傾ける大地-7

   七

 午前九時に開会の筈の町会は、十二時になってもまだ開かれなかった。それは高砂時間と云って、一時間や二時間位遅れる位のことは普通で、誰もそれを怪しむ者は無いのであるが、町会は特に満足に時間通り開会したことは之まで一度も無かった。

 それに今日はあれだけ喧しく云ってゐた斎藤が、若竹楼の問題で会議に出席するのが遅れたのと、副首領株の伊藤唯三郎が、京都のある寺の大売立に行って、まだ帰って来なかったものだから、頭数だけは町会が開けるだけ揃うてゐたが、陣笠連は、斎藤や伊藤に遠慮して、二人の出て来るまで無駄話に時間を貸しながら、一時間余も待ったのだった。

 やっとのことで一時過ぎに斎藤が顔を見せ、伊藤もふうふう云ひ乍ら、停車場からすぐ町役場へ駆け付けて来た。少数派と呼ばれてゐる三名の者は人数から云っても公民派の五分の一しか無いものだから、余り意気も上らず、さうかと云って別に反対派と言葉を交さい程度の疎隔もなく、斎藤や伊藤が来ない中は、大勢の中に混って笑話に皆と一緒になって時間を費した。

 特に三上実彦が医者であるだけに、敵味方無く皆愛想よく彼に話する者が多かった。然し、いざ開会となって、斎藤や伊藤が席につく段になると顎髯の三上を初め、青瓢箪の大友良知、坊主頭の川上市太郎の三人は、長い机を四つ置かれた、広い会議室の議長席と正反対の端の方に、一塊になって坐るのであった。

 型の如く加納町長から最近の実情報告があった。然し聴き手らしい者は半数もなかった。煙草を吹かす者、お茶を飲む者、瞑黙してゐる者、新聞を読んでゐる者、思ひ思ひの姿勢を取って質問をすらする者は一人も無かった。

 然し町長が、
『本日の議案と致しまして、区劃整理の件、水道工事調査費の件、産業組合奨励に関する件、夜学校専任教師一名傭入れの件、以上は私の提案であります。先づ区劃整理の件から御相談を願ひたいと思ひます』
 と切り出すと場内は一種の緊張味を見せた。一人の傍聴者が占めるのではなく、外には雨がしょぼしょぼ降ってどんよりした重い空気が、みんなを頭の上から押し付けるやうに感じさせる厭な日であった。町長は小学校の生徒に話するやうな口調で、叮嚀に区劃整理の必要を力説した。

『今のやうな有様では、すは火事と云っても蒸汽ポンプ一つ這入らない処が多いのですから、みすみす数十万円の富を一夜の中に失って仕舞はなければなりませぬ。それのみならず、自動車と荷馬車が摺れ遠ふことの出来ない通りが多いものだから、町の途中で二つの物が出会すものなら、一方はどうしても一度引返して、先方から来るものを通してから、自分の車を前に進めると云った不便な処が沢山あるので、此の際思ひ切って、軒切をやる必要があると思ふのであります。大阪市などでもやって居りますが、別にその為に、町から補助を出す必要もなく、唯町で強制的にやらすだけの覚悟を決めればいゝと思ふのであります』

 さう云って町長が椅子に腰を掛けると、反対の第一声を挙げたのは樋口であった。彼は質問も何もしないで、大声で云うた。

『それは云ふべくして行はれんこっちゃ!』

 さう一人が切り出すと、後は隣同志の雑談になってしまった。議長席には斎藤がついてゐるのであるが、斎藤も隣に坐ってゐる伊藤唯三郎と話し込んで、議場を整理するなど云ふことはしなかった。やゝ暫くしてゐると、三上が立上って賛成演説をしたが、それを聴いてゐる者はごく僅かであった。三上の演説が済むと、議長にも案内せずに呉服屋の樋口は坐った儘三上に云うた。

『さう云ははるけんど、三上さん、実際そりゃ出来しまへんで、わたい、あの、大阪の江戸堀五丁目辺りの軒切を見て来て知っとりますがなア、三年前から命令が来とりますのに、未だに軒を切っとる家と云ったら、まあ半分だんな、賠償金でも出すと云ふのだったら、また話は違うて来まっしゃろけど、迚もこの高砂では云ふべくして行はれまへんな。私は初耳ぢやが、東京では自分の門先の間口の広さで、道路改善費を税金にして払ふとあなたが云はれましたが、そんな事でもこの高砂でしようものなら、それこそ大騒動ですなァ、そりゃ地震は怖がす。あなたの仰しゃる通り、蒸汽ポンプの通れる町も少うごわすなア、然し人間って妙なもので、その場に立至らぬと目が醒めんもんだすよってなア、迚も今云うても埒が明きまへんな、一層のことどしんと一遍来たらえゝのだす』

