傾ける大地-5

   五

『思ったより好い処だなア』
 さう云って志田義亮は、その大きな体躯を床の間の方に運んだ。彼は勝手に自分の席を決めて、床の間の中央にどっかりと腰を下した。年増芸妓の梅勇は、「く」の字なりに志田の処にちょこちょこ走りに駆寄って、古金襴で張った脇息を進めた。

 彼の後からは県会議員八束源治、秋葉俊蔵、鳥居伝吉の面々が、参謀株で這入って来た。高砂芸者としては第一流と考へられてゐる玉枝、玉竜、春駒、光子、それにちょっと面の皮の禿げた酌婦の春江と八重子と貞子の三人が、忙しく煙草盆を配って廻る。公民派の町会議員も、今日は下島毅を除いた他は皆顔を揃へた。親分気取りの斎藤新吉は勿論の事、骨董商の伊藤唯三郎――彼は高砂町制の元老として如何にも狡猾らしい孤の様な顔をして、わざと梯子段に近く座を占めてゐる。

 世話好きな樋口直蔵、彼は呉服屋であるが、高砂町に於ける多額納税者の一人として、公民会の中心人物を以て自ら任じてゐる男であるが、卑下したつもりであらう、伊藤に竝(なら)んで坐った。

 醤油屋の花井徳蔵、酒屋の井上勇吉、家具商の滝村喜一、肥料問屋の冨田好太郎、時計屋の桜内正彦、保険会社代理店をやってゐる氷上猶作、金貸業の志方元一、小さい鉄工場をやってゐる由井梅太郎、和船の製造をやってゐる巴二郎、自転車屋の上田万蔵、炭屋の金山次郎と云った公民会の陣笠連が、ずらりと床の間と反対の方に居竝ぶ。

 型の様に、陣笠連の間には席次の上下の譲り合ひが喧しい。醤油屋と酒屋が謙遜の競争をして居る、自転車屋と炭屋が上下を譲り合ってゐる。家具屋と肥料屋が、
『まあお年寄から』
『さう云はないでまあお若い人が先へ』など云ひ争ってゐる。

 県会議員の連中はそんなことにはお構ひなし、志田を中心に左右に分れて、頻りと会場のいゝことを褒めてゐる。傍に得意になって坐ってゐる斎藤は嬉しそうに頭を掻ぎ乍ら鼻を蠢(うごめ)かしてゐる。

 此処は里美市子と云って、斎藤が妾の為に今年の春、開業さした許りの料理屋で、斎藤としてはさう激賞される事が、特に面目を施されたやうな気になったのであった。どうして工面して来たか、斎藤は一万五千円の大金を持って、好景気時代に、ある人が垂水で建てた別荘を、その儘高砂に船で運んで来て、海岸近くに建てたのであった。

 場所は余り感心しない処で、前には大きなどす黒い濠があり、如何にも不愉快な感じを与へる場所ではあったが、海浜に近いだけ、そしてその海浜の大きな松の木と青い海が、如何にも高砂らしい気分と聯想を与へた為に、汚い濠は比較的高い塀を立てることによって見えなくなった。

 斎藤はそれに若竹楼と云ふ名を附けて避暑客を吸収しようと計画を立てたのであったが、思った程成功はしなかった。否成功しないどこぢゃない、毎月食ひ込みで、彼が土肥謙次郎にそれを買ひ取ってくれと云ふ交渉まで開いたことは二三度ぢゃなかった。彼が外務参与官、兵庫県選出代議士、志田義亮を歓迎するに、若竹楼を以てしたといふのも其処に魂胆があるので、全く志田を一つの広告に用ったまでの事であった。

 此処は鐘淵紡紡会社の海浜保養院の西側に当る処で、場所としては高砂で特に良いと云ふ処ではなかった。公民会の人々の中にも何故斎藤がこんな処に別荘を建てたかと問題にする人もあった位である。然し斎藤の考えでは、家族風呂を作って、暖昧な男女を多く其処に吸収し、一儲けしようと云ふ考があったのである。その為に彼は実に辺鄙な処に若竹楼そ持って来たのであった。

 そして公民会の人が怪んでゐた通り、斎藤の計劃は完全に失敗した。家族風呂も入り手がなかった。不景気の為でもあらうが避暑客も根っから来なかった。あるにはあったが、余り思はしくない客許りであったので、斎藤はみな市子に断らしてしまった。

