1930年代アメリカの協同組合(2)

学生消費組合運動

最初は苦学生が、学費節約の目的で始めたものである。所が、今では百四十校以上が、之を実際にやるやうになった。
私はシヤトルにあるワシントン州立大学の学生消費組合運動を見た。彼等は八個の家屋を借り入れて、消費組合的に自炊生活をやってゐる。組合員は凡てで二百名足らずだが今迄下宿屋に支払ってゐたものの何分の一かですむ。
食費だけなら、一週二弗位しか懸からない(シカゴ大学消費組合では一週二弗七十五仙である)。で、室代、電燈代を入れて、一学期六十弗であがると云ふことであった。学校の寄宿舎が一学期八十弗だとのことである。私は自炊寮の四個だけを見たが、実に立派なものであった。米国の恐慌は家庭に影響し、今迄、親から多額の金を支給されてゐたものが、そんなに金が貰へなくなった。そこで、発達したのが、この炊事寮である。そこには中心になる立派な主婦が居て、学生等を監督してゐる。で、日本の学生などと違って、温順にその主婦の云ふ通りに服従して、家庭的な組合寮が出来上ってゐた。
かうした学生消費組合の食堂を私はシカゴ大学を中心とする学生の間にも見た。此処では、農村協同組合から牛乳、バター、野菜等を買ひ入れてゐたが、それでも一週二弗七十五仙はかかると云ってゐた。私もその学生達と一緒に食事を共にしたが、少し前には六弗も八弗も出してゐたものが(エール大学では約八弗)僅か二弗七十五仙であがるので、学生は大喜びであった。之なら、夏季四ヶ月労働してくれば、食費だけは充分稼ぎ得るので、大学教育を受けるに困難をしないとのことであった。
で、州立大学の学生間には、この消費組合が盛んになり、私が、インデアナポリスに居る間にそこで全国学生消費組合聯盟が生れ、シカゴ大学の学生が、その会長に就任した。
黒人消費組合

最近、米国の黒人社会にも協同組合が理解されて来たので、カンサス市でも、ゲーリー市でも消費組合が生れ、協同組合による黒人の経済的解放が、実際に於いて着々実行せらるるに到った。ゲーリー市の学校教師が、その指導者なので、インデアナポリスの協議会に、彼は立派な論文を読んだ。
之等組合が産れると、いつも、多数の商人は迫害を加へるのだが、黒人は迫害を打ち切って、組合意識に目醒めつつあるとのことであった。
セヤー・グロッパー

一九三六年四月、米国の社会思想家として特色あるシャーウード・エデー氏は南方ミヅリー州で協同組合農場を始めた。それは、米国で問題になってゐる「セヤー・グロッパー」(収穫高分配制)の惨状が報告せられたからである。
南部諸州特に北線三十五度の線に沿うてゐるテネシーからテキサス州までには約百七十万家族、人口にして約六百万と云ふものが、目もあてられぬ小農生活をしてゐる。その中約百万家族が、白人の
家族であり、七十万家族が黒人である。彼等は地主から土地、肥料、農具等凡てを支給せられ、収穫物を何割かづつ、分配するのだが、今日迄の風習として、地主が先づ、肥料代、農具代、種代等凡てを差し引くことになってゐるので、どんな好景気時代でも、小作人側で、余剰金のあった例は一度も無いと云ふのである。
この暴圧な制度が発表されてからと云ふものは全米に輿論が高まり、各種の論文、報告が発表された。
つまり、一八六五年の奴隷解放以後、政治的に解放せられた黒人の跡へ、白人移民が這入りこんだら、経済的には奴隷以上に縛られてゐることを、今更の如く発見して、絶叫し出したのである。
然し、経済的因襲は、政治的因襲を改造するより困難である為めに、どうして手をつけてよいか、わからずにゐた。それを最近になって、シャーウード・エデー氏が率先して、組合製作を始めたのである。
然し、南部地方の地主は協同組合と共産主義の区別が分らないので、組合運動者と云へば、直に束縛して投獄すると云ふ方針を取ってゐる。エデー氏も数時間束縛せられたと聞いた。かうなると、自治団体の警察制度と云ふものは乱暴なものだと私は感じた。
遅れた南部諸州でも、メソヂストの識者の間にはこれを救ふ唯一の途は協同組合だと云ふことに気がつき研究会を続行してゐるので、この方面からも、協同組合協議会に出席者があったわけである。
米国組合運動の四天王

