少年平和読本(6)人間は猛獣よりこわい

 恩義をわすれなかった大虎や狼の話             
 バイコフの動物飼育
 「神の世界の生きものとして、あらゆる動物は、きわめてわれわれに近しいものであり、われわれの友だちである  」と、エヌ・バイコフという白系ロシア人がいった。バイコフは本年七十八才、今もハルピンに住んで、動物の研究をつづけている学者で、澤山の動物を飼い、その実験にもとづいて、さまざまの興味ぶかい動物小説や動物飼育物語を書いているのである。
 バイコフは、幼少のころから動物が大すきで、中学の予科生時代には、自分の家に動物園を作って、タカ、馬糞ダカ、フクロウ、モズ、カササギ、オオム、ウズラなどを飼っていたそうで、ことにスズメやハトのように人間になれやすい鳥は、バイコフの親友だった。バイコフは学校へいくときも、親友に留守番をさせておくのがかわいそうだといって、ランドセルの中に入れて登校した。
 ある日、授業中、ランドセルのスズメが「ぼくも勉強を一しょにするんだ」といってとび出し、教室内を飛びまわったので大さわぎとなり、バイコフは罰として、禁錮室の中へ二時間とじこめられたこともあったそうである。
 バイコフは「われ等の友達」という本の中でヘビ、ヒキガエル、コウモリ、野鼠、針鼠、天竺鼠、飛鼠、リス、兎、カメレオン、カササギ、蜜蜂、鶴、郭公、山猫、猿、小鹿、斑鹿、穴熊、オオカミなど二十数種の動物を実際に飼った経験を、興味ふかく書いている。
 ヘビは平和愛好者
 これらの動物の中でも、ヘビや、ヒキガエルやコウモリは、その形が人間から見てこのましくないというだけで、人間に愛されないのみか、おそれられたりするが、まったく理由のないことで、バイコフはこう云っている。
ヘビはけがらわしいとか、カエルは不快であるとか、ガマは吐気をもよおさせるとか、またコウモリは、いやらしいとかいう人があっても、それを本とうにしてはいけない。というのは、これらはみんな健全な考えをもたぬ人たちの、愚劣と無智にもとずく中傷なのだから   。
 自然にあっては、すべてが美しく、すべてがよく、すべてが合理的である。なぜなら、神はきたならしいものや、いまわしいものは何一つつくることがないからである。もしも、この世に、虚偽や不真実やけがれが存在しているとすれば、それは、みんな人間によってつくられ、人間から出たものばかりである。
 そうだ、カエルやヘビやコウモリも、気をつけて観察すると、びっくりするほどの美の構成が見られるし、またそのするところをしらべると、全く無害で、おとなしくて、人類のためにこそなれ、けっして害はあたえていないのである。とくにヘビは大の平和の愛好者で、ヘビの方から害を加えるなんていうことはない。ただ、人間などがヘビに害を加えようとするから、やむなく正当防衛として敵対するだけである。
 バイコフは有毒なマムシと青大将を飼っていたが、少しも害をくわえられなかった。青大将は長さ二米二十六センチの強い鉄のような暗色の地に、黄色のしまとぶちのある大蛇だった。彼は掠奪本能があって、近所から小動物を強奪してきた。これはいかんともしがたいものだったが、この点をのぞけば、きわめておとなしい、かわいい動物で、こっちからいじめさえしなければ、めったにかむようなこともなかった。近所の人もそれを知っていて、彼がはって行くと、「お前のおうちはあっちのほうだよ」といって、ていねいに棒きれで帰り道を教えてやる。すると「そうでしたか、これはしつれい」といって、すなおにヘビーをかけて帰っていったそうである。
 毒蛇は扱い方しだい
 バイコフが書斎で書見をしていると、へビはにょろにょろと背中や頭のところまではいあがって来て、「よいながめだなあ」とあたりを見まわしたり、「ちよいと、ひと休みさしてもらいます」といって、そこで休息したりした。またある夜、バイコフが寝ていると、布団がゆすぶれるので、「地震だ!」と驚いて起きると、なぁんだ、ヘビ公、寒いので「われにも布団をあたえよ」とばかり、バイコフの夜具の下にもぐりこんできたのだった。
