『医療組合論』第九章 医師会と医療組合

第九章 医師会と医療組合

民族衛生と罹病率の測定

民族衛生の立場から考へて、医師の数は、一体どれだけあったらいゝだらうか? 昭和二年に於て日本の医師は人口一方に対して七人七分になってゐる。昭和四年三月内務省の発表したる約十三万人の農民についての研究によると、農民千につき千五百五十の疾病件数があることになってゐる。つまり一人が約一つ半に近い病気を患ってゐることになる。然し実際に於て寝てゐるやうな病人は、恐らく四十人とはないであらう。紡績会社では女工千に対して四十人位の寝る人があると聞いてゐる。ドイツに於ては疾病保険が完全になればなる程疾病率が増加する傾向がある。もともと千人について平均罹病日数十一日位であったものが、十四日以上に昇ったことを私は聞いたことがある。日本に於て、監獄や兵営は偽病を用ふ風習もあるが、多少罹病日数が高い。しかし、それでも羅病日数十八日より以上のものはない(人口千につき〉。鉄道省あたりの罹病日数は少し古い統計であるが、人口千につき十一であったと記憶する。日本に於ける労働者の健康保険は、くはしい研究ができてゐるが、これによっても、大体十一日から十四日位の罹病日数が、動かないととろだと私は考へる。

救貧施設としての医療組合

然しかうした国民保健に最も重要な罹病率や罹病日数の測定は、今日の開業医制度では到底算定することは出来ない。然し、貧困の原因が、五割近く病気である以上病気を救済する完全な組織体を国民は持たないで、どうして国家の方針を樹てることができるだらうか。私が救貧策の根本施設として医療組合を主張するのもまたここにある。国家には、統計局といふものがあって、死亡統計を算定し国家の最も重大なる問題としてこれを取扱ってゐる。しかし、今の処まだ疾病統計といふものが出来てゐない。然し、社会の健全をはからうとすれば、死亡率の算定と同様に、疾病率の算定が必要である。ところが、今日のやうな医事行政の個人主義万能時代では民族国家を基準としての大いなる見地からの算定は全く不可能である。算定が不可能ならば、いはんや救済は一層不可能である。
需要と供給を完全に調和せしめやうといふのが協同組合の本分である。つまり、救貧策として、最も重大事項である予防医学の立場から、一致団結して医療組合をつくり、今日町々にある衛生組合のやうなものだけではなく、一層立体的な団体を作って、罹病率を算定し、互助の組織によって、病気からくる貧乏を根絶しようといふのが、医療組合の根本方針である。

医師会と開業医制度の区別

かういふ方面から見れば、今日の医師は、全く個人的には役立つかは知らぬけれども、防貧救貧の根本施設としての医療設備に何等関係なく、いや寧ろ乱雑な医師同志の競争、時によっては営利的企業を敢てするために貧民を多く殖やすといふ怖れがなきにしもあらずである。
医師そのものは、まことに国家の宝であり医術を保護することは国民としてまた国家としてなすべき義務がある。さればこそ日本国家も公法人として医師会を認めてゐると思ふ。然し医師会と私人的開業医制度は、根本的に区別されねばならぬ。私をしていはしむれば、今日の開業医制度といふものは、実に危険極まる一種の資本主義的企業組織の上に立ってゐるものであって、どれだけの病人数と、どれだけの罹病日数がその市町村にあるかを算定しないで、ただ無鉄砲に企業されたる最も旧式な相場師的企業であると思ふ。さればこそ、医師と葬礼社に失業者なしといはれてゐた安全なる職業としての医師が、自ら経営してゐる病院を売りに出したものが東京でも大阪でも最近無数にあるではないか。

