『医療組合論』第十四章 医療組合の現状

第十四章 医療組合の現状

農村に於ける医療組合発芽時代

我国に於ける医療組合の発達は他の凡ゆる社会進化の過程に於けると等しく、全く自発的なものであった。しかも日本に特有な開業医制の欠陥の中より自然発生を見たものである。日本に於ける産業組合は明治初年、時の為政者が資本主義の発達につれて、中産階級の没落しゆくを喰ひ止め、資本主義に適応せしめんとして、当時ドイツに発達せる信用組合制度会を輸入し、天降り的に之の移植を図ったものであるが、その後全く日本化されて発達せる産業組合が、それ自らの機能発展の自然の結果として何時の間にか、世間の人々の気づかぬ関に、医療利用事業を兼営事業として経営し始めてゐたのである。
産業組合が兼営事業として医療部を開設せる所謂医療組合の草創時代には、何れも農村にのみ限られた至って小規模なものに過ぎなかったのである。その医療部開設の動機に就いても、第一の原因は医師の分布少くして、その地方住民一般が医療に不便を感ずるためであり、従って遠隔の地より医師を迎へるには、余りに往診料を多く支払はされる苦痛より免れんとする、経済上の理由は、第二の原因と看倣(みな)されるのである。
かくの如く、農村産業組合が必要に迫られて、自然発生的に医療部を開設せる草創の時代は、専ら医療の地理的普及の時代で、便宜のため私は医療組合発達の第一期と称することゝする。
我が国に、最初に医療組合が出現したのはさう遠いことではない。欧洲大戦の不況漸く深刻化し、資本主義末期に入れる大正十一年、不思議にも時を同じうして、岡山県と長野県に初めて産業組合による医療設備利用事業が生れたのである。
即ち同年四月に岡山県浅口郡船穂村大字船穂の船穂信用購買販売利用組合が、次いで五月に長野県下伊那郡喬木村喬木村信用販売購買利用組合が医療部を開設し、組合員の診療を始めたのが最初のものである。
今、第一期時代に出現した医療部兼営の産業組合を、分り易く年表式に記してみる。

大正十一年四月  岡山県 船穂信購販利組合
大正十一年五月  長野県 喬木信販購利組合
大正十三年八月  岡山県 国府村信購販利組合
大正十三年二月  島根県 秋鹿信販購利組合
昭和二年五月   福岡県 犬同時信販購利組合
昭和二年九月   広島県 川口村信販購利組合
昭和三年二月   愛媛県 家串信販購利組合
×昭和三年十一月  新潟県 胎内信販購利組合
(×昭和三年九月には第二期に属する青森県東青病院が設立されてゐるので、十一月開始の胎内組合は第二期に属するとも見られるが、同組合では大正十年以医療部開設の計画あり、その動機、規模等より見て全く第一期と看倣さるにより、第一期に編入する)

第一期時代に属する医療組合が、大体何れ程の規模を持てるものか、前記組合の内一二の内容を記してみることにする。

岡山県船穂信用購買販売利用組合診療部

本組合の組合員数は九六五人にして、大正十一年四月医療部開設以後、大正十五年七月迄は、医師一人にして嘱託制で、給料は給せず、組合より家屋を給するのみにして、薬品、医療器械、看護婦は医師が負担し、郡医師会の薬価規定より一割五分安、診察料無料とし、利用料は組合に於て、四月、八月、十二月の年三回相組合員たる患者より取立て、其の一割を徴収手数料として組合に収納し、残額(九割)は一切医師の所得として提供した。この四年半の間に医師は自分の家族を扶養した外に、優に一万円を貯蓄するに至った。
大正十五年十二月以降は、医師を給料制度とし矢張り一人の医師にて今日に至ってゐる。

島根県秋鹿信用販売購買利用組合
この組合からは詳細な報告書が来てゐるので、そのまゝ茲に記して、草創時代の医療組合の特質を、ありの儘把握するのに便ならしめよう。
設立動機 都市集権の今日総てに於て農村のため、慈愛深き救主たるは実に産業組合に与へられた新使命であって、生活戦の原動力たる衛生機関の完備を期し、組合員家族に何等の憂惧も抱かず安易に生活せしむる為、病院開設の腹案を有してゐたが、時あたかも医師の死亡により、村に於ける衛生機関に欠陥を生じ、交通不便の地なれば、隣村の医師を招致し、或は遠く松江市の医師に依頼するの不便と不利を感じ、為に時期後れてあたら一命を抛つものを生ずる等、村を挙げて極度の不安に苦慮し、一時も猶予ならないので、意を決して大正十三年一月通常総会に病院経営を提案したところ、村を挙げて渇望してゐたことゝ て果然嵐の如き歓呼に迎へられ熱意と感謝の涙ぐましき場合の下に満場一致可決せり。(中略)
【設備内容】 医師一名、代診一名、産婆一名、看護婦一名、
【組合区域及び組合員数】島根県八束郡秋鹿村(秋鹿、岡本、大垣の三大字よりなる一農村)を区域とし、戸数五百余戸人口二千八百人を有し、全戸組合に加入し居り、組合員数は六百九十人である。

