少年平和読本(5)動物社会の相互扶助

  助け合って生存競争にうちかつ小動物たち
 鳥に道徳の芽生え
 今から十数年前、中国山東省維県の大学へ講演に行ったとき、わたしはそこで鳥類研究家ワイルダーさんからおもしろい話を聞いた。
 ある冬の朝のことだった。ワイルダーさんが食堂で朝食を食べていると、一羽のツグミが、ワイルダーさんの飼っている小鳥と一しょに、のこのこと食堂にはいって来た。ふしぎに思って、よく見ると、そのツグミはけがをしているのだった。「僕のとこへ来い。そしたら、ワイルダーさんが傷の手当てをして下さるから」といってつれて来たものとみえる。ワイルダーさんは、なれているので、手ぎわよく傷の手当てをしてやった。すると、ツグミはありがとうございました。と、ていねいにお礼も何もいわず、そのままとんでいってしまった。ところがその翌朝、またそのツグミがやって来た。彼は礼儀作法を知っていて礼をいいにきたのか、それとも、もう一度、手当をしてもらいたくて来たのかと思ってよく見ると、驚くではないか、けさは彼一羽だけではなく、友だちのツグミをつれて来ている。そして、そのつれのツグミは、人間か猛禽に襲われたのであろう、みんなけがをしているのだ。うたがいもなく、きのうのツグミは、自分が手当をうけたことを友だちに話をしたので「僕も」「あたしも」といって、つれて来てもらったにちがいなかった。
 わたしはこの話を聞いて、鳥類に、すでに道徳のめばえが見られるというこを知って感心したのであった。
 アリや蜂の相互扶助
 動物の世界は、けっして争いばかりしているものではない。もちろん、争いもあるが、一方ではまた助け合いが行われているのである。ロシアの貴族クロポトキンの「相互扶助論」は、その事実を、実例をあげて説明している。
 アリの社会の相互扶助は、一ばんよく世間に知られているところで、別にあとでくわしく述べるつもりであるが、子孫をそだてることや、たべものをたくわえることや、住居をつくることや、アリ虫を飼うことや、そのほか一さいの仕事が、任意的相互扶助の原則によっておこなわれていることはまことに驚くばかりだ。フォレルのいうところでは、たくさんの種のアリのなかまには「食物をくれ」といわれると、のみこんで多少消化したものをも、吐き出して仲間にあたえねばならぬという、アリの憲法があるらしいという。もちろん、これは不文憲法であるが。
 フォレルは「アリの消化管は二つの部分からできていて、一つの方は、もっぱら自分用、そしてもう一つは公共用として使いわけているのだろう」といっている。つまり、アリの体が、助け合いをするようにはじめから用意されているのである。
 蜜蜂もアリとほぼ同様の助けあいをする。このちいさな昆虫のつくる密は、甲虫から熊に至るまで(いいや人間すらが)よだれをたらすほどおいしいので、すぐにも鳥類の餌食になりそうだが、実際はそれほどではない。蜜蜂は針をもっていて敵意をもって近ずく人間をさしたりするが、大したものではなく、また擬態といったような防護器官をもっていない。それでいて、安全をたもつのは、まったく仲間の助け合いの結果だと思われる。
 甲虫やイナゴなど
 甲虫についてもおもしろいことが報告されている。
 甲虫は卵をうみつけるとき、幼虫がかえってからたべるよう、あらかじめ、ほかの小動物の死骸をさがしてきて地中ににうめ、その上へ卵をうみつけるのである。ところが、ごく小さな動物の死骸なら何のめんどうもないが、二十日鼠とか小鳥となると、一匹の力ではとうていうごかせない。そういう場合、甲虫は「おーい、誰か手を貸してくれー」という。すると付近にいた甲虫が「ようし、応援してやろう」といって何匹もきては手をかしてくれる。またある場合には、やわらかい地面のところまで運んでいって、他日の用にといって、みんなで、ていねいにそれを埋葬することもあるが、そうした時、そこへ卵をうみつける特権をもつものは一体誰かというと、その仲間なら誰でもいいことになっていて、少しも争うことをしないというのである。
 イナゴやヒオドシや蛍や蝉なども、いつも集団をつくっていて、一しょに移動し、助けあいをしているらしいが、これはまだ十分に研究はできていない。
 このほか、見張番をおいて餌をあさる鶴の群、どんな食物でも、きっと仲間に分配するスズメ、たがいに巣を訪問しあうモルモットの一種、甲らの生えかわるとき、そのはえかわりの者の上へ、甲ら千枚張りの年長者がのっかって外敵の害をふせぐというカニなど、下等動物のなかまには、助け合いの風習がよくまもられているのである。
 別種の動物の相利共棲
 また同じ種の動物同士ではなく、ある種の動物と別のある種の動物が組みになって、お互いに助けあいをするものもある。たとえば、ケリという小鳥は、いつもワニのそばにいて、ワニに奇生する動物をとってやっているが、そのお礼に、ワニは自分の口の中の食べかすは、ケリがついばんでもいいことにしている。またケリの身に危険のせまったときなど、ワニは一時、ケリをその口の中に避難させてやるのである。