 もちろん毒蛇もいる。しかしその習性を知ってかわいがって飼えば、めったに危険はなく、飼い主の手から肉をもらってたべたりするものだとバイコフは記している。
 猫族の野獣の中で一ばん凶暴で、血にうえている山猫は、飼うことは困難だろうといわれていたが、バイコフの友人は、生後一ヵ月の雌の山猫が、ひどい腸カタルで死にかかっていたのを手にいれ、すくなからぬ労力と、忍耐と、そして愛とを持って飼育したが、主人夫婦によくなれて、じゃれついたり、あまえたりするところは、家畜の猫と同じだったという。
 「あらゆる動物は飼える。飼ってかえないという動物は一つもない」と、ガルトン(進化論のダーウィンの甥)はいったが、その通りで、バイコフは彼の六十年にわたる動物飼育の経験から、同じことを結論しているのである。

 虎よりこわい人間
 バイコフの動物小説「偉大なる王」は、北満の山奥に住んでいた猛虎の物語だが、この虎の大王は、猛獣狩の人間には断然対抗してかみついていったが、まったく敵意をあらわさない人間のためには、道をゆずったことが記されている。人間を尊敬してではない。人間がこわいからではあるが。
 また「われ等の友達」には、バイコフがこどもの虎を飼って見ようと思って、危険をおかして虎穴に入り、ようやく虎の児一匹つかまえたが、こわかったのは人間よりも虎の児の方で、彼は人間の凶暴性にふるえあがり、袋をかぶせられてつれかえられる途中、恐怖のあまり死んでしまったと書いてある。いったい猛獣というのは誰なのだろう。袋の中で恐怖のため死んだ虎なのだろうか。それとも??
 ゴドウィンという犯罪学者は「人間にとって最も怖しいのは人間自身だ」といっているが、ひとり人間だけでなく、虎のような猛獣にとっても、一番こわいのは、猛獣よりは人間である。バイコフも「動物をおそるるな、むしろ、悪い人間たちをおそれよ。彼らの方が、最凶悪といわれる猛獣や有害動物にもまして、はるかに危険であり、有害であるから」といっている。
 猛獣といわれる虎でも、人間ほど凶暴ではない、とくに、二代、三代にわたって人間に飼われていたり、生まれた時から人に飼われてよくなついているものは、残忍な野性を失って、家畜のように心情の優しい動物になるのである。
 恩人の危機を救った虎
 バイコフの著書「ざわめく密林」に出てくるウスリー産のワシカという大虎は、数年間、分かれていた飼い主を忘れずにいて、その男が、調教中のほかの獅子や虎に襲われて、あわやかみ殺されようとした瞬間、とんでいって、これを救いだしたということである。
 愛は動物にも反応する。養育者の危機を救ったワシカは、その養育者に愛せられて、心からなついていたのだが、片一方の猛獣は、まだしこまれていたというだけで、なつくまでになっていなかったのであろう。バイコフはこの二つの動物の間のちがいを指摘した後、サーカスの猛獣使いが、自分の調教した猛獣にかみ殺される理由をこういっている。
 「サーカスの獣は、調教師に仕込まれているだけで、愛されているのではない。獣が彼に服従しているのは、好意をもつとか、なついているとかではなく、全く彼に対する恐怖の感情のためである。したがって、一度、恐怖がなくなれば、野獣にたち帰って、人間に服従しなくなるのはあたりまえである。」
 まさにその通りであろう。人間が、心から動物を愛し、その友達となれば、動物もまた人間をしたって友達となるのである。
 ワシカのように、人間の恩義にむくいた動物の物語は、古今東西にその例が多く、ローマの競技場で、まさにライオンのえじきにされようとした奴隷がかって、そのライオンの足のトゲをぬいて助けてやったことがあるところから、ライオンは彼をたべるどころか、飼い猫のようにあまえてなつかしがったというパトロクルのライオンの物語も有名である。これらは調教師が、鉄棒とえさ(ヽヽ)で動物を仕込んだのとはちがって、動物に対する人間の愛が、猛獣のこころに浸みとおった結果である。