都市中心医療組合勃興の第二期時代

第一期時代の医療組合は、何れも医師の居らないか、又は足りない農村に発生したものであり、区域は概ね一村単位にして組合員は四五百名から精々千名足らず、医者一人、看護婦一人といふやうな恒めて小規模なものであった。そして薬価は大体何れも医師会規定に準じたもので高くはないといふ程度のものであった。
従って第一期の医療組合は、その力弱く全国に普及するといふやうな宣伝力もないので、開業医制度やその他の医療機関に迄影響を与へるには至らず、土中に埋もれたる金の時代を経過して黙々として極めて徐々に伸びてゐたのである。
然るに最近数年来、恐慌いよいよ深刻化すると共に、医師が比較的多数豊富に集中してゐるといはれる大中都市を中心にして大規模な単営医療組合が続々出現するやうになったのである。
此第二期時代への狼烟は実に本州の東北端青森市に挙げられたのである。叩ち昭和二年七月産業組合法に則り、青森市外一町十箇村を区域とし、関係各町村長の意見書を徴し東青信用購買利用組合と名称を付し、着々設立準備を進め、同年八月より設立申請者一千名、此の出資口数二千口を最少限度として募集計画を定め、直に勧誘に着手、賛同調印者七百五名を得、昭和三年九月より青森市浦町の借家に組合医療所を開設したのである。
さて、第二期に入りての医療組合は、第一期待代のものと全くその趣きを異にし、組織の動機、沿革の中に一層積極的なるもの経済的階級的普及の思想を見出すのである。この東青医療組合の設立動機については、同組合創立者にして組合長たる岡本正志氏の述ぶるところを聞かう。
『抑も、私が医療事業を産業組合組織に依り経営せんと企図致しました所以のものは、彼の欧洲戦争後、我が国の経済界は世界的不況の余波を受け、金融極度に逼迫し各種産業は萎縮不振の度を増し、不景気は逐年深刻味を加へ、各地に倒産失業者続出し、殊に農村の疲弊困憊の極に達し、中小産者は全く塗炭の苦しみを甜めつつある様であります。
斯かる不況の場合に直面致しまして、我々人生上最も苦痛にして、且つ最も脅威を感ずるものは突発的に病魔に襲はれたる時に、経済的関係から直ちに医師の診療を受くることが出来ないことであります。殊に肉親の者が、病魔に襲はれ病床に呻吟して、生死の岐路に彷へるが如き苦悶の姿を座視する家族に於て一層其の感を深うするのが人情の常であります。(中略)
昭和聖代に斯かる不祥事のあることは、人道上黙過するに忍びず、せめて青森市及び其の隣接町村丈けにでも、中産階級以下の団結により即ち産業組合法に則り、利用事業として病院を建設し、学識手腕ある名医を招聘して、最も便利に、最も低廉なる料金を以て、互に利用したならば、前述の如き悲惨事を未然に防止し、普く人類の上に幸福を齎(もた)らし、共存同栄の実を挙ぐることが出来得るものと確信致しまして、即ち「団結は力なり」とのモットーの下に粉骨砕身此の事業に一身を捧げんと決心した次第であります』
以上の如く、東青医療組合が青森市に出現して以来、翌昭和四年三月に高知県須崎町の高陵利用組合昭和病院、同年九月に東京府下八王子市に八王子相互診療組合(後に多摩相互病院と改称)、昭和五年七月には、鳥取県倉吉町に利用組合厚生病院、昭和六年には島根県に石西利用組合共存病院、青森県弘前市に利用組合津軽資生療院等代表的な大医療組合が設立され、その他各地農村にも大小多数の医療組合が出現するに至った。
そして遂に昭和六年の五月には、新渡戸博士、及び私等を中心にした東京医療利用組合の設立認可申請が、忽然として東京府へ提出され、帝都にも医療組合が愈々その旗翻へし、日本医師会の反対妨圧に会ひ遂に医療組合対医師会の全国的抗争となり、一箇年一箇月に渉る闘ひは全国へ医療組合宣伝の絶好の機縁となったのである。
東京医療組合が医師会と猛烈な抗争を続けてゐる間に、同組合とは姉妹関係にあり気脈を通じつゝ創立された秋田医療組合が、地方であったことの有利や、戦術の巧妙さから、同様な医師会の反対を一蹴して翌七年一月認可を獲得、同二月一日より華々しく診療開始を見たのである。そしてこの秋田医療組合は組合員六千余名を以て事業開始するや、患者は門前に殺到し、忽ち組合員は一万人近くに激増し、止むなく早速大規模な病院新築に取りかゝるといふ勢ひ、この好成績に刺戟され秋田県下到る所に、一斉に医療組合運動が蔓延し、茲に於て、これ迄はあちらこちらに燻ぶってゐた火の粉も、秋田に起った一陣の北風に、瞬く間に燎原の火と化し、今日の如く全国に燃え拡がるに至ったのである。
第一期時代は全く自然発生的であり、第二期に入るも、東京医療組合以前のものは、未だ何処かに自然発生的な臭ひを持ってゐたが、東京医療組合に至っては、全く意識的発生であり、社会改造途上の一聖戦として起されたものであり、従来の開業医制を批判し、之を根抵より覆へし、新しき医療制度の樹立といふ、全く医療制度上の革命運動としての目的のもとに出発されたものであった。それ故にこそ関業医同業組合としての医師会の反対も、誠に根強く執拗なること、成程とうなづけるところもあるのである。
これが社会改造運動の一端として企図されたものであるが故に、私共同志等が、協同組合運動の砂漠と云はれる大都市東京の真ん中に凡ゆる不利を忍んで計画したものであり、実際私共は日本の中央である東京に、たとへ小さくとも、一つの標本を示すことにより、全国にこの運動を速かに宣伝することが可能だと信じて東京医療組合の設立を企てたものである。その協同組合主義的社会改造運動への意図は、次の同組合設立趣意書を一読することによって一層明かとなるであらう。
有限責任東京医療利用組合設立趣意書

疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙(とひ)の別なく享受せられなければならぬことは言ふまでもありません、古来医術が仁術として為されて来たことは、その本来の性質から見て当然なことであります。然るに今日の社会に於ては凡ゆるものが然るが如く、医術が亦営利制度の下に運営せられて居る結果、経済的に治療費の負担に堪えない者は医療の保証を受けることの出来難い実状に置かれてゐます。
勿論かゝる医療の社会的欠陥に対して、極貧者には社会事業として施療病院が存在し、叉工場及鉱山労働者には健康保険法の制定がありますが、尚之等の施設に与り得ない処の大多数の民衆は、医療に多額の費用を要し困憊してゐます。今日完全に医療を受け得る者は少数の金持か然らざれば極貧者と銘打たれた僅かの人々に限られると云った奇怪な社会現象を呈してゐます。我国の医学は世界的に誇り得るまでに発達しながら然もこの恩恵に浴する者が斯く制限されてゐると云ふことは、国民保健の上から見ても、又社会正義の立場からしても、誠に遺憾この上ないことゝ云はねばなりませぬ。
茲に計画せる協同組合病院は、かゝる医療制度に代るに医は仁術なりとの本来の精神に新しき経済組織を与へ、以て組合員の協同の福祉のために運営せんとするものであります。即ち組合員の協同経済による医療並びに保健の設備を為し、信頼するに足る医師、看護婦、産婆等を置いて懇切なる治療、保健の指導援助をなさんとするものであります。故にこの制度は多数の人々の協同の力によって、団体的に綜合各科を備へた『抱え医』を設くるものと云ひ得べく、今日私共の生活を脅かすことの最も大きかった疾病の不安は、かくて漸く除かれ得るであらうことを期待します。協同組合病院は、斯く個人としての医師の及ばない経済上の問題を解決し、更に医療上に於ても、各専門医の協力と綜合による組織的医療を行ひ得ること、進んで治療の根本問題であるところの組合員の保健即ち予防医学まで誠意を以て徹底的な貢献を為し得る点に於て、特色を持つものであります。
組織化せる保健運動! これ本組合の直接目指す処の目標でありますが、私共が医療事業を特に協同組合の型態に於て経営せんとする所以のものは、この運動が国民の凡ゆる層に及ぼし得べき性質のものであり、且今後の社会的施設が国民の保健を重要のものとして意識される限り、新社会の基幹となるべきものと信ずるが故に、之が社会単位の組織に大きな意義を認めるからであります。
悩み多い社会不安の時代に、この新しき私共の目指す挙に賛同協力されんことを敢えて訴ふる次第であります。  昭和六年四月
医療社会化運動と医療組合

何故にかくも医療組合が、燎原の火の如く、医師団側から云はすればあたかも流行病の如く、最近に至って急激に普及されたのであらうか。
抑も、我国に於ける医療社会化運動なるものは、社会運動なるものが日本に勃興せる当初の頃からすでに起ってゐたのである。然るに開業医の同業組合たる医師会が創立された当時、医家にして卓越有力なる政治家の力が与り、公法人として過分なる待遇を受け、その後も代々医家出身の政治家相次ぎ、その結果、その間鈴木梅四郎氏等の実費診療所其の他幾多の医療社会化運動が起ったが、何れも医師会の傍若無人な弾圧と内務省衛生当局の医師会追随主義の犠牲となりて、これに対抗すべき無産階級勢力が未だ弱かりし結果遂に潰滅又はそれに近き状態に終って来たのである。
弾圧のため医療社会化運動は失敗をつゞけて来たが、一方民衆生活の疲弊は、資本主義行詰まりと共に、いよいよ度を増すばかりであり、従って医療地獄の深刻さも、ぐんぐん深まる一方、最近になっては遂にそれが爆発点に迄達して来た。丁度そこで医師会の実力圏外に立つ産業組合が、しかも近時異常なスピードで拡大強化されゆく全国産業組合の膨大な勢力を背景に、小気味よく医療社会化に乗出した。そして全国産業組合の組織線に沿って、悠々組織の手を伸ばすに至ったので、民衆はまるで地獄で仏に遇った思ひで、我勝ちに殺到するといふことになり、かくも医療組合が驚異的発展を遂げる原因となったものと私は考へてゐる。
然らば、普選実施を契機として、無産階級の勢力を代表する、無産政党が出現したる前後に渉り、町村立、叉は無産団体立の実費診療所が続出したことがあったが、何故是等が医師会に克(よ)く対抗し得るカを持ち乍ら、医療社会化の主流とならずして今日の如く衰微し、医療組合に至り初めて栄えることになったのであらうか。
それは、町村立のものは、自然官僚的に流れ易く、又町村立も無産団体其他経営のものにも共通して、資金少きため誠に規模小さく、設備不完全であり、無計画で掛声や看板ばかり大きくて内容がなく、宣伝にのみ走って、現実の医療そのものゝ本質的研究を欠いてゐたからであり、そして患者側の組織化といふことを忘れてゐたからである。
之に反し、医療組合にありては、第一に組織を持ってゐる。即ち患者(大衆)自身が診療所の出資者にして持主であり、経営者であるといふやうに有機的組織を持って居る。
そして、資金も比較的豊富に医療組合は持つことが出来た。第一期待代のものは、組合区域が多くは一村立を範囲とするため、組合員数も精々二三百名足らずのものが大部分であったから、出資金にしても、さう豊富には得られなかったので大したこともなかったが、第二期時代に入ると、都市を中心にその周囲の町村を抱擁し、一市一郡とか二郡、叉は一郡若くは二郡を一区域とし、少くも二千名、多いところでは秋田市の秋田医療組合や八王子市の多摩相互病院等の如く、一万名近くの大衆を組織してゐるのもあり、組合により一口の出資金額が二十円か又は十円、五円といふやうに僅かな出資を、十回分納位に払込ませてゐるに過きないが、最低五円の出資にして見ても、二千人あれば一万円、五千人では二万五千円、一万人では五万円の資金を得ることが出来る訳で、可成充分な資金を持つことが出来、しかも之がため信用も厚く、政府低利資金又は中央金庫其他よりの金融を受ける道もつく、といふ次第である。随って設備等も比較的完全となり、優秀なる医師を高給で招聘することも可能となり、医療上の信頼を獲得すること容易となったのである。実際、設備完全にして権威ある治療を施すものとして、その地方に於ける官公私立の各病院中最高の地位に置かれてゐるものに、青森市の東青利用組合、秋田市の秋田医療組合、鳥取県の利用組合厚生病院、島根県の利用組合共存病院、高知県の昭和病院等々がその良き実例となってゐる。
医療組合の現状

