潮時を忘るな 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四八年七月号)

 キリストは「時」を行動に対する大切な要素として、いつも計算に入れられた。
 舟には潮待ちと云うものがある。逆潮では、瀬戸内海でも、朝鮮の仁川でも、九州の有明湾でも、巡航の出来ない場合がある。キリストすら、エルサレム行に「時」を待ち合せられた。

 日本は此処一年で、凡てが決定する。唯物論的暴力主義が勝つか、精神主義的贖罪愛運動が時代をリードするか? こゝ一年で決定する。

 唯物暴力論のやうな底の抜けた袋でも、雑巾には使用出来る。日本は今敗戦で、畳の上に水をまいた時だから、雑巾が欲しいのだ。キリストの弟子が、雑巾代りになる勇気を持てば、すぐ役に立つが、気位ばかり高くて、下坐奉仕を忘れ、応用を怠る時、底なし袋に敗けてしまう。

 泥棒は冒険を知り、計画を持ち、人の眠っているスキをねらう。
 善人は冒険を恐れ、計画を捨て、いつも居睡っている。そして悪人に敗けてしまう。
 唯物暴力主義は、ギャング団を組織し、略奪に行動隊を組む。

 キリストの比喩にある如く、愚なる乙女は、花婿の来る時を遅い遅いと云って居睡り、ついにその機会を逃してしまった。

 今年一年が、上げ潮だ。火皿に油をつぎ、緊張して聖霊の働くをまて!
 応用キリスト運動を、凡ての線に展開せよ。
 夜明けになって、もう電燈のいらぬ時に、灯はいらぬ。夜道を急ぎ闇に追つかねぬようにせよ。
 今年一年が、日本救国の端境期だ!
 悪の勢力は、私らを追抜かんとしている。凡てに喰ひ込んでくる。
 唯物無神主義に決死の勇気を以って奪戦せよ!
 時だ! 上潮だ! 
 この時を捕えなければ、聖霊の働く時期をまたこの次の機会迄待たねばならぬ。
  (一九四八年七月号)