 客が無いだけに家の中はひっそりしてゐた。眺望は随分いゝ。会場に当られてゐる二階の十二畳と、十畳の二間をぶっ通した処から前の方を見晴らすと、何百艘となく白帆を捲いた大阪行きの帆船が、小蝶の様に瀬戸内海に浮んでゐた。盛夏の太陽は凡ての色彩をはっきりさせて、緑と黄色の諧調がくっきり、視野全体の中に溶け合って、スベインの画家ゾラの作品でも見てゐるかのやうな気がした。

 淡路島がぼーと霞んで見える。遠くに漁夫が網を引く声が聞える。二町許り離れた海浜で子供らが喧しく騒ぎ乍ら海水浴をしてゐる。その他は何の音も聞えない。志田が気に入るのは尤もなことであった。

 八束は出席者の顔の中に町長の顔が見えないので、斎藤を省みて云った。
『加納君は来るかね』
『来るって云ってました。もう少ししたら来ゐでせう』
『どうだね。あの男の評判は?』
『ぐっとしませんな。ありや町長の務まる男ぢゃないですよ。小学校の校長位が適任でせうね』

 女将の市子が越後帷子を着込んで挨拶に出て来た。わざとらしく梅勇が市子の子を引張って、志田の前に連れて行き、うやうやしく最敬礼をする。志田もさる者軽くそれを受け流す。お市は県会議員の三人をよく知って居ると見えて、挨拶もそこそこにして場を立つ。舞妓の梅幸と雪子が、光子に連れられて志田の処に挨拶に行く。志田はお辞儀もしないで町長問題に就て八束と話し込んでゐる。梅幸と雪子はお辞儀には酬ゐられなかったけれども、そんなことは当然のこととして、酒々(しゃあしゃあ)とした顔付きで、また階下に降りて行った。

 若竹楼の染出しのある冷い手拭に香水をふりかけて、芸妓と酌婦と舞妓が、皆の手に配って廻った。斎藤が大声を出して、町長を罵倒してゐる真最中に、町長の加納兵五郎が梯子段を上って来る。

 中脊の痩せた男で、リンネルの白い詰襟の洋服を着てゐる処は、斎藤が云ふ通り、小学校教員とでも云ひたい印象を与へる。彼は、梯子段を上った処に坐ってゐる伊藤や樋口に一々挨拶して、その次には彼の右手に坐ってゐる町会議員の陣笠連中に叮嚀なお辞儀をした。

 然し誰一人彼の為に席を進める者も無かった。唯黙々として頭を少しく垂れるだけであった。彼は「く」の字なりに身体を曲げて床の間に近づき、志田に向って叮嚀にお辞儀をした。志田も膝を立て直してうやうやしく時候の挨拶を交した。町長は志田との挨拶がすむと、更に三人の県会議員、そして最後に斎藤に向って両手をついてお辞儀をした。

 陣笠連の中には面白い話が持上ってゐるとみえて、どっと笑声が爆発する。陣笠連の一人が、
『あいつも渋っとい奴ぢや。月給を三分の一に削減せられても、なかなか退きよらん。そしてまだあんなに亀の子の様に這ひ廻るだけの勇気を持ってゐるから偉いわい』

 さう云って私語したのが、失笑の原因でゐったのだ。膳が廻る、盃が手渡される。然し町長に席を進めるものは誰も無かった。芸妓も酌婦も舞妓も知らぬ顔をしてゐる。滑稽家の上田万歳は梅勇の袖を引いて小声でこんな事を云うた。

『お前町長はんに一杯呑ましておみよ、時計屋の旦那がボンボン時計一個呉れるってさ』
 梅勇もさる者、
『ボンボン時計一つはやさし過ぎますな。わたい村上の旦那から金鵄勲章でも貰へるなら町長はんに一杯献じませうか』

 それを聞いてまた陣笠連が大声で笑ふ。酌婦の春江と貞子が、太鼓と三味線と鼓を持出して来た。梅幸と雪子が着物を「踊り」の装束に着換て二階に上って来た。光子がその後から続く汐汲みの踊りでも舞ふらしい。小さい玩具の銀紙で貼った二つの桶と竹竿を持ってゐる。梅勇は床の間に面して座ってゐる町長の後姿を指差して梅幸と雪子を追ひ帰した。町長が帰る迄待てと云ふ合図らしい。町長も今日の会合の性質をよく弁(わきま)へてゐると見えて、次第に挨拶をしすませてすぐ立上った。

