『医療組合論』第十三章 医療組合による医療の社会化

第十三章 医療組合による医療の社会化

個人医学の社会化

日本に於る死亡率が、約五十年間、人口千に対して約二人位しか減退してゐないことは何を意味してゐるだらうか? これは個人医学の発達では、日本民族の死亡率を減退し得ないといふことを意味してゐるのである。
日本の医科大学が十二に増加して医学専門学校が二十五に増加しても、俄然都市の死亡率が上昇するのは、何を意味するか?  それは他でもない個人医学は、社会病理から来る疾病を治癒し得ないといふことである。
いくら個人医学が発達しても開業医制度が貧民の数を減退せしめ、国民の無産化を防止し得ないならば、死亡率は決して減退するものではない。個人医学の失敗は、全くこの点にある。今日の応用社会学は、我々に次のことを教へる。即ち、収入が減退すれば死亡率は増加し、不良住宅の多くある地方ほど、死亡率は昇騰する。また、一家族に対する部屋数に反比例して死亡率は減退する。この反比例は、畳数についてもいへる(賀川豊彦著『農民心理の研究』)一七〇―一七二頁参照)。これは職業的に就いても同じ事がいへる。いくら個人医学が発達しても、工場衛生が発達せず、職業病が減退しない間は、一民族の死亡率は減退するものではない。我々が医療の社会化を叫ぶ理由は、全く此処に存する。
衛生の社会化と医療組織の社会化によって、欧米諸国の死亡率は著しく減退した。それは、健康保険の施行された諸国と然らざる国とを比較するがよい。ドイツに於ても、一八七〇年代は、人口千に対して二八・八位あった(プリス『社会改良辞典』参照)。それが今では、その三分の一に近い死亡率を見るやうになったではないか。これは全く個人医学の力ではなくして、ドイツの保険組合の力によるといはなければならない。

社会医療への四つの障碍

今日までの社会衛生と称するものは、主として水道を敷くとか、下水を設けるとかいった程度のものであって、組織ある組合運動をもって、治療医学は勿論のこと、予防医学の世界にまで努力することが出来なかった。それといふのも、患者対開業医、開業医対国家の関係が、組織的になって居らず、たゞ出鱈目に組合化されていったといふ形態をとったからである。
なぜ、今日の開業医が社会医学の方に発展出来ないのか、それには四つの理由がある。
一、今日の開業医はあまりに投機的である
二、今日の開業医は、資本に隷属する
三、今日の開業医は、収入が不安定である
四、開業医の間に、余り自由競争が多すぎる
以上述べたものゝうち、開業医が投機的になるといふのは資本主義的交換経済の投機性からきてゐる。
投機的開業医制度

個人医は体温を計り、脈をとり、検便し、打診し、エツキス光線をとって診察するに拘らず、ある特定の地区に、如何なる場合、如何なる疾病が幾何あるかを測定せずして、無闇矢鱈に、診察事業を開始し、病院を建設する。これ程無謀な投機事業があらうか。国民の智力を一つの資源とすれば、何千人の患者に対して何十人の医者が要るといふことを、組織的に統制してこそ民族の治療が完全に行はれるのではないか。然るに、今日の日本の開業医制度を見よ。約一万一千の農村の中、昭和五年の統計によれば、三千二百三十一の村に、医者がゐないといふやうな状態ではないか。それに反して、都会には医者が過剰になり、東京市だけでも、六千に近い医者がゐるといはれてゐるではないか。即ちこれを見ても、医者の分布が全く偶然的であり出鱈目であるといふことがよくわかる。
私は、東京市各区の罹病率の不明確なのにおどろいてしまった。
こんなことで、どうして一民族の保健の確信が出来ようぞ。我々は、水道の鉄管を敷設する如くに、また用水量を適確に認識して、貯水池を設ける如く、一地区の罹病率を明確にして、医師を動員すべきでないか。かうしてこそ、初めて社会医学の徹底が期せられるのではないか。この一地区の罹病率の計算は、一地区に医療利用組合を組織し、その医療利用組合を通じて、診療を行ふ様にすればそれが明瞭になるではないか。もちろん、他の名医に診て貰ひたければ、医療組合から、その名医に紹介するやうにすればいゝではないか。
今日の如く、医師が偏在してゐては、民族の保健運動に、一大障碍が起ることは必然である。即ち、無産階級は(それが農民でも、労働者の家庭でも)よき治療の機会を失ひ都市の中産階級と、国家の保護をうけてゐる極貧者のみが優秀なる治療の特権を得るだらう。
私は、民族治療の上に統制あることを望む。私は、日本民族が、一個人でなく一民族としての完全なる治療の統制を持たなければならぬことを主張する。そのためには、偏在から来る浪費と、欠乏の混乱、無用なる医師の供給と、病院の建設、さては、農村患者の無用なる旅行と時間潰し――かゝる民族エネルギーの浪費は、健全なる国家が耐え得るものではない。
かうした理由によって、私は個人的開業医制度は速かに、国家の統制せられたる医療の自治体、即ち医療組合に基礎を置くべきものなることを主張する。

