1930年代アメリカの協同組合(7)失業者組合

失業者自助協同組合

サンフランシスコの天使島に、まだ監禁せられてゐる時だった。突然移民官の一人に伴はれて、カリフオルニア失業救済委員で「自助協同組合」の指導者の一人が、私を天使島に訪問してくれた。
彼は、私が協同組合の運動に日本からやって来たことを知ってゐるので、同志である移民官と一緒になって、私を訪問してくれたのだった。その男の言葉によって、最近、米国の自助協同組合運動にも一大変化が起りつつあることを私は知った。
即ち、ミネソタ州で発達してゐた組合などは、州の金融法にひっかかって、自助組合が解散し、却って、今迄あまり発達してゐなかった、カリフォルニアあたりで盛んにやってゐることがわかった。
この自助協同組合と云ふのは、米国独特の組織で、歴史的に云へば、なにも、今度の恐慌で初めて産れたものでは無いさうだが、ヨーロッパなどには全然見当らない面白い組織である。
今度の大恐慌で最も早くやり始めたのはミネソタ州ミネアポリス市あたりであったらう。然し、米同は政府の補助を少しでも貰ふと個人商業との競争を絶対に禁止する風習のある国なので、この製品を市場に売捌くことが出来ない。
その為めに折角一万五〇〇〇人から会員を持ってゐたミネアポリスの大組合も、解散せざるを得なくなったのである。
然し、政府から一文の補幼を受けず、叉州の金融法にひっかからないやうに友愛互助の精神で貫いてゐる所は梢々成功してゐる。
然し、国家の補助を貰はない所は篤志な資本家が援助するとか、強力な団体が補助しなければならないので、ルーズベルト大統領のやうに、貧民救済の為めに数億弗の金を消費して惜しまないと云ったやり方の前には、自然、弱小組合は降伏する。
その結果は自治的能力を失ひ、政府の補助を受ける結果、一般社会に製作品を売出すことが出来なくなり、政府の補助が止れば、折角組織したものも解散すると云った運命になってゐる。

互助は最大の経済

私の最初見た自助協同組合はボルチモアの婦人達のやってゐるものであった。全員は三〇〇名足らずで、古い細民地区の大きな建物を中心に活動してゐた。
先づそこにはパンを製造する所がある。食堂がある。織物工場がある。洋裁部がある。家具部がある。散発屋がある。美容部(マニキュア)がある。箒製造部がある。運動部がある、そして各部には多い所で一〇人位から三、四人の会員が働いてゐた。
彼等の凡ては政府から、貧民救護法によって、補助を貰ってゐた。然し、それは家賃を支払ひ、パンを買ふだけで消えてしまふ。で彼等は怠けてゐる代りに組合組織を持って、パンと、被服と、日常必需品とを自己生産してゐるわけである。
勿論、彼等だけで、日常必需品の全部が求められるわけでは無い。それで、失業して居ない個人商店、或は個人自由職業者を篤志会員に加はって貰ふわけである。第一、医者、薬屋、八百屋、農業者等がそれである。
之等の人々との連絡が甘くつけば、失業者は、その労力を篤志会員に販売し、先づ、麦粉、野菜、牛乳、バター、チーズ等を農家から求めてくる。農家は、それらが売れなくて困難してゐる上に、労力に対する賃銀が支払へないので、高価になる薪炭の製造に困難してゐる。で、農家は悦んで参加する。で、食物の資料は得られる。
次はその運搬である。自動車がいる。荷車が必要だ。で、組合の幹部は資産家に交渉して貨物自動車を寄附して貰ふなり、労力で借りる約束をする。荷車の場合も同様である。
更に、織物の原料が必要である。で、また原毛商と交渉する。その代価は凡て労力によるか、労力生産品――即ち洋服とか、家具とか、パンとか云ったもので支払ふのである。
バルチモアでは、篤志組合員が、失業組合員数よりも多い位であったので、組合は非常に都合よく行ってゐた。その点は矢張り米国だ。キリスト教会員が進んで参加してゐた。
毎日午前八時に三〇分間の讃美礼拝があり、近くの教会の牧師が指導してゐた。礼拝を始めてから、みんな気が一致して善いと云うてゐた。之等の方針は凡て会員の一般投票によったもので、決して上から、強ひたものではない。米国の貧民窟や、労働街では反教会的精神が盛んなので、かうした宗教的集会を中心とする協同組合も実に珍らしいと私は思った。