1930年代アメリカの協同組合(6)信用組合

米国の信用組合

米国で茲数年間の中に発達した最も大きな運動は協同組合運動である。一九三六年一月にはその数四千と云はれ、毎月一〇〇個づつ新しく組織されてゐた。ワシントン中央政府も、労働階級及び農民階級に之を奨励する為めに特別の官吏を各地に派遣してゐる状態であった。
多くは工場単位で産れてゐる。面白いのは資本主義的色彩で有名なハースト系統の新聞でさへ、信用組合だけは職工に作らせたと云って、組合員が大笑ひをしてゐた。官庁内にも之が出来る。ニューヨーク州庁の如き、知事の主唱で信用組合が庁内に出来て、フリン翁がその発会式に演説をした。
信用組合所得税を免ぜられてゐる。その代り、法定利子は月一分となってゐる。つまり年一割二分が最高利子とされてゐる。然らば、なぜ信用組合が発達するやうになったか、その一例として私はネブラスカ州の事実を聞いた儘に書かう。
一九三一年の恐慌で、ネブラスカ州の銀行は凡て潰れてしまった。辛うじて、他州の支店銀行が事務をやってゐるわけである。為替、小切手は全部銀行では組めなくなってしまった。
で、カトリック教会の神父テーラー氏は、ネブラスカ州の労働者の間に信用組合を造った。そして、敢然として、一九三五年より、信用組合を通して銀行事務を開き、為替及び小切手を取扱ひ始めた。で、他州の支店銀行はそれに反対して、銀行法によって、法廷に訴へた。ところが、州の議会の過半数は神父テーラーに賛成して、信用組合を支持する決議を行った。今、ネブラスカ州にある銀行的のものはこの信用組合あるのみとのことである。
つまりこの例を見てもわかる通り、無産階級の間に、相互的銀行の必要が意識化されて来たことが、最近米国に信用組合熱が燎原の火の如く燃え拡がりつつある理由だと私は考へてゐる。
ただ残念なことにかうして産れつつある名地の信用組合の間に統一が無く、信用組合の預金を、資金化して、之によって、経済改造を行ふと云ふ理想の欠けてゐる点である。
フリン翁が、折角寄附した金などでも、ウヰスコンシン州マデソンのやうな田舎町に本部を持って行った為めに運用の妙を欠き、窒息する傾向なきかを憂へてゐるものもあった。自由を尊ぶ米国では団結すれば大きな仕事が自由に出来る代りに、協同組合などでもあまりに小さく刻み過ぎて、バラバラになる傾向があるやうに思ふ。
之はロサンゼルスあたりの消費組合にその例を見た。ロサンゼルスには約六〇の消費組合が、最近二三年の中に出来た。然し、大低は実に小さいもので、会員を一〇〇名と持ってゐるものは少ない。私は「卸組合」に廻って見たが、まだ形をなしてゐない。之は大同団結が出来ないからである。
然し、ロサンゼルスの郊外パサデナ(Pasadena)の消費組合などは、市場式に出来てゐて、自動車を乗り着けてすぐ品物が買へるやうに、自動車の駐車場を中央に取り、その周囲に売店を設け、小気味よき清潔さとスマートさを見せてゐた。だが、これは土地の資本家に特志な人があったから出来たので、信用組合などとの連絡は全く無いのである。然し、そこは米国人である。この後どんな変化を見せないとも限らないが、今の処ではまだ、銀行業者に脅威を与えへるだけになってゐない。
一九一一年、有名なウォルフ博士が始めた労働銀行も、ストライキやその他のゴタゴタで巧く行かず、その上、投資の方法が資本主義的色彩を帯びた為めに、資本主義的恐慌と共に破綻してしまった。労働銀行は飽く迄協同式でなければならぬ。
そして、投資は協同組合社会を造る為めの投資で無ければならぬ。その時、初めて、投資は安全化し、絶対に潰れない信用機関が出現するのである。しかし、残念なことには米国の信用社会主義者は此の点まで気附かなかった。