国営健康保険と医療組合

私がこゝで、医療の自治体といふことを主張する理由は、国家といふものが、市町村の自治体を基礎にしてゐる如く医療国営の暁に於ても、医療の自治体としての医療組合が国営の一単位をなさねばならぬことをいふのである。私はドイツ国民の健康保険に対する不平、叉英国民の健康保険に対する不平を度々聞いた。その不平は医療の自治体を組織しないことから起ってくる不平である。即ち、国家が患者の意志を尊重せずして、開業医とのみ契約するために、開業医は営利を基礎とし、儲からなければ、保険患者を虐待し、儲かれば優遇するといふ功利的な手段に出る。これは既に日本に於ても一部の労働階級が、健康保険医に対して抱いてゐる感情と同一のものである。
もしも、国家が医療組合を通じて健康保険を実行せしめるなら、かうした不平はなくなってしまふ。したがって、健康保険ヒステリーなどいふやうなこともなくなる。或地方で聞いた事であるが、今月の健康保険は、自治的訓練がないために、保険金を納める患者は、医者に儲けられるといふ考へをもった患者がある。それで、健康な労働者でも歯が痛いと称して、二ヶ月も工場より外出を続け、病気の時には日給の半額を支給してもらひ、怠けることを喜ぶ風習が出来る。その反対に、医者も患者に長くきてもらった方が収入が多いので、営利本位から患者を訪問する。
かうした治療費の浪費は、訓練ある医療総合の自治組織によって、補正することが出来る。即ち、罹病率が少ければ保険金を減らすといふ組織をとるか、治療費があまった場合には、保険金をかけた健康なものに払戻しをするとか、温泉に入れてやるとか、といふ様な方法をとれば、欺瞞的な浪費がなくなる訳である。今全国百十五万の労働階級とその雇傭者が、政府の援助を得て、一年間二千万円の金を健康保険の資金として消費してゐるが、もし医療組合的にやれば、その金額の何割かゞ必ず、医者に損害を与へずして節約出来ると信ずる。即ち、私は、今日の個人医学は速かに社会化して、国家全体を基準とする統制医学に基礎を置くべきことを主張する。そしてそれは、医療組合を基礎とすべきものであって、医療組合の上に、国家的健康保健を据えなければ、医師も患者も、精力を浪費するものであることを私は主張する。
開業医の資本への隷属

更に私は、今日の個人医学を基礎にする開業医制度は、搾取的資本主義形態の上にのっかつてゐるために、その金融組織が、全く大資本家に隷属するやうになってゐることを認識せざるを得ない。さきに述べた如く、今日の開業医制度は投機的企業である。それで患者が来るか来ないかは判らないけれども、ある医者は病院を開きたくなる。その病院も少し完備したものになれば、数万円の資本が要る。そして日本の八割四分の人民は、年収入八百円以下であるから、貧乏な医学校の卒業生に、そんな数万円の金の準備があらう筈がない。そこでどうしても、高い利息を払って資本家に隷属しなければならない。資本家に隷属した以上患者は薬代としてその資本家へ利息を払はせられる。もちろん、これは、その医者が流行した場合である。もしも、流行らなければ、医者は借金して苦しむのである。かうした冒険を恐れて、有名な医者でも開業を恐れる。もしこれを医療組合によって資本を提供し、競争なき地域に於て、よき病院を完成すれば浪費は全く省け患者は治療費を浪費する必要がなくなる。小さい戸数五百戸しかない町に、三人の医者があるとしてその三人の医者がみんなレントゲンを持つ必要がどこにあらうぞ。組合病院を建設して一つのレントゲンで十分ではないか。三人の医者は金を借りて、三台のレントゲンを据え、その三人の医者は、患者から、治療費を請求して、その代金を支払ふ。そんな無用な費用を、節約しなければ、非常時日本を救済することは出来ない。

