸君が理解せられんことを希望してゐるのである。
民衆の苦痛としてゐる処は医師の生活費をよう払はぬことではない。医療機関の無用なる混雑と、無統制と、重複と競争と、無用なる広告と、また医師諸君が奉仕的観念を忘れて、人の病める日に、殊に無産者が多い今日少しでも楽な生活を送るために資本主義的に医療を経営し、営利主義的に、医療設備をしてゐることを脱却してもらひたいと希望してゐるのである。
医療行政上の喜劇

若し営利主義を離れて医療設備をしてゐる人があれば、国民はその人達に感謝するものである。然ればといって、その非利己的な医師だけに、依存しても、永久に国民健康保険組合は出来ない。国民健康保険を実施しようとすればどうしてもその基礎工事として、村村町々に医療組合をつくらせ、この網の上にのみ将来日本が疾病より起る貧乏を根絶すべき健康保険を実施し得るのである。その時になれば、開業医諸君は初めて我々が今日苦心してゐる――医師会の迫害をも喜んで忍びつゝ、かへってその医師会諸君の生活難を国家が救済するやうに念願して医療利用組合を持続してゐる理由がわかるだらう。その日まで開業医諸君は或は苦しいかも知れぬ。しかし彼等も国家により生活保証を受けて、彼等が我々に与へた処の迫害が一種の喜劇であったことに気が付くであらう。