我が国の医療組合は、既に述べたる如く、全く最近に発達したもので、医療組合がどの位設立されてあるか、その内容はどうなってゐるかに就いて正確な調査統計は未だ出来てゐない。
私達が、東京に医療組合会を作らうとする前、産業組合中央会で判明してゐた医療組合数は、確か十二三程だったと記憶してゐる。そこで私共は、それを基礎にして全国的調査をやったが之が医療組合に関する全国的調査の嚆矢だったことゝ思ふ。その時の調査の結果は、全国医療利用組合協会の機関紙になってゐる「医療組合運動」の創刊号(昭和七年四月二十四日発行)紙上に発表しておいた。それによると、当時判明した医療組合の数は産業組合法による認可を受けてゐるもの二十八組合(内認可申請中のもの二組合を含む)同法による認可を受けざるもの八組合を算し、合計三十六組合であった。
その後昭和八年度に於て医療組合が益々増加し、医師会の反対運動も漸く激烈となり、その結果、農林省産業組合課と、内務省衛生局の両当局が全国調査を行った。
その時の農林省の発表によると、昭和八年一月十六日現在として、総計三十二組合、内単営のもの十四、兼営のもの十八、尚との外に設立準備中のもの四組合となってゐる。
その後、最近に至り全国医療利用組合協会の手を通じて調査したところによると、医療利用組合並に同連合会数は九十に達してゐる。目下認可申請中のもの四府県四組合であり、設立準備中のものは二十道府県三十組合(連合会をも含む)に及んでゐる。随って未設置にして全然設立準備さへなき府県は僅かに五府県のみである。
最近設立され、或は設立準備中の大部分は連合会組織にして設備完全なる綜合病院主義を採ってゐるが、之は資金、組合員数、細胞強化の点より従来の単一組合組織より連合会の方が遥かに有利であることゝ医療組合運動が既設産業組合大衆化の運動と結び付いた結果に外ならない。農林省亦、原則として連合会主義を極力勧奨せることにも依る。
医療利用組合及同連合会の分布を示せば左の如くなってゐる。

医療利用組合並に同聯合会数(昭和十一年二月末現在)

病院設備を有するもの      五一
診療所設備のみ有するもの    三九
 合計             九〇

単位組合経営          八六
聯合会経営            四
 合計             九〇

 道府県別分布状況
一一組合あるもの  岩手
八組合あるもの   青森、秋田
七組合あるもの   新潟
六組合あるもの   愛知
四組合あるもの   長野、三重、島根、群馬
三組合あるもの   静岡、熊本
二組合あるもの   栃木、東京、山梨、岐阜、兵庫、岡山、高知、福岡
一組合あるもの   北海道、埼玉、神奈川、滋賀、奈良、
          京都、鳥取、長崎、佐賀、鹿児島、富山
未設置府県数    宮城、山形、福島、茨城、石川、福井、大阪、
          和歌山、山口、徳島、香川、愛媛、大分、宮崎、
          沖縄(以上一府十四県)
右未設置府県中でも、目下設立準備中のものは前述の通り大部分の府県に及んでゐる。
又既設の医療利用組合に於て経営する分院、分診療所、出張所数は左の通りである。

