『医療組合論』第十一章 予防医学と医療組合

第十一章 予防医学と医療組合
衛生学の立場より

何故医者が六万人からあるのに、日本の死亡率は殆ど減らないか? 昔医者が、今日の五分の一乃至六分の一しかなかった時でも、その死亡率は殆ど今日と同じであった。これは実に皮肉な話で、人口は二倍にしかならず、医者の数は六倍になっても死人の数が減らないといふことは、今日の医学が予防医学に立脚せず、病気は増加しても之を未然に防ぐ力のないことを意味してゐる。
一体医者といふものは病気にかゝったものだけを治していゝものだらうか? 私の考へでは、医者は病人だけを相手にせず、健康者をも相手にすべきものであると思ふ。ニユウヨークにおいて訪問看護婦制度が出来てから、出産千に対して死亡率が千分の一といふ驚くべき乳児死亡率が減退したといふことは、予防医学が如何に効果を持つかを意味してゐる。しかもこれが貧民窟のやうな、恐ろしく境遇の悪い状態におかれた乳児ですら、予防医学の発達により、ここまでに死亡率を減退し得るのである。それであるから、日本の農漁村及び都市の細民街において、訪問看護婦制度が徹底すれば、疾病を未然に防ぐことは容易である。

病人の増加を待つ医業を憐む

今日のやうに医者は病人が頼みにくれば個人的に診てやるけれども頼みに来なければ、何時までも、知らぬ顔をしてゐるといふやうな状態が続けば、医師の数が現今の十倍二十倍になっても、我国の死亡率は余り減らないであらう(滑稽なのは医者が患者の数の増加することを喜ぶ傾向である〉。医療組合の大きな目的の一つに我々が訪問看護婦制度を加へるのはこの点にある。東京医療利用組合は往診専門の医員と看護婦の力によって組合員の健康状態を平素より全部診断してゆくことは勿論のこと、組合員の健康カードに従って、その家庭の構成員数、住宅採光、通風、夜度、生活様式とを、つぶさに研究、丁寧なる衛生運動を平常より行ひ、罹病率の減退運動をはかることを組合として計画してゐる。
健康者も医療組合に加盟せよ

普通の病院であれば、患者が来なければ潰れてしまふ、然し医療組合は組合員の死亡率及び罹病率の減退することを誇りとしなければならない。そのために病人だけが医療組合に加入するだけでなく、健康者も加入しなければならぬ。そして病気の時だけに治療費を払ふのでなく健康の時にも、訪問してくれる医師または看護婦に対して、僅少なる往診料を払ふことによって、病気にかゝった時の幾十分の一の、或は幾百分の一の費用によって、完全なる保健運動が出来るやうに努力せねばならぬ。
衛生運動としての医療組合

今日の衛生組合はこゝまでは徹底してゐない。医療組合が発達すればこゝに完全なる、最も進歩した予防治療運動が完成するのである。常識から考へても分りそうなことであるけれども、都市に住んだり工場に勤務したりしてゐる人は自然と無理をして、必然的に病気にかゝるやうな生活を続けてゐる場合が多い、こういふ時にある方法を医者より教へられることは、命を拾ふやうなものである。殊に赤ん坊の生命の如きは、予防医学の発達によって、充分寿命をのばし得るのであるから、医療組合がこの方面に貢献し得る領域は絶大であるといはなければならない。今までの治療設備であれば、軽いうちに治すことは非常に困難である。何故なら、どんなに軽くても、一寸診て貰へば直ぐ相当の金を払はなければならぬ。そして一服の薬でも貰って来なければ医者に済まないやうな気がする。
けれども組合の治療運動となれば、医者は抱へ医者だから何回診てもらはうと医者に対して遠慮は要らぬ、それで軽いうちに医者の忠言を聞いて充分治療することが出来る。かやうに考へて来ると、医療組合の発達によらなければ絶対に予防治療の効果を現はすことが出来ない。

入院費より衛生費に

日本において衛生思想の遅れてゐるのは、衛生組合に権威がないからである。衛生組合に権威あらしめるには、どうしてもその地方にある医療組合が自覚しなければならぬ。即ち組合員が病気にかゝって払ふ金を、衛生運動につかひ、或は採光に、或は通風に、或は食物の摂り方に、平生から注意すれば、日本の死亡率の如きは忽ちに減退することゝ思ふ。寒い満洲の日本人の間の死亡率が、比較的温かい山陽地方の死亡率より少いといふことは、満洲の日本人の間に衛生思想が発達してゐるといふ大きな理由があると思ふ。勿論そこには比較的老人が少いといふ理由もあらうが満洲の乳児死亡率の少いところを見ると、衛生の常識によって病気を未然に防げるといふことが、これによってよく分る。

身体検査と医療組合

学校においては、一年に二回位の身体検査があるが、民間においても一年二回位の身体検査は、ぜひする必要があると思ふ。そし寄生虫の有無、結核の早期診断、血圧血液の検査までを行ひ得るならば、これこそ真に予防医学の徹底を計り得るのである。平常より親しい医者であれば、どんどんすべてを告げることが出来るし、叉医者としても患者の健康と習癖と心理をよく理解してゐるために、患者の疾病の内容をよく理解することが出来る。
新しい時代のお抱へ医者

例へば私の如き、普通の医者は私の健康を見て、その悪いのに驚くのであるが、私の平素を知ってゐる医者は、私がどんなに悪くっても、病気に勝つ力を知ってゐるために余りびっくりしないで、適当な薬を与へてくれる。即ちお抱へ医者の便宜は全くこゝにある。しかし我々の如き無産者は金持と違って、立派な抱へ医者を置くことは出来ない。たゞ幾百人、幾千人と集まって名医を抱へることは出来る。我々はこの意味において、どうしても新しき時代のお抱へ医者としての、運動を始めなければならぬ。
之は出産の場合についても同じことがいへる、金持であれば余り心配しないけれども、無産者の場合には引越しが多い、甲の場所で良き産婆にかゝってゐても、乙の場所に引越した場合、どういふ産婆がいゝか見当がつかない、そして叉ある人に教へられて良い産婆にかゝっても、どれ位の料金を取られるか非常に不安である。之が組合であれば、電話一つで女医の訪問も受け、叉産婆の来診も受けられるのである。
それが甲から乙の場所へ移っても、組合員である間はお抱へ医者としての組合の意思を最も有効に使へるからである。こうした互助組合意識のもとに出来た医療組合にして始めて、予防医学の達成が期し得られる。
医療組合をただ病人だけの運動だと思へば、大きな間違ひである。これは健康者の寿命を長くするための運動である。村を救ひ、町を救ひ、国を救ふ運動である。病弱者と共に健康者も加盟して一国の死亡率を減退せしめるのみならず、一民族の寿命年齢を延長する工夫は、只一つ医療組合運動によって最後の階段に達し得る。