 加納は来た時と見違へるやうな元気な様子をして、帰る時には陣笠連中に一言の挨拶もせず、ふんぞり返って階段を降りて行った。

『然しあんな図太い奴知らんね』
さう口の思い樋口が伊藤を省みて云ふと、自転車屋の上田は、
『あれで英雄気取りだから面白いぢゃないか』
『すると予言者って云ふ処だね』

 さう斎藤が駄目を押す。酒が廻る。太鼓が初まる、梅幸と雪子が光子に連れられて余り上手でもない「汐汲み」を一番舞ふ。陣笠連が喜んで手を叩く。然し床の間の連中は一向手を叩かない。相変らずひそひそ町長問題をやってゐるらしい。

 其処へ遅ればせに這入って来たのは杉本英世でゐった。彼は斎藤新吉からの電話の呼び出しによって外務参与官の志田が突然やって来たことを知り、同郷の関係もあり、同じ外務省に務めなければならない好(よし)みもあって、挨拶旁々宴会に出席する事になった。杉本が志田に会ふのは今日初めてであった。志田も高砂町に来る迄、そんな若い外交官の卯が高砂町に居るとは知らなかった。

 杉本が外交官の試験に及第したのは全く彼の実力によったものであって、引立てて貰った点などは少しも無い。それで杉本は志田にも会ひたかった。そして外務省の内部の空気に就いてより深く知って置きたいとも考へた。

 斎藤としては杉本に特別の縁故をつけたいよりか寧ろ、杉本を通して土肥謙次郎に縁故が付けたかったのであった。然し志田は、何もそんな事を知らなかった。

 梅勇は手を取るやうにして英世を二階座敷に伴なって来た。斎藤は英世の顔を見るなり大声で彼を呼び寄せて、志田と彼との間に無理にも英世を坐らせた。生れて初めて芸妓の出てゐる宴会の席上に出た英世は、吃驚して何からどう云っていゝのか、やゝ暫らくと迷びの態であった。志田は、

『この小僧っこ何を知るか』

 と云った様な態度で、別に混み入った話も英世にしてゐなかった。英世もまた外務参与官と云ふ男が、何だか高等外交に参与してゐる豪い人のやうに考へられて、積極的に話を切り出す機会を捕へることが出来なかった。さうかと云って自分の前に運ばれた盃に手をつけるだけの勇気は持たなかった。斎藤が、

『一杯献じませう』
 と盃を出した時に、
『私は酒を呑みません』
 と小声で云ったきり盃を手にしようともしなかった。それを見た志田は、
『君はフランスへ行くさうぢゃが、そんな窮屈なことを云ってゐちゃあ、フランス人と話は出来んぜ、巴里では水より酒の方が安いんだから、大いに今から呑む稽古をしておき給へ』

 蔑むやうな口調でさう云はれた英世は、それに対して敢て拒まなかった。段梯子の上り段で、春駒と玉枝が、若き外交官の容貌に就いてひそひそ話をしてゐる。それは春駒が、

『あの方は俳優の某に似てゐる』
 と云ひ出したことに初まり、お酌の方はお留守にして、立話しに熱心になってしまったのであった。それに気がついた陣笠連は、

『やい春駒、あすこへ行って坐れやい』

 さう云って、けしかける者もあった。陣笠連の間では、それから町芸者とその旦那の関係に話が発展して行った。そして公民会の十五名の町会議員の中、町芸者に関係の無いのは鉄工場の油井と、保険屋の氷上の二人であゐことがそれで判った。口の悪い樋口は海の方に坐って醤油屋の花井を指差して、

『あんな鹿爪(しかめっつ)らしい顔をしてゐても、ちゃんとお囲ひ者があるのだから、花井さんも奮ってゐるよ』

 と大勢を笑はす。陣笠連と上座に坐ってゐる上層階級の連中との会話の間には何等連絡が無い。斎藤は頻りに町長排斥の気焔を志田に向って上げた後、例の高砂繁栄策の持論を持出して、遊郭設置の必要と、競馬場を設ける必要を志田に説いてゐる。

『是非、東京に帰れば、内務大臣に我々の意志のある処を伝へておいて頂きたいのです。 それはこの町の発展の為に必要欠くべからざるものですからね。この辺りはあなたの選挙の地盤ですから、あなたが我々の要求を聴いて頂かんと、矢張り投票にも影響しますからね』