分院      一〇
分診療所    五四
出張所      六
 合計     七〇

これに本院並に本診療所を加へると、医療利用組合の経営する病院数六一、診療所数九三、出張所六、合計一六〇筒所となってゐる。

医師会の反対運動

日本に於ける開業医の同業組合たる医師会は前述せる如く不当にも公法人の過遇を受け、その権力を常に濫用して凡ゆる医療社会化運動を妨圧して来た。明治四十五年社団法人実費診療所に反対の火蓋を切ってから、到る所にその魔手を伸ばして来たのである。その魔手! 幾度か医療社会化運動を弾圧し来りて、勝利に酔へる魔の手は、医療組合が姿を現はすや直にその本質も実力をも識らずして、只我無者羅(がむしゃら)に攻撃して来た。
その最も代表的にして有名な、世に所謂八王子事件なるものがその適例である。
昭和四年九月、三千余名の組合員を擁して東京府八王子市に診療を開始した、八王子相互診療組合(組合長内田正五郎氏)が、多数の患者を集め診療開始後六箇月にして、忽ち組合員は倍加して七千人余になるといふ、全く驚異的発展を遂げた。
之に対し同地南多摩郡医師会は、昭和五年八月同医療組合勤務の医師堀野計一氏外三名の医師を相手取り、医師会薬価規定に違反の廉で懲戒処分として各自一百五十円也の過怠金を課したが、これを支払はざるため訴訟を提起した。爾来八王子区裁判所で裁判の結果は、医師会側の敗訴となり、続いて控訴し東京地方裁判所で審理の結果、又もや医師会が敗れて仕舞った。
それは、組合勤務の医師等は、組合に雇傭されて一定の給料を得て、該組合員の医療に従事し、其薬価治療費は該組合に於て決定し徴収するもので、之らが被告たる組合医師の所得に対するものではないから、医師会の定むる医業報酬規定に違反したものではないといふのである。
そこで医師会側は猶も根気よく大審院に之を上告した処、今度は形勢逆転してしまった。といふのは、元来医師会に与へられた懲戒権は一つに公法人に附与したる権限で、公法上の性質を有し、監督官庁に於て之が取消なき限りは絶対的のもので、その決議の内容、懲戒の当否に就ては司法裁判所の審議判断すべき範囲でない。地方裁判所が過怠金を科した懲戒処分が相当なるや否やを審理したのは違法の判決で、破毀すべきものだ。故に原判決を破毀して本件を東京地方裁判所に差戻すといふことになったのである。
要するに医師会令第二十四条に、地方長官は医師会の議決が法令若しくは会則に違反し、叉公益を害すと認めた時は、理由を示してその議決の取消を命ずることが出来るようになってゐるから、今度の懲戒の当不当については、地方長官に於て処分すべきもので、司法官の取扱ふべき範囲外だから、行政官たる知事の方で解決するやうにと暗示したことになった。(昭和七年九月二十八日大審院判決)この結果、遂に昭和八年五月十九日附東京府知事は、南多摩郡医師会に対し、右の懲戒決議の取消命令を発するに至り、全く医師会側の惨敗に終った。
これは八王子第一事件であって、猶八王子第二事件といふのもある。この方は第一事件の第一審で医師会側敗れるや、新手の組合医師いぢめを考案、即ち医師会で無料健康相談所を始め、之に会員は交替で出勤することを決議した。然し組合医師はとても多忙でもあり、医師会の本心を知ってゐるので、全然服従しなかった。すると早速五百円宛の過怠金を科し、之も支払はぬので裁判になり未だ解決されずにゐる。
その次は、東京医療利用組合が昭和六年設立許可申請を府知事に出すや、医師会は猛烈に反対し、日本医師会長北島多一氏親(みずか)ら陣頭に立ち、府知事を威嚇したり、内務省衛生局を動かし同組合認可の阻止に努めたが、藤沼知事が昭和七年五月二十七日警視総監に栄転の日、遂に置土産的に認可して行った。一年有余医師会と闘って認可を得た同組合では、診療開始に際し、医員の四谷区医師会へ開業届を出すべきや否やを考究後、診療従事後十五日目に届出をなした処、四谷区医師会は届出遅延と称し十円宛の過怠金を科して来たり、同時に薬価規定の除外承認要求に対し不承認を決議し、全くヒステリックな程の反動振りで攻撃して来た。これを四谷事件といふ。
その後全国各地の医師会の医療組合反対運動は引続き起されてゐるが、何れも失敗に終ってゐる。その医療組合に対する反対口実は慨が左の様なものである。
医療組合は薬価治療費が安いから、必ず粗診粗療である。随って医療の低下を来すものであり、世界無比の我国開業医制による醇風美俗を破壊するものであるから反対するといふのである。又最近に至つては、組合は出資金を払込み、薬価を現金で支払へるものゝみを吸収し、薬価を払へぬものだけが開業医に集まる。叉組合は一定の医師を組合員に強制して医師の自由選択が出来ないから駄目だといふのである。
第一の粗診粗療云々は、どこの医師会でも先づ第一の反対理由にしてゐるが、実際に組合が粗診粗療をやったといふ話は聞かない。
組合といふものは、組合員即ち患者自身が経営するものなのだから、大切な自分の生命に関して粗診粗療をやらせる訳がない。医療組合は今日迄の開業医のやったやうな無統制で無駄の多い封建時代の経営法によらず、医業経営の合理化をやり、凡て能率的経営法をやり、しかも多額の資金で最新の設備を完備してゐるのであるから、彼等のいふ粗診粗療など、全く一笑に附する価値もない。
かやうにどの反対理由も、要するに反対せんがための口実にすぎなく、根抵は薬価を定価よりも安くすること、お客を取られるといふ、営利同業組合としての本質から反対する迄であり、今日の医師会が全く営利的同業組合たることを暴露せるものに外ならない。
かくの如く反対声明や、地方当局に迫り政治的策動をやって、医療組合設立認可を妨害することは常例になってゐるが、最近では医療組合の全国化に愈々周章狼狽し、昭和八年九月七日岩手県花巻温泉に東北六県の医師会幹部が集合し、東京からも日本医師会の会長及書記長が出張して、医療組合対策の大評定を開いた。その結果「社会の客観状勢より観れば、組合運動を無暗に妨圧することは不可能にして、動(やや)もすれば医師会側が反動団体視され勝の状態にあるため、対策としては開業医の悲惨なる実情を当局に陳情し、政治運動により目的を貫徹する」といふ方針に決し、最近の内に各県医師会長は挙って上京し、内務、農林両省を歴訪して陳情することを申合せた。
これは医師会側の全国的反対運動の前哨戦とも見られ、今後は一層全国的運動に進むであらうと信ぜられる。この事は反産組運動の前衛たる全日本肥料団体連合会の勧誘に快よく応じて、反産組運動に合流したことからも肯かれる。
医師会としては、誠に猛烈に反対運動を続けてゐるが、内部的には必ずしも反対のみではなく、個々の会員の中にも協調的意見を抱く人も多いが、亦地方医師会の中にも協調的方針を執り始めたのもある。その一例として昭和八年九月長野県小県郡医師会では、各町村長宛「今後医療組合設置案のある場合には是非御相談をかけて欲しい。吾々も共に研究し、協力したい」との書面を送り協調方針を告白してゐる。
医療組合に対する政府の対策

