傾ける大地-6

   六

 その日の夕刻、外務参与官志田義亮は、わざわざ自動車を若竹楼に呼ばせて、其処から余り遠くもないのに、土肥謙次郎の本宅まで、威風堂々と乗りつけた。

 土肥家では余り咄嗟(とっさ)な珍客に、上を下への大困難であった。それと云ふのも志田が突然来年の総選挙の費用を、今から工面して置く必要があると云ひ出した為に、県会議員の八束と公民会の首領斎藤新吉が
『それでは是非、土肥謙次郎に会って呉れ』
 と云ふことになり、彼から少くも五六万円の選挙費は出させると云ふ約束で、志田は突然の思ひ付きに土肥を訪問することになったためであった。

 土肥家で斯うした高貴な客を迎へた事は、未だ嘗てその家の歴史に於て無いことだった。曾て安田善次郎が殺される前、ちょっと土肥家に立寄ると云って、大騒ぎをしたことがあったが、汽車の時間の都合で、遂に寄らず了ひになったので、その時買ひ整へた諸道具はその儘倉の奥に蔵ひ込まれて、その後使ふ機会が無かった。

 実際、土肥謙次郎が政治に頭を突込んで来たのは極最近のことであって、彼はたゞ農村の大地主としてのみ知られて居た中は、曾て町会の選挙に関係すると云ったやうなことはなかった。それが加古川に紡績会社が建ち、加古川高砂町を繋ぐ軽便鉄道が架り、明石姫路間を連絡すゐ急行電車が出来てから、彼が持ってゐた土地に価格上の大変動が起り、一躍彼は土地成金の一人として数へられるやうになったのである。それ以来といふもの、殆ど文字も碌々読めない謙次郎が、地方政治の中心人物であるかの如く考へられる様になった。

 妻のよし子は大喜びであった。
『旦那はん、今年は好い年でっせ、余程星廻りがいゝんだすなア、家に運星が向いて来たと云ふんだっしゃろな、ひょっとしたら志田はんは政府の命令で、旦那はんを貴族院議員に任命すると云って来られるのか知れまへんぜ』
台所で志田を歓迎する為に茶盆を拭き込んでゐた彼女は、嬉しさの余りにさう云うた。

貴族院の次は男爵だすな。さうすると、うちも華族って云ふのになるんだすなア』
 貴族院議員とか男爵とか云ふ噂だけでも、謙次郎は全く天下を取ったやうな気持ちになった。彼は台所の神棚にお燈明を上げて、家運が益々降盛になるやう、一所懸命に拝んだ。その時表に、自動車の爆音が聞えた。そして賑かな下駄の音と靴の音が、玄関先に近寄って来た。

 よし子はわれ先きに玄関に飛び出て、さアっと、簾の子の入った夏障子を両側に開いた。その時どっしりした体格の持主である外務参与官志田義売は、モーニシグ姿で玄関の真中に立った儘うやうやしくよし子夫人に敬礼をした。それは斎藤が、
『御当家の奥様です』
 と私語した為であった。よし子は、さうした位の高い役人から、そんなに鄭重な敬礼を受けたのは生れて初めてであった。
『矢張り金持ちの妾にならなくてはならぬものだ』
 とその時に彼女はすぐ頭の中で考へたのであった。後ればせに主人公謙次郎が玄間に出て来た。謙次郎は此人が彼を貴族院議員にして呉れる人だと暗示されてゐるものだから、平蜘蛛のやうになってお辞儀をした。すると先方でも平蜘蛛のやうになってお辞儀をする、御上使などとは余程遠ふ。表座敷に通っても、志田は只もう土肥家を持ち上げること許り云ふので、主人公の謙次郎も多少底気味が悪くなってしまった。

『明石姫路の急行電車が通った為に、随分お宅の地面は上ったでございませうなア』
 とか、或はまた、
『今度加古川高砂の間に軌道が出来て、東海道線との連絡が更に円滑に行くやうになるとお宅の所有地の価額は何層倍かに暴騰するでせうね』
 とか云った話許り連続的にするものだから、謙次郎は全く恐縮してしまって、どう云って返事していゝのか見当が付かなかった。

