『医療組合論』第十章 開業医制度と医療組合

第十章 開業医制度と医療組合

一本の注射料

医療組合が収入を増すために注射しなくともいゝ薬を注射するといって、ある開業医が、組合病院を攻撃する。我々は彼等の認識不足を笑ふ前に、彼等が、新しい時代の社会意識に目ざめることの遅いのを悲しむものである。組合病院は、開業医制度のやうに利益を中心としないから、損した組合には組合員相互の損失として共同責任になるのであるから、一本位の注射を多く売る必要がない。彼等は実費診療所と組合病院とを同一視するほど認識が不足してゐる。開業医などであれば、その本質が営利本位であるから、自己の生活を維持するために、わざわざ患者をひっぱる必要があるかも知れない。然し医療利用組合では、医師の給料は組合が保証してゐるのだから、組合員は病気を早く治して貰った方がいゝのである。かういふことを考へると、開業医制度のもとに於いては、病人が多ければ多い程医者は喜ぶ傾向があり、組合病院の場合に於いては、患者を多く製造せられた場合には組合員はすぐ之れを総会の問題として論戦を戦はすに違ひない。斯くの如〈、医師道徳の完成は、医療利用組合のやうなものが発達して、初めて保持出来ると思ふ。

医師道徳の理想

医師道徳の理想からいっても手段からいっても動機からいっても今日の開業医制度では完全を期することは出来ない。まづ理想から考へてみよう。医師は医術のために開業するよりか金儲けのために開業するといふことが大いにある。それは勿論、中には篤志な医師もあって、無料で多くの患者に薬をあげてゐる人もあるであらう。然しさういふ人は、親から財産をもらってゐる人がさうするので、彼がもしも生活の安定を欠いた場合に、どれほど仁術としての医術を守ることが出来るかは問題である。旧幕時代に日本の医術が仁術であったといふのは、多くの医者が生活費を大名から受けて、大名以外の人を見るときには薬価を納めずに無料或ひは心づけで診察し得たからであった。
今日の官公立病院は、それに多少類似してゐる。たゞ官公立病院では患者が医師に対して不平をいふ機会が与へられてゐない。病院の組織は官僚的であり、患者の方に自主的な権限が与へられてゐない。真の病院は患者それ自身の心理を重んじ得る民主的組織を持ったものであらねばならぬ。それで医師道徳の完成を期さうと思へばどうしても医療利用組合を発達させる、必要がある。
医術の理想からいへば、病人が一人もなくなるのが理想である。それが反対に病人を増すやうになる医術があるとすれば、それは資本主義制度のもとに発達した営利本位の医師である。協同組合時代に於ける医術は、医師を雇ふ場合には予防医学の発達のために雇ふ事である。それで医者は病気がなくなっても雇ふておく必要がある。協同組合による医師道徳の完成はかういふ理想のもとに基礎をおいてゐるのである。

人格の介在

その次ぎに手段としての医療組合は、これまた近代道徳の上に立った真に適当なる組織である。今日の開業医制度は、医師相互間の競争と、勉学時代の投資に対する決済の為めに無理をして早く成功せんとする傾向がある。それで、病院の経営にも診察所の経営にも非常に無理がある。医療利用組合は、競争する必要がなく、団体が医師を信用して招聘するのであるから、そこに何ともいへぬ温かさがある。相互の問に尊敬がある。実費診療所や開業医であれば、一度来て癪にさわればもうやめてしまふといふことが出来る、けれども組合の医者はさうはいかない。組合と医者の関係は人格的関係である。医者が月給が少いからといってぷんぷん怒るわけにいかない。開業医であれば、胡麻化しも出来るけれども、組合医であれば凡ての問題が組合員の間に広まってしまふ。そんな事で医師道徳はもう一度本道に帰ってくる。

