傾ける大地-8

   八

  鉄の火鉢の前に坐って、真鍮の安っぽい煙管の雁首を激しく二三度火鉢の際で叩いた英世の父理一郎は、客の顔を見ないで呆然表の泥濘の方を見つめた。そして煙管を親指と人差指の間でキリヽと廻して頭の方を持ち直し、また刻み煙草を煙管の首に詰めた。
 雨は少し小止みになった。然し寂しい高砂町では雨の日など殆ど商売が無いのは普通であった。理一郎は朝から近郷の農民に貸付けた肥料代金の計算に余念がなかった。新しい註文と云ふのは竜野の農業倉庫を通して、硫酸アムモニア十噸の契約が出来た位のものであった。

 午後になって這入って来たのが店としては新顔の客で、それは最近青田の埋立を喰った小作人の代表者初田伊之助と滝村俊作の二人であった。初田伊之助はくどくどしく彼等の窮状を述べて、残ってゐる肥料の買戻しと既に施肥した肥料代金の決済を、一年間猶予して呉れと、英世の父に申込んだのであった。

 杉本商店は高砂町でこそ相当に信用のある肥料商ではあるけれども、資本金も少く、辛うじて大阪の山加の荷を廻して貰って、商売を続けてゐるやうな始末で、一年に三十万円と売上高のあることは、まことに珍らしい事であった。理一郎は堅い人だけに一切投機的な事はしなかった。
 然し商売が商売だけに相場の変動が激しいものだから、外国の人造肥料が多く入って来るやうになると共に、相場の立て方が全く乱調子となり、外国為替の関係、貿易高の多少、内地生産額の多寡、「三白」即ち米糸綿の需給関係等が著しく、肥料の相場の変動に影響して来るものだから、田舎の隅っこに引込んでゐる理一郎にとっては、肥料居を経営することが全く困難と考へられるやうになった。

 大正九年大恐慌を受げて彼は閉店しようかと思ったこともあった。然し幸ひにも商売が小さいだけに痛手も尠かったので、辛じてその命脈だけを維持した。然しそれ迄番頭の四人も置いてゐた彼は、整理の必要上小僧一人に減らして仕舞って、殆ど自分一人で凡てを切廻して行くことに決めた。食ふだけはあった。然しそれ以上の儲けは全くなかった。

 理一郎は、高砂でも最も変人の部類に数へられてゐる男で、商売上の交際の他は殆どしなかった。その為に、家は祖先伝来のものではあるし、英世の妹は女学校の教師をしてゐたので、家計はさう窮迫はしてゐなかった。得意も余り多くはなかったが、別にお上手を云ふではないけれども、十年前に買うてくれた客は、大抵続けて彼の店で買うて呉れるのが常であった。その中には今彼の前に坐ってゐるやうな小作人もあった。

 初田は薄いシャツ一枚に白いパッチを穿き頬被りをしてゐた。雨が激しくなったので、田圃から直ぐ来たと見え、蓑笠姿で店に這入って来た。脊の高い滝村も同じ様な服装をしてゐた。滝村は経木真田(きょうぎさなだ)の縁の広い帽子を笠の代りに被ってゐた。

 庭先には、杆桿(かんかん)や豆粕が処狭く積上げられであった。店には何年前に貼られたか、郵船会社の船名表が筆太く書かれて貼り廻されてある。表の方は格子になってゐて、薄記台が、二つ向ひ合せに入口と反対の側に竝べられてゐる。その上には大きな大福帳や、金銭貸借帳、荷為替の袂込み、電報頼信紙等が取散されて置かれてある。壁には、大阪商船や、日本郵船の色刷り広告がべたべた貼られて、如何にも田舎臭い感じを与へる。

 奥の間に立入る処には大阪人造肥料会社の余り大きくもない工場の全景が額になって掲ってゐる。小僧の平吉は汽車積みの荷がステーションに入ったとかで、その方に行って姿を見せない。そんな時にはお茶を汲んだり電話を掛ける役は、みんな理一郎一人でやって除けるのだった。

 理一郎は大のだんまり家で、息子が東京から帰って来ても、嬉しいとも楽しいとも言も云ひ現さない程の変り者であった。それで息子とは五分間と続けて面と向って話したことは、英世に物心が付いてから殆ど無かった。

 英世は父の性質を知ってゐるものだから、商売上の事に就いてこれ迄干渉などといふことはしたことが無かった。父は損したとも得したとも、曾て家の者に洩したことはない。それで家の者も会計がどうなってゐるか少しも知らなかった。が、さうした傾向は英世や俊子の母が死んで後激しくなって行った。