 さう云って脅迫的な言葉まで、斎藤は平気で志田に向って洩した。海からは間断なく涼風が吹いて来るので座敷は実に涼しい。志田は余り窮屈な話をきゝたくないものだから、話を逸(そら)さうとしてゐる。

 傍に黙って二人の話を聴いてゐる英世は、斎藤の下劣な御馳走政策や脅迫政策に飽きあきして、顔に唾でも吐きかけてやりたい気持ちがしないでもなかったが、近く外務省から出発の日を知らして来れば、直にでも立たねばならぬと思ってゐるものだから、たゞ黙って聞いてゐた。話がと切れた後、志田は突然杉本に尋ねた。

『杉本君、近頃君の健康はどうですか。喀血したのですって? 用心しなくちゃいかんね。外交官としてもう立てなくなるよ。健康に注意しないと』

 志田は葉巻き煙草を燻ぼらせながら、話を紛らす為に杉本にさう云うた。
 女将の市子が斎藤に家族風呂が沸いたと報告して来た。斎藤は志田に入浴を勧めた。志田は次の間に這入って、洋服を浴衣に着換へ、芸妓玉枝に送られて階段を下りて行った。そして県会議員の八束は玉竜を伴ひ、秋葉は春駒を、鳥居は光子を伴って、みな階下に降りて行った。

 取残された英世は、唯呆然、鏡のやうな海面を眺めて、政治家になることの厭さをつくづく考へるのであった。口にこそ出して云はなかったが、

『こんな汚い連中と席を同じうして政治を語らねばならない時代が何時まで続くことか』

 と彼は凡てに幻滅の悲哀を感じてゐた。そして傍に坐ってゐる斎藤にも言葉を交さないで、帰って行く機会を今か今かと待った。人なき里の蝙蝠とでも云ってよいか、志田や三人の県会議員の去って後、斎藤は演説らしい口調で一同の者に大声で云った。

『皆さん、例の問題に就いて私から志田君へは只今、懇々と頼んで置きました。また県会議員諸君もよく諒解してくれましたので、我等はこの際速かに事件を運ぶ必要があるのだと思ひますから、明後日開かれる町会にはどうしてもこの問題を解決してしまひたいものです』

 さう云った時に、英世は誰か一人位拍手するかと思ったが、別に拍手する者もなかった。三人の酌婦は忙しく盃に酒を注いで廻った。斎藤は、杉本が余り厳然としてゐるのが怖ろしくなって、御機嫌を取り初めた。

『酒がお嫌ひならサイダーでも持って来させませう』

 酌婦の八重子に命じて、サイダーの栓を抜かせた。また二人の舞妓を呼寄せて家族風呂に案内するやうにと命じたが、それにも応じない英世に、『それでは御飯にでも致しませう』と酌婦らに命じて御飯を運ばせた。

 陣笠連の中には酔潰れて其処に寝転ぶ者もある。都々逸を唸る者もある。舞妓の雪子を捕へて、抱き〆る者もある。酌婦の貞子の裾を引張る者もある。春江に盃を投げ付ける者もある。

 日はまだ西に廻らない。白い眩い光線は大広間の南側から容赦なく入って来るのに、部屋の中はまるで真夜中のそれでもあるかの様に、百鬼夜行の有様であった。

 今に喧嘩が起るだらうと心配してゐると、果せるかな舞妓の梅幸の取合ひで、隣同志に坐って居た家具商の滝村と、肥料屋の富田が喧嘩を初めた。そこへ世話好きの樋口が酌婦の春江を連れて行った。年寄りの滝村には年寄の春江を当てがひ、若い富田には舞妓の梅幸を当がはんとしたが、滝村は怒って帰って行ってしまった。それを骨董屋の伊藤が追駆ける。

 英世は志田が再び二階に上って来るかと思って、海の景色を眺めながら、小一時間を待ってゐる中に、この汚い格闘を見て、町の腐敗した政治をつくづくと考へさせられた。斎藤も階下に降りて行ったきり上って来ない。

『志田さんは?』
 と英世は酌婦の貞子に訊いたが、
『涼しいから昼寝すると云って階下の部屋で寝ていらっしゃいますよ』
 と答へた。それで英世は黙って誰にも扶拶しないで、若竹楼を出た。

 途の上にはどす黒いコークスが敷かれてその上を、七月の太陽が真紅に燃え、焦げ付く様な光線を容赦なく投げつけてゐた。