協議会には、ボーエン氏もカウデン氏もワバシュ氏もみな演説をした。この三氏にメリル・リンコルン氏を加へると、私は米国に於ける協同組合運動の四天王が出来ると思ふ。
ワバシュ氏は医師である。然し彼の産業民主主義の論文は独逸話にも翻訳せられ、彼の医療の社会化の議論は、医療組合の無い米国にも相当の反響を呼び起してゐるのである。彼は万国消費組合聯盟の委員をしてゐる。
ボーエン氏が協同組合運動に従事するに到った経緯は全く宗教的である。彼は機械会社の支配人であった。不景気になって、彼は部下を馘首した。そして次の日曜日に礼拝に出て、キリストの死を記念する聖餐式に参列した。すると前日馘首した部下のものが、襟を正しくして、彼の側に脆いて、彼も亦聖餐に与ってゐたのであった。
それを見た彼は、飜然として悟る所があり、今日の資本主義はキリストの教訓と平行して居ないと気がつき、その日限り、その機械会社の支配人をよしてしまひ、ニューヨークに出た。その為め彼は幾万弗の年俸を失ったが、少し貯蓄も有ったので、ニューヨーク図書館に閉ぢ籠って、一生懸命に資本主義改造の研究を始めた。そして結論として、消費組合運動の外に途の無いことを発見し、ワバシュ・ドクトルの所へ協力を中し込み、今日の運動に携はることになったのである。
メリル・リンコルンはオハヨ州農会中心の協同組合を今日の大に導いた中心人物である。彼は資本主義を改造するには金融を社会化し、民衆化する必要を感じ、自動車保険を農民会で始め、六年間に百五十万弗の純益をあげ、その金で、生命保険会社を買収し、ルーズベルト大統領の農業振興策と相呼応して、農村電化を協同組合によって計画した。幸ひ、政府は彼に参百万弗貸与した。それで彼は南オハヨ州全体の村々に電燈電力を供給する計画を立てた。電力会社が吃驚して競争を始めた。然し、協同組合の遅れてゐる米国で、メリル・リンコルンのやってゐるオハヨ組合の如く、堅実に自動車保険から発展したものは少ない。シカゴ市にもイリノイ州農会協同組合が、生命保険組合をやってゐる。それを私は見に行った。相当な成績を挙げてゐる。然し、メリル・リンコルンの如く百五十万弗の現金を持って大規模にかかり得ないのは、自動車保険に対する成績がそれほど好く行ってゐないからである。
そして、全米に生命保険を協同組合化してゐるのはこの二つしか無いのである。他にやってゐる所はあるが、多くは、普通の保険会社と連絡を取ってやってゐるのである。
然し、二つしか無いとは云へ、その出発に目醒しいものがある。之を日本の如く、組合員五百二十万人も持ってゐて、一つの保険組合を作り得ず、辛うじて他の保険会社の下受けをしてゐる状態では全く悲しくなると私は思ふ。
カンサス市を中心に農村協同組合を指導してゐるカウデン氏も、米国の協同組合には忘れてならない人物である。米国農林省の次官タグエル(ブレーン・トラストの第一人者)はカウデンを引き抜いて、米国農村の協同組合化の顧問として、六ヶ月間、ワンントンに引き留めてゐた。
カウデン氏の成功はガソリン消費組合を強大なものとし、それを西部十一州に波及させ、それを日用品の消費組合にまで拡大強化したことにある。
私はカンサス州カンサス市にあるその本部を尋ねてれったが、健実なその歩み方を見て感心した。一九三二年頃には、みる影も無い小さいものであったが、今日では彼に反対した石油会社を全部買収して了っただけの力を持ってゐるのである。
まだ、生命保険まで発展してゐないが、数年間に之で百万弗近く儲けたと云ふから此の方面に発展するのは間も無いことと思ふ。
私はその事務所の造り方を見て感心した。音響を防ぐ為めに事務室が硝子の厚板で区切られてゐる。然し事務の監督士、従業員を一目の下に見渡し得るやうになってゐる。