 こんな風であるから、客に対しても理一郎は余り高値を吹きかけることが大嫌ひであった。それで堅い人として町でも村でも、存外評判が好かった。然し初田や滝村の要求には彼もちょっと返事に困った。彼等は五人して約六百円近くの肥料を持って帰ったのであったが、それは肥料の最も高い五月頃であった。それを今頃になって半分をつき返し、価額の半分は一年待ってくれと要求されて、彼も返事のしやうがなかった。

 然ればと去って、それらの貧しい小作人の内間を知ってゐる理一郎は、残酷にも彼等の要求をすげなく断る勇気も持ってゐなかった。
 大きな丸い眼をした奥眼に面長の脊の高い理一郎は、やゝ神経質の表情を表はして、前高に刈った胡麻塩の髪をを手で撫で上げ乍ら云った。

『まあ考へて置きますわ、不景気だすよってになア、うちも三百円の現金で貸すとちょっと困るんやけど、それも仕方が無いとして、事件が落着するまであんまり面倒臭い事は云はないで、御互ひに無理云はんことにしまひょうかい、肥料はとけますよってに、あんた処も少し損しなはれ、一割がた損する覚悟はありまっしゃろな』

 さう云って居る処へ医者の三上が這入って来た。
『お父さん、お息子さんお出でですか?』
 三上は一寸理一郎に敬礼をしてさう云うた。それに対して理一郎は平蜘蛛のやうになってうやうやしく答礼をしながら答へた。
『はい、先刻まで居りましたから居ることでございませう、見て参りませう』
 と、腰巻の上に軽い帷子の『陣兵衛』を着込んだ父理一郎は、気軽に奥に立入った。そして若い学生風の息子を連れて再び店に出て来た。

 英世は三上の顔を見るなり、両手を畳の上について叮嚀にお辞儀をした。
『やア三上先生、今日はどちらへ?』
 父は奥へ這入って客の為に茶を汲んで来た。
『今日はね、町会がありましてなア、今その帰りでずが、腹が立ってむしゃくしゃして仕様がないものですから、一寸あなたに話を聞いて貰はうと思って廻って来たのです』

 二人の百姓は、思ひ合せたやうに三上の顔をじろじろ見る。三上は火鉢の傍にすり寄って湯呑茶椀を取上げ乍ら云うた。
『杉本さん、地方の墜落した町会議員なんでいふものは、ほんとに仕方がないもんですね、何か彼等を覚醒する工夫はないもんですかなア』
『先生、そりゃ亦何うしたんです?』
 英世は、彼等の腐敗状態を見せ付けられて居たものゝ、三上の口からそれを聞くのが初めてであるだけに、彼は今更の如く訊き直した。

『あなたもお聴き及びでせうが、加納さんはあんな人格者でせう、公民会の一派は加納さんの排斥許りを企んで、何でも彼でも加納さんを追出さうと云ふこと許りやって居るのです。全く無茶なんですよ。それに今日は緊急動議でね、遊廓設置と競馬場新設を決議しちゃったんです』
『そりゃ困った事が出来ましたね』

『処が、この町には確りした知識階級っていふのが無いでせう、町民を指導して行く若い者と云ったら殆ど居ないものですからね、我々は少数党だし、町長がいつも開かれる禁酒会か矯風会の演説会も盛んぢゃないんだし、今度も泣き寝入りにならなくちゃならんと思って、私は無念で仕方がないんです、何かいゝ工夫でもないもんですかなア』

『さあ、私も此の間中から随分公民会一派の厭な事を見たり聞いたりしてゐみものですから、何かこの際大いにやらなくちゃならんとは思ってゐるのですが・・・愈々町会で遊廓設置を決議しましたか? そりゃ大変ですね・・・何しろ私は官吏でせう、云ひ度いことも官吏服務規律で縛られてゐる為に、何も云へないのです。然し私も大いに近頃考へさせられてゐるのです。外務省の方を臨時休職するか、断然辞職して、一年間うんと保義して健康を養ふ一方、あの墜落した公民会の一派と、徹底的に戦ってみょうかと思ったりなどしてゐるのです』

『さう願へると結構ですね』
 二人の間に沈黙が続いた。英世は、何か深く思ひ詰めて居るかの様に、明け放された出入口の向ふに見える道路の水溜りを凝視して居る。その眼には明らかに或る決意が示されて居た。医者の三上は暫くの間、英世の横領を見凝めたが、一寸視線を二人の農民の上にそらせて、叉理一郎の方に向きなほり乍ら、静かな口調で訊ねた。

『御商法には邪魔ぢゃないんでせうか?』
『いゝや別に・・・』
『然し此の人達も気の毒な人達ですわい。あの例の小学校裏の事件に田圃を取り上げられたものですよってに、全く食へなくなって、一旦私の方から売った肥料が要らなくなったものですよって、引き取って呉れと云ふ談判をうけて居るのですが・・・。えらい処まで飛火して、うち迄が迷感しますわい』