公明なる世界

医薬分業にする場合でも、医療組合であれば非常に簡単に出来る。然し今の日本であれば、患者をして医師にどれだけ払ふ必要があり薬にどれだけ払ふ必要があるかを理解せしめることは非常に困難である。しかし組合員であれば、毎月毎月の決算が、全部の組合員にわかるために、組合員は医薬分業に対する理解を早める。
組合の医者は組合に奉仕せんとする動機より出発し、開業医は儲けんとする動機から出発する、奉仕せんとするものは窮屈な思ひをせねばならぬ。儲けんとするものはやりっ放しで結構である。前者は安定と組織を望み、後者は不安定と混乱を持つ。社会はこの不安定と混乱に耐えられない。我々は医師諸君に生活問題を離れて治療に専念せられん事を望むものである。この点に於て医療組合は、医師をして安んじて執務する便宜を与へ患者をして安んじて治療をうけしめる誠に輝かしい未来を持ってゐる。協同組合の組織によってのみ医療事業の如きは初めて互助による道徳を完成し、新時代の文化をこゝに完成することが出来る。
医師諸君の心配は、開業医師諸君が直に失業することを怖れてゐられるやうであるが、我々は、失業者を救済し困窮者をば救済することがその主眼であって、医師諸君を窮迫に陥れることを目的とはしてゐない。もしも、医師諸君に多少とも不利益なことがあるとすれば、それは医師諸君の都市集中を防ぎ、日本全国に公平なる配分を希望する結果、多少移動してもらはねばならぬことである。そしてあるひはまた、医療によって多額の金儲けをしてゐる方々には、さうした剰余価値の発生を防ぐために損失を与ふるかの感を与へるかもしれない。然し、ドイツに於て医者の失業者の声を聞かない如くに、もし全国的にこの医療機関が実施される日が来れば、今日の開業医が、患者の少きを憂ふるやうな心配は絶対にないと思ふ。

医療組合と医師の利益

医師は医療組合によって四つの利益を得る。第一生活が安定し、相当な報酬を組合より支払はれ、第二に病院設立の資本金に隷属するやうな心配はなくなる。今日の病院の悩みは、五万十万といふ多額の資本金を必要とすることである。もし、組合員がその金額を積立てさへすれば、医師は私立病院を経営するために、高利貸から金を借りたり、銀行から金を融通したりして、無理な金算段をする心配はなくなる。第三には、開業医間の競争の必要もないし、無用なる広告費に毎月幾百円を使ふ心配はなくなる。第四、そこで、患者が減ってくれば、孤立無援をかこう喞(かこ)って村を棄て町へ集中するやうな放浪性を帯びた医師がなくなるわけである。
今日の開業医制度は一種の投機的企業である。大きな病院を設立しても流行するか流行せぬか別らぬやうなまるで大相場師と少しも変らない。このやうな不安定の組織を持ってゐるより、確立したる領域を保ち、必ず社会に貢献し得るといふ認定が初めからついて居れば、研究心も湧くだらうし、社会に貢献することも多いのである。
即ち、患者と医師との両方の立場を考へて、国民はどうしても、産業組合法による医療機関を作らなければ、今日の如き国家窮乏の際に民族を救ふことは出来ない。
人或ひは、我々が組織せんとする医療組合に資金がないとかいふ批評を加へるけれども、結束して既に一年間に二万円以上の金を出資して、黙して平気で居るやうな、東京医療組合のやうなよき組合員がどこにあらう。彼等は全くこの医療組合運動のほかに、国家を救ふ道がないと思ふから、我々の組合に出資してゐるのである。従ってもしも、これが活動を始めさへすれば必ずや、大病院に劣らざる設備が出来ると思ふ。
人はまたいふ、医療組合の診療費が安すぎると。これは我々の機関が、金儲けを目的とせず広告費を必要とせず、他の開業医と競争する必要を認めず、奉仕的医師が喜んで医療の社会化のために尽さんと努力せられるから安いのである。然し、もしもあまり我々の考へてゐる診療費が安すぎた場合には、組合の総会に於ていくらでも訂正する。

愛国的立場から

如何にすれば、全国に散らばってゐる三千二百の医者なき村に医者を送るか? 医療組合の他に医者を送る機関はないではないか。強制的国民健康保険を作るにしても、結局は、我々の主張するやうな医療組合を母体としなければ、全国的に保険組合を作ることは出来ないではないか。即ち我々の主張する処は全く、国家的に我国を救はんとする大理想のために出発したものであって、私人的営利を目的とせず、経済的国難に処する一つの道として考へてゐるのである、医師会の賢明なる諸君に於かれても、よくこの事実を理解せられ、あくまで我々と協力し我々を鞭韃し、共々、国民保健の実践をあげられんことを希望する次第である。

医師会と医療組合の提携の必要

我々の医療組合運動に反対せられる医師会もあるやうだが、それは全く認識不足からきて居る事と思ふ。我々は今日の医師を憎んではゐない。むしろ医師会と一般社会の組織的連絡のない事を悲しんでゐる。我々はあくまで医師会と連絡をとって、日本国家を救はうと思ってゐるのである。我々は労働組合を認め、サラリーマンユニオンを認めてゐる。況んや医師の社会的組織を破壊しようとは毛頭考へてゐない。然し、今日の開業医諸君が、(一)生活の安定と、(二)金融に対する隷属性と、(三)相互間の競争と、(四)投機的企業を廃して、日本民族に貢献しようとするならば、我々の主張する産業組合法による医療利用組合と提携するほか道がないではないか。