 また、自分で動くことのできない磯ギンチャクは、足のはやいヤドカリに間借りをさせて協同生活をして、居ながらに食べものを口にすることができる。そのかわり、イソギンチャクはヤドカリをその体内にかかえこんで、敵が来た場合、敵の目からこれをかくしてやるのみならず、自分のもっている毒のあるとげで、敵をおっぱらってやるのである。この助け合いを相利共せい、または相互寄生という。
 しかし、中にはこの助け合いを裏切って、恩をあだでかえす悪漢もいる。このことは人間社会も、下等動物社会もかわりがないようであるが、動物界では、人間社会ほど多くはないようである。今、その忘恩動物の例をあげるとロメクーサという隠翅虫(はねかくし虫)がそれである。この虫はアリの巣に奇生させてもらって、アリの食物をもらい、そのかわりアリのすきな一種の嗜好物をアリに供給して、共棲関係をたもっているのであるが、ときどき慾を出して、共存共栄の精神をわすれ、アリが大切にしているアリのこどもをありがとうともいわず盗んでたべてしまうことがあるのである。これは彼らの生存競争がまだそれほど激しくないからかも知れない。
 クロポトキンはいっている。相互扶助なくして、どうして、苦闘に勝てようか。生存競争の激しいところほど、団結は堅い――と。そして今のところ、アリや蜂などの助けあい以上に、互助の事はあまりはっきりわかっていないが、水中のきわめて微細な動物のあいだにさえ、無意識の相互扶助の行われていることが、やがて顕微鏡的研究家によって発見される時期があるだろうとクロポトキンはいっている。
 共同防衛の手段
 このように生存競争のある半面、相互扶助が、動物界に行われていることは疑えない。ただこの相互扶助というものは、なかま同士が他に対して防禦のためにするもので、敵はもちろん、同じ種のものでも、巣が一つちがえば、この助け合いはもうおこなわれない。たとえば、アリの助け合いは、同じ植民地のものの間だけに行われて、巣の違うものに対しては、たとえあいてが飢えていても、公共用の胃袋をひらいて食物を与えることもしないし、その他の協力もしないのである。
 また馬は、オオカミなどに追っかけられると、円陣をつくって逃げる。つまり、うしろから追って来るオオカミの目の前で、ぐるぐるとまわるので、オオカミの目がくらむ。そのすきに逃げようというのである。これは馬同士が、愛情があって助け合うのではなく、ただ、危険をのがれるため、やむなく共同防衛の一致行動をとるのだと見なければならない。愛としては、さほど根ぶかいものとはいえない。本能的の愛といえば愛であるが、まだ自覚のある愛とはいえない。真の愛は、もっと心理的に深められ、高められて、ただ、なかまだけを愛するというのではなく、敵をさえ愛するところまで上昇しなければならない。愛の進化については、わたしは「愛の科学」という書物をかいているから、もっとくわしく知りたい人はそれを読んでほしい。
 人間は動物に恥じよ
 しかし、相互扶助は、完全な愛ではないにしても、生存競争とはまったく反対の一面が、生物界におこなわれることをしめすもので、ダーウィンのいったように、生存競争のみが宇宙を支配し、強者、優者が存続して、弱者、劣者はほろびるものだ、とばかりはいいきれないことを、証拠だてるものということができよう。
 要するに、生存競争が宇宙の根本精神でないということは明かである。なおもう一つの証拠としては、宇宙では愛のすぐれた者ほど高等動物であるということ、また生存競争のはげしいものほど、進化は遅いということ、さらに、高等動物になるほど、一つの卵に対する犠牲が多くなって、たとえば、鳩の卵をまもるために細胞が二百あまりも並んでいて、その細胞が犠牲となっていることなどをあげることができる。もし生存競争が、宇宙の根本精神なら、こんなことはないはずである。
 有名なウェルズは「生命の科学」の中で「百年前、ダーウィンがいったほど、生存競争ははげしいものではない」といって、ダーウィンのころから百年もたっているのに、べつに生存競争が激しくなったというようなことはないといっている。
 生物界に生存競争はあるが、他面、いろいろの保護と愛と、そして犠牲とがはらわれて、これを緩和している事実を無視してはならない。それでなければ、生物界の平和はたもたれるはずはない。
 わたしたちは、こうした動物界の事実を知るにつけても、人間同士がたがいに助けあわないばかりか、たがいに殺しあい傷つけあうというような、非道な戦争を人間社会から払いのけて、一日も早く互助と相愛の、うるわしく、たのしい平和の世界をきたらさねばならぬと思うのである。