 猛獣は人間の敵ではないのだ。人間の心一つで、猛獣も人間の友だちになれるのだ。最後に、もうひとつオオカミの話をしてこの話をおわることとしよう。
 純情可憐の狼
 バイコフはある時、生後まもないオオカミの子を手にいれた。凶暴性をもつといわれるオオカミの子だが、まだ乳をもとめている赤ん坊なので、ちょうど、仔犬をなくした牝犬がいたのを幸い、その乳でそだてたが、オオカミはその母犬になついて、成長してその乳母の犬の倍ほどに大きくなってからも、乳母の犬に横腹のノミをとってもらうため、ごろりとあおむけに寝るところなど、全くオオカミとは思われなかったという。またいたずらをしてバイコフにしかられると、そばにのいて、後脚ですわって、かなしそうな声をした。また家にはたくさんの鳥がいたが、少しもこれに手出しをせず、家畜同様の優しい動物となっていた。
 しかし、思春期になって密林の同族をもとめる本能の目ざめがくると、ある夕方、密林をしたって姿をけしてしまった。それからだいぶたったある日、バイコフが密林のしげみをかきわけて、馴鹿を追っていったところ、同行の友が、突然大きなオオカミに出あった。彼は銃をかまえてすばやく引き金をひいたが、なむさん不発だ。しまったと思って二のたまを用意するいとまもあたえず、オオカミはまっしぐらに二人の方へ突進してくるではないか。絶対絶命だ。ところが突進してきたオオカミは、友の方よりもバイコフめがけてとんでくる。と思うと、突然、バイコフの膝に頭をこすりつけるではないか。そうだ。先の日のオオカミだったのである。オオカミは身をふるわせ、バイコフにじゃれつきまわって、どうして自分のよろこびと愛情とをあらわしたらよいかわからぬといった風である。彼は野獣の世界へ帰っても、まだバイコフを忘れていなかったのだ。いいや、バイコフの顔というより、バイコフの愛をである。
 しかし、彼はもうバイコフ家のオオカミではなく密林の野獣であった。まもなく、近くにオオカミの声が聞こえてくると、本然の我に帰って、身をおこし、バイコフに意味深長の視線をのこして、たちまち、しげみの中へ姿をけしてしまった。バイコフはそのあとを追うて、声高く彼の名をよんだが、原始林の密林は太古のようなしずけさで、ただ山彦がかえってくるだけであった。
 こういうようにして、バイコフは猛獣を飼い、友としてきたのだが、このオオカミのような雌雄のそろっていない場合は、ある時期がくると密林へ帰してやらねばならなかった。しかし、雌雄のそろっている場合は、いつまでも人間のよき友だちとしてなじむのであった。
 密林へ帰って後もバイコフを忘れなかったオオカミや、恩人の危急を救った大虎ワシカなどの話をきくと、わたしたちは、猛獣といわれるものも、闘争本能ばかりで動いているのではなく、飼いならし、かわいがっていけば、本能以上の感情をもつようになるものだということを教えられるのである。

 愛は猛獣の心を動かす
 愛は動物の心をもうごかす。心から愛撫してやれば、猛獣もほんとうに人間の友だちとなって、人間の方へ一歩進んでくるのである。
 ところが、人間はどうだろうか。人間は他の動物を、意味もなくいじめたり、殺したりするばかりか、人間同士殺しあって少しもはじようとしない。それも、一人が一人を殺すというのではなく、何万、何十万という人間が、集団的に殺し合いをする。人間社会は進化して行っているというが、人間の凶暴性は少しも減退しないで、ますます深刻になり残虐になっていっている。これでは、人間がだんだん野獣の方へ近づいていっているといわねばなるまい。
 人間がその野獣性をはらいおとして、戦争など一日も早く地上からなくしてしまわないと、人間の友だちなる動物は「人間は野獣だ」といって遠ざかることになるかもしれない。