医師会は到る処、反医療組合の運動をつづけてゐるが、産業組合としての医療組合の主務省たる農林省及び衛生行政当局たる内務省衛生局の、医療組合に対する態度はどうであるか、序だから少し述ベておきたい。
農林省は、行詰りの極度にある農村更生のため経済更生部を創設し、主として産業組合による更生に力を入れてゐる建前から、無論医療組合奨励の方針を取っており、先般医療組合の全国的調査を終了後、医療組合の効果につき次のやうな意見を発表してゐる。

産業組合組織による医療組合の効果
一、診療費を軽減し得ること。
二、開業医無き町村にも之が普及を齎(もたら)すこと。
三、中小産業者に対し医療を受くる機会を得易からしめ疾病の予防を期し得らるふこと。
四、産業組合としての指導監督を受け国家の保護特典を享受し、且組合員組織なるを以て経営堅実にして、永続続性あること。
五、比較的専門的良医を利用し得らるゝこと。
六、一般開業医をして医療報酬を低減せしむる等間接的効果あること。之は要するに組合員の経済の改善と保健衛生の向上に至大の効果あり。

尚従来は、医療組合設立の認可をする場合他の産業組合同様、地方長官の権限で許否を決してゐたが、医師会は何時も地方に政治的勢力を有し、その勢力を濫用して反対策動をやるため、今後かゝる恐れを生ぜしめないよう、昭和七年の十月、産業組合法施行規則を改正し、医療組合の認可には特に予め農林大臣の指揮を仰ぐことを命じ、許否の権限を中央に移して医師会の策動に備へるに至ったのである。
では、医師会と多年縁故以き内務省衛生局では、どんな意見を持ってゐるか、医療組合が東京に出現して問題になった最初の時は、中立的態度をとってゐたが、その後漸次認識を深め、局長の大島氏は「全国三千二百の医者なき町村に、医者を普及するには組合に限る。組合病院は現代医療制度の欠陥を補ふ一つの方法である。叉之から学校を出てくる若き医学士諸君は開業することも出来ぬので、之等の人々を組合でどしどし吸収して貰ふことが出来るから自分は組合病院に大賛成だ」と言明した程だが、局内医務課辺りは相変らず分らず、農林省とも可成り対立を深め、その結果、今年の議会に医師法改正案を提出し(それが両院協議会迄行って漸く通過したのだが)それによって、医療組合を産業組合法によって農林大臣が認可しても、病院開設の許否権を内務省が持って、事後開始を不可能ならしめることが出来るやうにしてしまった。然し医師法中の命令事項改正審議中の模様を聞くに、その点可成り組合側に有利に展開して来たさうである。何れにしろ、今後は一層凡てが有利に好転することゝ信ずる。
農民の間に於る医療問題を解決する最も近道として、医療組合を政府部内に於て問題化したのは、昭和六年春の地方官会議であった。昭和五年からの農村不況に、各県知事は全く弱り果てゝゐたゝめ、君島香川知事の如き、医療組合をつくる村には、百円の補助金を出すといふことを交渉したときいてゐる。また同氏は地方官会議で、産業組合による医療設備のほか、急速に、医療問題を解決することは出来ないと、地方官会議で述べてゐた。
同知事の他に、数名の同じ意見を持った知事もあった。その為に進歩的な知事や、県産業課長は、進んで医療組合運動を各県に奨励したのであった。秋田県青森県の医師会が沈黙したのは、医療組合の背後に、県当局が居るといふことに気付いたからであった。
然し、政党的色彩のつよい知事のうちには、まだ医師会の圧迫を怖れて、農民の立場を顧慮する勇気のないものも、少からずあるやうである。
現下医療組合に於ける諸問題