 大勢はそれでどっと笑った。それ以上この案に就いて誰も審議しようと云ふ者はなかった。一二分間沈黙が続いたものだから、議長の斎藤はその案が否決されたものとして、次の案に移った。

 町長は次の案である水道工事調査賓の問題を説明した。然し是に就いても樋口はまた不賛成を称へた。

『水道があったらよろしゅおます。それに違ひおまへん。然し之も経済の問題でしてなア。幾ら掛るか知りまへんけど、わたいの考へでは、ちょっくらの金では出来んと思ひまんな、まあ五十万円仕事だすな、さうすると、この貧乏な高砂町では、ちょっとそれだけの金を、今町債を起して拵へると云ふことも出来ないし、然ればと云って、増税に依ると云ふ工夫も立たんし、まあ景気が直るまで、万事期うした新しい仕事は手控へして置くのが一番えゝと思ひますなア』

 斎藤は自分が議長であることを忘れて、一人で妙なことを云ひ出す。

加古川紡績などはちゃんと大きな水道を持ってゐるのだから、あの水をちょっと此方に分けて貰ふわけにいかんもんかいな』

 傍に坐ってゐる伊藤は、如何にも参謀格らしい口調で彼に答へた。

『そりゃ君、あんな大会社がやるやうな調子で水道を作れば、水道位引張って来ることは何でもないよ、何でも東京の郊外にある大森町なども、株式会社で水道工事を請負ってやってゐるといふことを聞いてゐるが、そんな事をやるならば或ひはいゝかも知れんぜ』

 傍で聞いてゐた樋口は、すぐそれに賛成した。
高砂などは今の処さうでもするより外、道が無いぢゃないか、君』
 三上は反対側の方から大声で樋口に呼び掛ける。そして坐った儘、
『そこが樋口さん、今町長が云った、調査しようと云ふとこぢゃないんですか?』
 樋口はそれを聞いて、持ちかけてゐた湯飲茶碗を机の上に置き、
『然し三上さん、調査って、みんな実業に従事してゐる者が調査も何も出来しまへんやないか、そして調査費の百円や二百円を出した位で、結局は、助役が東京まで行って来るだけの旅費しか出やせんのやったら、止めておいた方がましだっせ』

 それだけで、この案もまた片付けられてしまった。斎藤はその次の案を議すると云ひ出した。町長は

『――産業組合奨励に関する件――これに就いて、私はくどくどしく説明する必要は無いと思ひますが、どうしても、斯うした田舎の町では、信用組合の発達と、購買組合のしっかりしたものを作らなければ、大きな処はよいとして、中以下の人は非常に困ると思ふのであります。それで只今出来て居ります信用組合を、更に有力なものにする為に、大阪にある庶民銀行の例に倣って、この際うんと宣伝をする必要があると思ふのであります。またこの町には、相当労働階級も多いのでありますから、それ等の人の為に購買組合を作って、生活の安定を計ってあげる必要があると思ひます。それには是非他の都会でもやってゐるやうに、町役場が指導的立場をとる必要があると思ふのであります。それでこの際出来ることなら、県の産業組合主事を招いて、高砂町主催の講演会をするなり、また町役場の中に、産業組合の仕事を取扱ふ事務員を、一人特別に殖せばいいと思ふのであります。如何なものでありませう?』

 これに対して反対した第一人者は、三日前若竹楼の二階で舞妓の梅幸の奪ひ合ひから、席を蹴って立上った家具屋の滝村喜一であった。彼は噛み付くやうな調子で、町長に向って云った。

『町長はよく労働者、労働者って云はれるけれども、不景気で困ってゐるのは労働者許りぢゃありません。我々商売人も相当に困ってゐるんです。只さへ競争者が多くて困ってゐる上に購買組合を作られて、市価より二割も三割も引いて売られた日には、高砂町の商売人ば皆上ったりやになってしまひます。私は購買組合など作ることに絶対に反対であります』