生活不安と開業医

第三に、生産者としての開業医は、あまりにも収入が不安定である。さきに述べた投機的企業の関係で、流行る医者と流行らぬ医者があり、患者に変動があり、季節に影響をうけ、勤労者としての収入が全く安定を欠く。もし医療利用組合が、医師の生活を保障し、その勤労に対して、更に報ゆる処があれば、医師は、医学に専念出来る。今のやうな不安な形態に於ては、医者は、医学に専念することが出来ない。医者はあまりにも経済方面に心をとられて、患者の手を握る度毎に、この患者からいくら報酬がとれるかといふことを気にするだらう。かうした問題から医者を解放しなければ、真の医学は進歩しないと私は信ずる。
医者の収入は、既に述べた通りであるが、薬の価格、また医療器具の価格の変動は、あまりに甚だしい。もし、統制経済により、医療利用組合が、日本民族に対する凡ての薬物及び、材料を供給するやうになれば、哀れな病人を相手にして、搾取をする金持はなくなるはずである。統制なき開業医制度は、統制なき薬物及び材料の価格を生んでゐる。米価が統制されるなら、私は薬物及び材料の価格をも統制さるべきだと信ずる。日本民族が衛生費及び医療費につかってゐる金は、約六億円であるが、そのうちで、薬口屋や材料屋に搾取されてゐる金額は、頗る多いと信ずる。この搾取より逃れる工夫は、医療組合のほかに道はない。

開業医と自由競争による浪費

更に、個人医学を基礎とする開業医制度は、激甚なる自由競争制度である猛烈な広告と、肩書、宣伝等によって、優勝劣敗の悲喜劇を演じなければならない。そのために、一開業医が死去すれば、そのあとの病院は売物になり、設備は無用となり、その民族の浪費は、結局患者の負担となる。私は、学問のために競争する事は悪くないと思ふ。しかし、治療を離れた無用なる宣伝競争は、全く無意味であると思ふ。広告は、何々に限るとか、何を広告してはならぬとか、あまりにもあはれな規則は何を意味するか。それは、医療制度に統制のないことを意味してゐるではないか。医療組合制度を完全に実行すれば、かうした自由競争はなくなる。それで、患者は広告費を負担する必要はなくなる。
或人はいふかも知れない。自由競争を廃するためには、何も医療組合によらなくともいゝではないか、自治体に於て市民病院を組織してゆけばいゝではないかと。
然し、これは縦の半面だけを見てゐるのであって、患者が申合せなしに組合を組織してその市民病院と連絡すればいざ知らず、今日の形の組織に於ては、市民病院と開業医制度は、絶えず競争しなければならない。医師の競争制度を廃止する力は患者にある。否患者の組織化されたる医療組合にのみあると私は主張するものである。
以上私は、個人医学を基礎とする開業医を投機的方面からと、資本への隷属の立場からと、生活不安と、自由競争の立場からの四つの方面から考へてきた。即ち私は、交換制度の上からみた開業医(あまりにも投機的な開業医)と、また生産者としてみたる開業医(あまりにも従属的な開業医〉そして私は消費者としての開業医(あまりにも収入が不安であり、薬屋と材料屋に搾取されてゐる憐れな存在)及び企業形態からみた開業医(それは、あまりにも生存競争の犠牲になりすぎてゐる開業医)の四方面から観察した。そして、私は、今日の形態が統制経済のいまだ成立しない時代の形態であり、民族医学の立場からみれば、実に浪費の多い投機的な形態であることを指摘した。
それで、どうしても、今日の形態を革(あらた)めて開業医は須らく医療の自治体によって生活を保障せられる公共的社会医と変ずべきことを私は要望するものである。
無産者の立場

私は、これを無産階級の患者の立場よりあまり論じたくない。それはあまりにも、明かな事実であって、その利益は無産者にとって絶対である。無産者は、病気して貧乏してそして貧乏して更に病気する。この加速度的貧民層への転落を救済するものは、医療組合制度を基礎とする国家健康保険の道よりほかにない。然し私は、今日、あまりにも、開業医諸君が医療組合運動に反対し、医師の権威が医療組合の進出によって、全く失墜するやうに考へてゐるので、私はそれが謬見(びうけん)であると思って、との文章を書いた。それで私は、無産階級と医療組合の関係については、これを省略する。
また国家と医療組合の関係についても、多く書きたいことがあるけれども、それは他日に譲る。たゞ、こゝに私が述べた要点は、今日の個人医制度から社会医制度にうつるためには、どうしても医療組合の関門を通らなければならないことを開業医諸君に諒解してもらへば足りるのである。