現有我国に於ける百余の医療組合中、収支相償ふものは約半分にすぎない。経営が比較的良好なものは組合員二千人以上、一県少くも一郡又は二郡以上を区域とするものに多く、一町村を区域とし、組合員四五百名を擁する農村産業組合に於ては、概して成功してゐない。そのことは
(一)この事業が全く人的設備に依拠して居り、経営の大半を占むるこの人件費が全国普通的であって、農村の特殊性によって増減し得る程度が洵(まこと)に少ないこと。
(二)都市を含む組合病院が利用料を現金払にしてゐるが、農村では劃一的にかくすることが出来ない事情にあり、従って未収利用料が恐慌の深化と共に殖えて経営上の行詰りを来すこと。
(三)組合病院が多く現金であること、殊に未納利用料のある場合は組合員をして当然足を遠くさせ、一年に一度の農家収入のある時にのみ支払ふ習慣になってゐる関業医に趨(おもむ)かしむること。(産業組合中央会調査)
右の事情がその理由としてあげられる。
かうしたことから、医療組合を理想的に経営してゆくためには、組合の区域は一市二郡とか単に一郡とか二郡とか、その土地の交通の便不便に比例して異ってはくるが、その病院を利用し得るだけの広範囲を区域とし、組合員数は三千人以上にして、内科外科の二科以上の専門科を置き、それにレントゲンを設備して、成可く完全なる設備を整へ、病床は少くも三十個以上を用意する必要があるとの結論に、我々の間では一般に達して来た。
扨て最後に、目下全国の医療組合経営当事者の間に問題とされる、経験の結果得たる経営上の諸問題に関して一言説明しておきたいと思ふ。
一、資金の問題 何をやるにも先づ資金の必要なことは論を俟たないが、医療事業はその設備に多額の資金を最初に要するものであるが、創業に際し出資金全額あれば、建物や設備に充分間に合ふ筈のものが多いのであるが、一時に現金を集め得られない場合、今少し設備を改善若しくは増設すれば必ず発展し得ると考へられる場合等に、資金足りずして困ることが多い。然し近頃は中央金庫でも確実な組合と見れば、出資金総額限度を、組合設立認可と同時に創業前に金融する方針になった由である。叉その他に常磐生命保険会社が国家保健運動の立場から進んで資金的応援をして居り、漸次確実な医療組合には資金融通の道も拓けつゝある。
二、医師供給の問題 医療組合にとって、そこに勤務する医師の適否は全く致命的である。医療利用組合の医療利用とは即ち医師を利用することなので、利用者たる組合員に於ては事生命に関する以上、医師の質が良いか否かは、日用品たる米や味噌等の質や味が悪いのとはまるで異って、質の患い医師に我慢することは出来ない。そこで医師の質的良否の如何は、直ちに組合の盛衰に関係してくる。処が医師は人間であり、その人の技術と人格の二つが揃はなければならないので、仲々の人を得ることは困難なことである。
然し、近引は世界的不況の影響で、医師の開業も、就職も何れも漸次困難になって来てゐるので、新しき医学士を送り出す各医科大学でも、地盤開拓には随分骨を折り出して来た。大学中で今日迄卒業生たる医師を組合に送ってゐるものは、東京帝大、京都帝大、名古屋医大、東北医大、九州帝大等が主として出してゐるが、就中、名古屋医大では先年秋田医療組合に加藤医学士を送ってから、積極的に乗出し、大学側では組合に適当なる医師を教育するといふ迄に組合運動に協力し、今日では秋田県下の医療組合に二十数人を送って、密接な連絡指導に当ってゐる。
今後新設される医療組合にして、基礎確実にして設備さへ相当完全にするならば、良き医師を得る事も大して困難ではない。
名古屋医大に続いて医療組合に熱心なのは東京帝大である。東京帝大の稲田内科に関係のある坂口博士の如きは、既に組合的性質を持って警官の組合病院、並に教員組合の病院に関係を持ってゐられる関係上、新潟県長岡を中心とする中越医療組合などに対しては、絶対的の支持を与へられてゐる。この後、東京帝大が堅実なる医療組合に絶対的支持を与へることは、もはや確実となった。
三、未収利用料 農民を包含する医療組合にあっては、近頃利用料の未収に悩まされ始めてゐる。之は農業恐慌の深刻化と共に、農民窮乏の激化は益々農民の支払能力を奪ひ、従って薬価の支払も不可能になりつゝあるのが実情である。この問題は組合だけの問題として解決されるものではない。国家又は市町村の補助、薬価支払組合或は国民健康保険の完成に俟たねばならぬと思ふ。然しこの問題の解決は可成り重大にして深刻なる問題でもあるから、改めて他の機会に詳しく論じたいと思ふ。
四、健康保険医の問題 秋田県の山本郡医療組合では、土地の開業医にして、健康保険医たる医師を組合に招聘し、秋田木工の労働者始め千名余の労働者諸君が組合員となり、「健保」により医療を組合から受けてゐた。処が医師会は右組合医師の健康保険医の指定を取消してしまった。組合では医師会、県、内務省等にそれぞれ厳重抗議したが一向にらちが開かないでゐる。かゝる事件は各所に起ってゐるが、聞けば医師会では組合医には断じて健保医の指定はしない方針だとの由である。之は現在政府が医師会に保険を請負はしてゐるので、かくも医師会の横暴に委されてゐるのである。之に対して全医協では各種労働団体健康保険組合と協同戦線を張って、医療組合と政府と直接健保契約をなすべく運動を進めてゐる。
五、医師会が如何に慎重に進んでも、組合の趣旨に忠実ならんとすることにより、必然に医師組合側から反対妨害を受けるのであるから、之を起さないやうにすることは誠に困難である。然し医師会が猛烈に反対する処は、却って組合発展を助ける逆的効果を挙げてゐる。故に組合は少しも恐るゝことなく、只、内容の整備充実に努めるに力を注ぐと共に、一方全国的結合を益々強化する事が肝要なる対策である。
六、連合運動 医師会の反対運動が幸ひして、医療組合の全国的連合運動は割合に早く進み、昨年四月大阪に於ける全国産業組合大会を機とし、鳥取県の厚生病院外十組合が会合、全国医療組合、全国医療組合協議会が結成され、今年四月に叉々産業組合全国大会が東京に関かれたる機会に、今度は産業組合中央会主催で、全国医療設備利用組合協議会が開かれ、その結果全国連合会結成の前提として、全国医療利用組合協会が創立された。そして中央会内に事務所を置き、機関紙「医療組合運動」(昨年四月から東京医療組合で発行してゐたもの)を承継いで毎月発行し、全国的連絡と統制に乗り出してゐる。この外地方的にも、連合運動が起り、昨年十月には青森県青森県医療利用組合協会が、今年五月には秋田県秋田県医療組合連合会が組織された。叉今年十月の東北六県産業組合大会には、それを機とし医療組合東北協議会が開催され、東北六県の連合休が創立される筈になってゐる。
この連合機関の使命は消極的には医療組合の障害となるものを除き、積極的にはその発展を促進すべき凡ゆる活動をするにある。医療組合は他の産業組合とは異り、経営には非常に特殊の苦心を要し、経営技術の指導、医員の供給、訓練教育、資金供給のための援助、設備品、薬品の共同購入等連合会のなすべき仕事は山積してゐる。
又医師会の反対運動等、外部的障害に対しては、今後猶相当強硬に攻撃して来るに相違なく之に対して個々の組合の力だけでは徹底的な勝利は得られない。どうしても全国的連合の力によらなければならぬ。
既に秋田県の連合会では、専任書記を置き活発な活動を始め、薬品や機械類の共同購入をも開始せんとしてゐる。この際全国的連合機関たる全国医療利用組合協会(全医協)の一層の活動と、基礎の確立を切に希望せられる。かくして全国連合機関が確立され、全国的統制が行はれる時代を以て、私は医療組合発達の第三期と呼びたいのである。

