傾ける大地-4

   四

 挨拶もそこそこにして帰らうと思ってゐると、娘の愛子は今日はどう思ったか、文金島田に髪を結ひ直して、恭々しく表座敷に膳を運び込んで来た。余り窮屈なものだから、

『少し他に用もありますから失礼させて頂きます』
 と同辞したが、

『娘も御相伴させますから是非皆で一緒に昼餐をとって頂きたいものです。こんなことはたびたびありませんから』
 と、たってせがむ様に云ふものだから、英世も振り切って帰る訳にもゆかず、膳についた。茶椀の蓋をとってみると、小豆飯が焚かれてあった。主人公は大いに得意になって、

『愛子が今朝の四時頃から起きて蒸篭(せいろ)をふかせて作ったものなので
す。昨日から娘はあなたの全快祝ひだといって髪を結ひ直すやら、糯米(もちごめ)を買うて来るやら、家中で大騒動をしてゐたのです』

 母のよし子は盃を持って来て、全快祝だと英世に盃をさし出した。見るからに気むづかしさうな中年の婦人で、何でも小学校の先生の娘であったとかいふが、小さい丸髷を頭の上に載せて、仲々作法のやかましい人らしく見えだ。

 英世が、酒を飲まぬときいて、奥から葡萄酒を抜いて来た。葡萄酒も飲まぬと聞いて、
『あなたはまるで加納さんの様なことを云はれますな、矢張りクリスチャンなのですか?』
と母のよし子は、手持無沙汰で額に堅て皺を寄せながら英世に尋ねた。
『はあ、私はクリスチャンです』
英世はさっぱりさう答へた。
『クリスチャンといへば加納さんも矢張り耶蘇教でしたなあ。お家は耶蘇教でなかった筈だが、お家に誰ぞクリスチャンがあるのかなあ』

 父は妻が黙って差し出す杯をうけ取りながらさう云った。愛子は軽くそれに酒をついだ。

『妹の俊子が矢張り私と同じ信仰を持ってゐます』
『さうするとうちの愛子も八張り耶蘇教にならなければならんのかいなあ』

 母のよし子は訝しさうな顔をして夫の顔を見上げた。
『それは、女子三従の道といって、幼にしては親に従ひ、嫁しては夫に従ふといふから夫のいふ通りにならぬと不可んわけぢゃなあ』
 謙次郎はさうあっさり片附けた。

 強い酒の香が部屋の中に充ちた。そして娘の愛子がつけてゐる麝香(じゃかう)のかをりと相交錯して、部屋の中に芳醇な香りをたゞよはせた。黙って溢れる程はいった杯を飲み干した謙次郎の両の頬はぽーッと赤くなった。英世は沈黙のまゝ、鯛の刺身を軽く口に運んだ。そのときたゞならぬ罵声が玄関先きに聞えた。

『吾々は、主人に会ひに来たのだ。君などに会ひに来だのぢゃないッ』
『さう大きな声をして呉れるな』
『出せ、出せ、土肥謙次郎を此処に出せ、其上で話するわ!』
『貴様等に解るか!』

 その大声に主人の謙次郎も、母のよし子も急に色を変へた。母のよし子は表に飛んで行った。そして、衝立の影から玄関先を覗いてゐる。其処には、筒つぼの半纏に、単衣の猿股をはいた、仕事着そのまゝの小作人が五六人、泥まみれになって、番頭の島田正吉と云ひ争ってゐるのであった。砲兵に行って居た身の丈六尺もあらうと思はれる滝村俊作といふ小作人は、頬冠りを取らないで、仁王立ちに大玄関の真中に突立ったまゝ、腕まくりして今にも番頭の島田に飛びかゝらん勢を示してゐる。

『全く無法ぢゃないか 吾々は秋になれば、どうにかするから秋が来るまで待って呉れと度々こちらに駄目を押してあるぢゃないか。もう田の草も二度とったし、下肥もやったし、肥料も段当り十八九円も手附をうって買うてあるのに、案内もなしに青田の上に地上げを始めるといふ馬鹿者があるか? そんな無法なことは、今日の世の中で通らん筈ぢや。そりゃ吾々は小作人だから、地主が引き上げよと云へば、引き上なくちゃならぬであらうが、もう一月半待って呉れさへすれば、秋になるんぢゃから、それ位のことは、高砂町の方だって待って呉れるだらうと、吾々は考へてゐるのぢや。まあ兎に角土肥の大将に会はせて呉れ、吾々は君の様な解らん男を相手にして話は出来ないッ』

 それだけきいて母のよし子は奥に這入って来た。表座敷に居っても、小作人の云ふことはよく聞えた。

 不安さうな顔をして、母のよし子は夫の謙次郎に尋ねた。
『旦那さん、あれは何でございますか?』

『ウム、あれは何だらう。学校の裏を作ってゐる小作人が、地上げが始ったので不服を云って来たのだらう、解ってゐる筈なんぢゃがなあ』

 さう云ってゐる所へ番頭の島田正吉が這入って来た。恭しく次の間から頭をさげ、その次の瞬間に両手をついて、小猾しい二つの眼をぱちくりさせながら、当惑したといった様な態度で、蠅がよくする様に、右腕で頭を抱へ

『旦那、学校裏を作ってゐる小作人共がやって参りましたがどういたしませうかなあ、あの、先方の云ひ分では、どうやら賠償金が欲しいらしいんですが、町長はどう云はれましたですかなあ?』

 稍(やや)憤怒の色を見せた謙次郎は、
『あんな大きな声をして貰っちゃ困るがなあ、玄関先きで――町役場へ行って交渉しろと何故云はんのか、君は』

『もう町役場の方から廻って来たんです。町長は知らんて云はれるんです。そして山田の方はもうどんどん今朝から土を入れてるんです。実際百姓も可哀想なんです。私も三方の間に挟まれて本当にどうして処分していゝやら解らないんです』

『うるさい奴ぢゃなあ。警察へ頼んだらいゝぢゃないか。公共事業の為なんだから、地上げに反抗するものは全く公徳心のない奴等だよ。署長に電話をかけて、署長に説諭させえ、それが、一番早い』

 島田は、奥に這入って警察署に電話をかけた。謙次郎はやけ気味で盃を二三杯傾ける。警察署からは五六名の巡査が警部補に引率されて馳け足で飛んで来る。そして玄関先きでは擲る、踏む、蹴る! といった大活劇が無言のまゝ演ぜられる。

 滝村の声らしい。大声に男泣きに泣いてゐる声が聞える。
『之でも吾々は日本の百姓か!』

 皆が縛り上げられたときに土肥謙次郎は玄関先きに慌たゞしく飛び出して、其処に立ってゐあ警部補に、
『やあ、御苦労!』
と大名が足軽に云ふ様な口調で一言いって、叉奥に這入って来た。そして再び膳の前に坐って、飲みさしの盃を取り上げながら、

『どうも百姓が解らんのでね、百姓といふ奴は解らん奴ばっかりで困る!』
と独言の様なことをいうた。
 先刻からの劇的光景を見聞してゐた英世は沈黙のまゝつウと立ち上り、次の間に来て主人公に恭しく両手をついて一つ御辞儀をして、

『まだ健康も十分でありませんから、本日は之れで失礼させて頂きます』
と去ったきり何事も云はないで、土肥家の大きな玄関を辞し去った。表には土用の太陽が輝いて、氷売りの声に、土肥家の大きな森に鳴く蝉の声が入交って聞えて居た。