医療機関の都市集中と浪費

あるひはラヂオ放送により、あるひは医学新聞によって或は新聞広告によって、無理な広告費を使はなければ、自己存在を社会に知らしむることは出来ない、といふやうな医術と何等関係のない商業宣伝を行はなければ、経営が持たないといふことは、全く医術の本質に反してゐると私は思ふ。最も気の毒なのは、地方の県庁所在地などに行くと、医師と病院が軒を並べて競争してゐることである。それは全国百二十六の都市を訪問して私が感じることである。何故にかく医師は都会に集中するか? 三千二百の農村は医師の来てくれないことを泣いてゐるのになぜ医者は、惨酷な競争を敢てするために、都会に集まる必要があるか? そしてなぜ彼等の間に病院を人手に売払ふ必要があるか?
ある医師の告白

ある医師は十五万円かけて病院を作った。しかし子供が不良で後嗣が出来ない。これを人に売る場合には三万円しか値打がない。それであるインチキ医学校に頼んで是非息子の卒業を保証してくれと現金まで見せて運動したといふことである。何たる浪費であらうか。これといふのも全く仁術としての医学を狼のやうな性質を持ってゐる個人企業化して行かうとする無理から起ったのではなからうか。若しもその地方の住民自らが利用組合の出資法によって、医療組合を造り、それによって、十数万円の病院を建たとすれば、その病院はいつまでも十数万円の価値を有してゐる。私は、日本の中都会を訪問していつも感じることは如何に医者が金銭を浪費してゐるかといふことにある。これは全く競争組織を基礎にした開業医制度の弊害がかうせしめたのであらう。

開業医競争費の分担

残念ながらこの医師の個人企業的浪費は、誰によって負担されるかといへば勿論それは貧しい患者の上に頭割にされると考へねばならぬ。記憶せねばならぬ。病人は純粋の消費者であり、生産者ではない。ことに長期の病にかかってゐるものは、本質的に貧乏人である。その貧乏人が、医師相互間の個人的企業からくる競争の浪費まで負担しなければならないといふ道理がどこにあらうか。我々は新しい時代に於て、新しい医事行政が必要だと考へてゐる。即ち医師相互間の競争を省き医療設備の節約を計って、全国三千二百の医療設備なき村々へ波及せしめる必要があらうと思ふ。
協同組合による医療機関の勃興がドイツ、フランス、イギリス、デンマークあたりで行はれてゐるのは全くこのためである。私は、日本のやうな貧乏な国は、一層この点に注意して、病気から貧乏しないやうにまた病気にかゝっても浪費をせぬやうにするのみならず、徒らに競争のみに熱中して病気の所在地に医者がゐないことがないやうに心掛けねばならぬと思ふ。
開業医制度より組合医制度へ

かういふ意味で私は、国家としても、また社会としても、医師会を大いに保護しまた援助しなければならぬと思ふ。けれども開業医制度を、氷久性あるものとし、絶対的に保護する必要はないと思ふ。むしろ今の開業医諸君が進んでその地方の住民と相談して、医療組合の形式をとるならば、自分の子供に医者がないからといって、自分の建た病院を二束三文に売払ふやうな、拙い方法をとらなくともよいと思ふ。全国に協同組合を基礎にした医療組合が出来上れば、医学校を卒業した貧乏な医者が、どの方面に就職していゝかの方向も定まり、医者としても、どれ位の需要が社会にあるかといふことも、いつも測定し得ると思ふ。

営利を離れた医療協同組合

殊に日本は結核の国である。約百二十万人の肺結核患者があると推定されてゐる。之等の患者のうちには、相当な家庭のものもある。しかし、大きな病院に入るには金がなく、慈善病院には方面委員が入れてくれないといふのが、全数の九割以上だと思ふ。これらの憐むべき結核患者に対して、医師はどういふやうな態度をとるだらうか。営利を離れた病院がこゝに出来、互助組織によって、高原療養或は温泉療養の設備が出来れば僅かな費用をもって大いなる効果を収め得ると思ふ。そしてかうした仕事は、全く個人企業では出来ない性質のものである。さればといって、政府に之を強いることは出来ない。そこでどうしても、医療組合が生れ出て、自分の救済を社会組織の力を俟ってやらなければならないのである。我々は、飽までも医師会と提携して、個人企業による医療設備の浪費をはぶき医療組合運動による我国の防貧運動と民族の保証につとめなければならぬと思ふ。