『はい、はい』許りを連続的にだゞ繰返してゐるものだから、斎藤新吉は傍から、勝手な一人決めの計算を立てゝ、志田に答へてゐる。娘の愛子が耳隠しに結うて、お茶を汲んで出て来ると、志田はまたその娘を激賞する。
『実に御立派なお娘さんですね、学校は?』
 と聞き出す。それを妻のよし子が得意になって、
『今年の春女子大学を出た許りでございます』
 何も知らない志田は独言のやうに、
『私の知ってゐる男爵で良縁を求めてゐる法学士があるんですがね』
 と切り出す。妻のよし子は、眼尻に深い皺をよせて尋ねた。
『それはどなた様でございますか?』
 四角張って団扇を使ひ乍ら、志田は、
『それは正親町実世(あふぎまちさなよ)と云って、お母様とお二人だけの公卿華族の方でありますが、実は私の下で働いて貰ってゐるのですがね』
 と軽く出る。主人公は、さうした挨拶よりかもう少し甘い話が、今志田の口から洩れるかと待ってゐたが少しも出て来ない。貴族院議員にしてやる等と云ふことは少しも云って呉れない。何十万円出せば男爵にして呉れると云ふ秘訣も教へてくれない。希望は少し悲観的材料に変って行った。

『ときに――』
 と志田義亮は一二尺前に擦り寄り、紫檀の机に右手をかけて、煽いでゐた団扇をその机の上に置き、言葉を改めて土肥謙次郎の瞳を見つめた。
『それ来た、貴族院議員か? 男爵か?』
 と土肥謙次郎は動悸が早く打つのを覚えながら、息をも止めて志田の唇に注意した。

『――本日御当家に伺ひましたのは、余の儀ぢゃないんですが、憲友会の本部から特命を受けて参った訳なんです、それは来年の総選挙を前に控へまして、本部に於きましでも費用も要ることでありますし、是非当家のやうな御有力なる方に是非御寄附を願ひたいと云ふ意志で伺ひに上ったわけであります。勿論御無理を申しますからには、本部に於いても相当な顧慮を致した上のことでありますから、決して御難題だけをお懸け申すだけでは毛頭無いのであります』

 その謎のやうな言葉を聞いて謙次郎は黙り込んでしまった。
『顧慮した上』とか『難題だけ云はぬ』と云ふ言葉だけが、男爵にしてやるとか、或ひは貴族院議員に推薦するとか、その点がどうも明確でない為に、彼は大いに迷うたのであった。それで彼はおづおづ之だけの答へをした。

『いやもうお出で下すっただけで光栄に思って居るのですから、御下命下されば何なりと御用を務めますでございます。然し何を申しましでも貧乏なものでございますから、大した事は出来ませんけれども、それはまた他日御相談を受けますなら、親類の者ともよく相談致しまして寄附さして頂きますでございます』

 番頭の島田が膳を運び込んで来た。志田は帰るのを急いてゐるやうであったが、膳を見ると立つ訳にも行かず、一緒に来た県会議員の三人と斎藤の五人で膳につくことになった。

 酒が出た。そして、また利権問題の話が出た。多額納税議員の話が出た。土肥は、只もう幸運が彼の家のぐるりを取り囲んでゐるやうに思はれたので、ただ考へ込む許りで、辛うじて志田と斎藤が、調子好く高砂町の繁栄策に就いて物語ってゐるのを、傍から聴くことになって、彼の愚さを暴露しない事に努めた。よし子は志田に是非泊って行って呉れと進めた。然し、志田は大阪に用事があるとか云って、飯も一膳食っただけで、喰ひ逃げするやうに、来た時とは余程遠った態度で、逃げる様にして玄関を出て行った。
貴族院議員にしてもくれず、男爵の恩命も被らず、唯選挙費の寄附の命令だけを受けた土肥謙次郎は、たゞ呆然として玄関先に立った。そして何が何やらさっぱり判らなかった。台所へ這入ってみると、番頭の島田正吉が、下女を相手に外務参与官になり済まして、お余りの御馳走を頂戴してゐた。