医療組合運動の将来

私の知ってゐる範囲内に於ても、医療組合運動の計画をしてゐる農村は沢山ある。長崎県にも、山口県にも、新潟県にも、山梨県にも、長野県にも、医療組合の研究者は、ある時機を待って必ず之を実現したいと祈ってゐる。それで、こゝ両三年のうちに、東北は勿論のこと、医療組合運動は押さへることの出来ない国民的大運動となるであらう。
それと共に、開業医は、非常の恐怖に陥るであらう。然し、開業医制度が崩壊しても、医師の恐怖すべき理由は絶対にない。資本主義的開業医制度といふものと、医術といふものは何等関係のないものである。かへって開業医制度は、資本の圧迫と、自由競争と、医師の都市集中によって、医師みづからが没落の道を歩むものである。医療組合の発達によって、医療組合と提携を肯ぜざる医師は、淘汰されるであらう。この方が、ある医師にとって開業医より恐るべきものであるかも知れない。なぜなら開業医試験には人格の考査がないけれども、医療組合による医師の淘汰には、人格の考査が大いなる要素をなすからである。然し、一旦医療組合の基礎にのった以上、その医師は全く生活の安定を約束せられる。そこには自由競争もなく、資本の脅威もなく(高い利子を払って病院を個人的に経営する必要はない)医師は医学に専念して人のために努力すればいいのである。こゝに初めて医術は仁術に変るわけである。
然し、それでもなほ医師にとって不安があり、また医療組合員のうちにも不景気や恐慌のために、医療費を払へないといふ場合も起ってくるから、医療組合は必然的に、任意的健康保険組合の運動として進展するものと考へなければならない。
既にドイツなどに於ても、総人口の七割五分に近いものが健康保険に加入してゐるが、地方地方に於て、自治的組織になり、日本の強制的健康保険組合の内部に於て、健康保険組合なるものが存在する如く、医療組合的形式を帯たものが、国営健康保険と連絡を保ってゐる。
恐らく日本の医療組合も、将来の国営健康保険の地方的基礎をなすものであらうと私は考へてゐる。既に内務省社会局に於ては、総人口の二割五分にまで今日の強制労働保険を拡張したいといふ希望を持ってゐるやうである。然し、農民の間に於ける健康保険については、何等成算が立たないと見えて、農民間の健康保険は、任意保険の形をとるといふことを主張してゐる。若し農民間に於ける健康保険が、任意保険の形式で進むとすれば、一層今日の医療組合は、将来の健康保険組合の基礎となるべきものである。そして実際、国家的健康保険運動と、医療組合運動が連絡をとって初めて、疾病から来る貧之を根絶せしめることが出来るのである。