 三上は其を聞いて、大きな陶器の火鉢の傍にすり寄りながら云うた。
『あれも実際無理なんです。私は町会で小作人には農作物に対する賠償金を保証せねばならぬと主張したのですけれども、訳の解らぬ公民会の一派は、飽く迄賠償不要論を主張して、二十何名かの小作人を見殺しにして仕舞ったのです。その癖、斎藤新吉は、土肥謙次郎と町役場の間に立ってうんとこさ儲けたといふ評判です。斎藤は汚いですからね』

 しょんぼり杆桿の傍に立って居た初田伊之助は、その言葉を聞いて二三歩前に近づき、出し抜けに、どら声で叫んだ。

『公民会の奴等、ほんとに生首でもひっこ抜いてやろかと思って居るんぢやが、日本の法律では、どうにもかうにも出来んもんかいなア』
初田は一寸頭を下げ、英世に挨拶をしながら叉尋ねた。

『此方の若旦那にお目にかゝるのは、今日初めてですが、あなたにお尋ねすると、解ると思ふんですが、一体日本の法律には、人の青田に、土を盛り上げても、小作人は黙って居らなければならんもんですかいなあ?』

 突飛な問ひに当惑しながら英世は静かに答へた。
『まあ今の処では仕方がないでせうね。元来日本の民法と云ふものは、生存権と労働権の上に立って出来たものではなく、権力を持って居るものが勝つ様に作られであるのですからなア。多少無理な処がありますなア・・・何ですか、あなた方の土地は稲を植ゑる前に明け渡しの通告を受けたのですか?』

『それは誰がきいたと云ふのではないんですが、役場の小使の様な人がやって来て、そんな噂して帰って行ったことがある様に憶えて居るのです。若しもはっきりして居れば、私等だってまんざら馬鹿ばっかりでもないんですから、植付けも控へた筈なんです。黙って放って置くもんですから、田の草を二遍も取り、肥料も一反歩に就いて十円近くもやって仕舞った後に、あの騒ぎでせう。まるで狐につまゝれた様で、馬鹿らしくって、開いた口が塞がらないのですよ。それで、「土肥謙」の親爺の処へ呶鳴り込んで行った処が、警部補が十人も巡査を連れて来やがって、俺等を検束しやがるんです。胸糞が悪くって警察でも焼き打ちしてやろかと思ふ様な気になりましたよ、然しそれも詰らんと思ふたから、吾々は巳むを得ず泣き寝入りするより他ないんです』

 三上は頬髯をなでながら『御尤もです、御尤もです』と小さい声で云ひながらしきりに頷く。英世は、彫刻の様に固くなって門先きを見つめ続ける。父の理一郎は煙管の雁首に刻み煙草を詰めかへる。三上は言葉を改めて英世に云うた。

『さうですかね! 日本の民法では青田に土を感り上げられても小作人は敗けるのですかね、それぢゃ小作人も立つ瀬がないが、小作人を救うてやるにはどうすれば善いのですかなア』
 英世は即座に答へた。
『それは良心を政治に引きなほせばいゝんです』
 また雨が降って来た。パラパラと劇しく屋恨の瓦を打つ音がする。
『おや雹(ひょう)が混ってゐるぜ! うちの桑もやられちゃったなア、今年は妙な天気が続くが』

 店先きにゐた五人の視線は、思ひ合はせた様に門口に注がれる。
 礫(つぶて)の様な雹が瓦にぶつかって、下にころげ洛ちては、温かい泥土に触れて、またゝく間に消える。白く光る雹の空中に描く線は、暫くの間実に物凄かった。三上は云った。

『今年は妙な年ですなア、太陽の黒点の作用でせうか、飢饉がなければいゝですがなア。稲の花の咲く時に、今日の様なことがあれば、地主はまだよいとして小作人は困りませうなア』
 英世の胸は掻き割かれる段に聞えた。農民のことを思へば、敵を相手に戦ひたくなるし、彼を恋して居る愛子のことを思ふと戦闘意志が鈍る様にも考へられる。戦はなければ、資本家の横暴は益々募るばかりだし、町会の腐敗は益々見るに見兼ねる様なことをおっ始めるものだから、此の際凡てを投げうって、町政革新の為に、地位も名誉も棒に振らうかと云った様な考へが湧かないでもない。

 然しさうなると、ブランス行もおぢゃんになるだらうし、金権との聯絡も全く杜絶することになるであらう。其の時の父や妹の心配を思ふと何だか可哀想にも考へられる。濁って居る生活を世間といふならば、彼は確かに今世間の真中に据って居る様な気がしてならなかった。然し彼はフランスに行かねばならぬと云ふことが頭の中にあるものだから、此の小さい田舎の町の為に一生を棒に振ると云ふ勇気が出なかった。それで、唯視線を掘ゑて、雹の消えて行く様子を見つめるのみであった。