 陣笠連の中で六七人の者がそれに向って拍手した。
『ぢやア、この案も否決されたものとみて差支へないでせうね』

 議長の斎藤はさう云った。その次の案である。夜学校専任教師一名傭入の件に就いて、町長は委しくその必要を説き、昼間の教師が疲れて、完全な教育を施すことの出来ない者が多いから、是非専任の教師一名を傭入れたいと説明した。それに反対したのは、酒屋の村上勇吉であった。

『うちも小僧二人許り夜学に上げて居りますが、よく勉強して来ますぜ。近頃はなかなか算盤も上手になりましたし、読本も読めますし、私は今の程度で結構だすと思ひますなア』

 それに対して町長は、夜学校は生徒の出席率の悪いこと、点数の不良な事等を統計に依って説明したが、例の調子で樋口直蔵は町長の云ふことを茶化してしまった。

『そりゃ止むを得まへんぢやおまへんか、町長、そりゃ夜学に上ってる者は、多く商店の小僧とか、鉄工場の徒弟が多いんですから、その中には疲れてこっくりこっくりやる者もありませう。従って成績の悪くなるのも無理からぬことです。それは生徒の境遇が悪いので、境遇から変へてやらぬと、先生だけ変へても埒あきまへんで、余り予算のない町やよって、夜学に専門の先生を置くなら、昼の学校に一人増やした方が、私は町の為になると思ひますなア』

 それで町長の意見は、結局有耶無耶(うやむや)に葬りや去られてしまった。そして緊急動議があるからと云って、斎藤と伊藤は席を取換へ、伊藤が一議長席に就いて斎藤がその傍に坐った。

 斎藤は緊急動議の説明をした。それは町会議員十五名の署名捺印まで取った遊廓地指定請願の件と、競馬場認可の件であった。公民派一派の疾風迅雷的の態度に憤慨した三上実彦は、つウと立上って。

『議長質問!』
 と叱咤した。

『議長、そんな重大事件は少くも、約二週間前に議員全体に告知すべきものであって、緊急動議を以て採決すべきものではないと思ひます。町民の間には相当それに対して反対する者もあると思ひますから、それはこの次の町会まで延期を願へると結構なのでありますが、提案者側に於いてはその意志はないのでありますか?』

 それに対して斎藤は次の如く答へた。
『我々が之を緊急動議として提出した理由は、余り前から町民に知らすと成るべきものが成らないと懸念したからであります』
 其処で三上は反対の大演説を初めた。

『――私はこの案には斎藤さんには絶対に反対であります。こんな愚劣な、そして人を馬鹿にした緊急動議なんて云ふものは、高砂町の道徳を腐敗させ、家庭を破壊し、多数の破産者を作り、梅毒患者を製造し、低能児を生み出し、精神病患者を作る直接の原因となるのであります。私は公民会の一派が多数党なるの故を以て、こんな乱暴な、人道を無視した緊急動議を出すに於いては、我々は町民大会を開いて、町民の与論を開いた上で、凡てを決定したいと思ふのであります』

『馬鹿野郎、何云ってるんだい!』
 さう怒鳴ったのが家具屋の滝村であった。樋口は三上の演説がまだ済まないに拘らず、大声を張り上げて、
『町民大会を開くのは勝手やけんど、我々も町民から選挙されたのやさかい、町会で多数を占めて居ると云ふことは詰り、町民の大部分が、我々と同じ意見を持ってゐると考へていゝだすぢゃないか』

 その声を聞いて、三上は頬髯を撫でながら卓を叩いて叫んだ。
『然し真理は数に寄って決せらるべきものぢゃないのです』
『何によって決せられるのだ?』と滝村が問返す。
『真理は真理に依って決せられるんです』
『馬鹿を云へ、多数決に服従しろ』。滝村はまるで喧嘩腰である。
 彼は梅幸事件の雪辱戦を今日やってゐるつもりらしい。

 その声を聞いて三上実彦は、
『我々はこんな汚い町会に袂を連ねてゐることを潔しとしない。私は本日限り町会議員を辞職します』
さう云って三上はぱッと立上った。
『私も辞職します』
 さう云って立ったのは青瓢箪の大友良知であった。
『私も辞職します』
 さう云って三上、大友の後に続いたのは、布袋の様な大きな身体な持った川上市太郎であった。
 正義派の三名が去った後、議場は何だか堕れ気味になった。三名がまだ町長室に居た時に、こんな声が聞えた。

『それでは皆さん、異議ありませんなア』
『異議なし、異議なし』
『賛成! 賛成! 賛成!』。
 そして拍手が起った。外には相変らず、四月の大粒の雨が土砂降りに降ってゐた。