 暫くたって三上は突然こんなことを云ひ出した。
『どうでせうね、英世さん、一つ町政革新の為に町民大会を開きたいと思ふんですが、それにあなたも一つ演説をして呉れませんかなア』

 英世はそれに対して容易に答を発することは出来なかった。彼は然りとも否とも云はないで猶数分間の間、通りの水溜を見つめた。そして前から胸のうちにあったフランス行きと、愛子のこと、町政革新の問題を三つ巴に思ひ廻らしながら、三途の渡し場をいよいよ渡らねばならぬ時が来たといふことを考へた。

 英世の返事が余り遅いものだから、三上は話をそらして、父の理一郎と小学校問題に就いて色々話し込んだ。そして英世の返事も碌々きかないで、そっと帰って行って仕舞った。英世は、離れ小島に捨てられた様な気持になって、奥の間に引きとった。そして如何にも自分の不甲斐ない男であることを我ながら淋しく思うた。

『俺は資本家の娘と縁組した許りに、去勢された男になって仕舞った。悩んでゐる民衆と農民は、自分の蹶起を待ってゐる。そして自分は一人の若き女の為にその民衆と良民を見殺しにせねばならぬ位置に立ってゐる。恋に生きようか、正義に就かうか? フランスに逃げて行かうか、凡てを犠牲にして郷土の為に戦はうか?』

 彼は恋と正義と二つの間に迷はざるを得なかった。然も三上医師が彼を誘って、正義に組する様に招いてゐるに不拘ず、彼が躊躇せねばならぬといふ、その不甲斐なさを彼は飽迄恥じた。何時迄考へでも彼には善い決心もつかなかった。高砂町を離れるか、それとも愛子を犠牲にして、金権階級に向って挑戦するか、比の中の一よりしか途はないと思うた。

 最初はそれ程に思はなかった愛子が、彼にとっては高砂町全体の人々より今は可愛いゝものとなって仕舞った。それで彼は、愛子を捨てるよりか、高砂町全体を売り渡したいと云った様な感情が燃え立たないでもなかった。

 日はとっぷり暮れて、庭の立木がもう一本一本見わけがつかなくなったが、英世はまだ、愛子を捨てるか、町会革新の為に立つか、その二つの問題を解決することが出来なかった。

『兄さん電気灯つげちゃどうなの』
 さう云ひ乍ら這入って来たのは、妹の俊子であった。
『兄さん、何を考へ込んでいらっしゃるの、こんなに暗くなる迄、電灯もつけないで』

 それに対して英世は何の返事もしなかった。その時店先から父が俊子を呼ぶ声が聞えた。俊子は慌しく店先きに走り出て、すぐ叉英世の居る書斎に迄引き返して来た。そして小さい声で、

『兄さん、愛子さんがいらっしゃいましたよ』

 と一声かけて叉立去った。然し英世は其言葉にも応じなかった。彼は机の前に坐ったきり身動きもしなかった。内庭の方で、俊子と愛子が小声で話してゐるのが、英世の耳に這入る。

『まあお上りなさいよ』
『私、これで失礼しますわ』
『何か用事がおありになるのぢゃないの?』
『いゝえ、たゞ珍らしい台湾の果物を頂いたものですから、英世さんに食べて貰はうと思って持って来ましたの』

 その声を奥の間できいて居た英世は耐へられなかった。然し彼はもう決する処があった。断然彼はその美しい容貌の持主を見捨てゝ、民衆の為に戦ふ決心を起した。彼は袂で軽く両眼を拭って、奥からすぐ店の電話の処まで早足で歩いた。そして、三上医師を呼び出して、大会の弁士の一人に加へて呉れてもいゝといふことを、言葉少く通じてやった。台所の内裏に立って居た愛子は、表で電話をかけて居る英世の言葉をきいて俊子に尋ねた。

『演説会でもおありになるのですか?』
『私一寸も知らないんですよ。何でせうね』
 電話をかけ終った英世は、叉直ぐ奥の座敷に引き込んで仕舞った。俊子は、
『一寸きいて来ますわね』
 さう云って奥に走り込んだ。そして直ぐ台所に出て来て、

『町民大会なんですって、兄は余程考へ込んでゐる様ですよ。・・・あなたお上りになりませんか、まあお上りなさいよ!』
さう云って俊子は愛子の手をとらへて引き上げようとしたが、愛子はいつもに変つだ英世の態度を怖れて上らうともしなかった。そして、

『私帰りますわ、家のものが心配すると不可ないから』 
さう云って、愛子はつかつかと表の方に立ち去って仕舞った。