科学と宗教の調和 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四八年六月号)

 古代エヂプトでは、科学と宗教は完全に調和していたが、近代における自然科学の進歩により、科学と宗教が分離するに至った。哲学者カントは純粋理性批判において一旦、科学と宗教とを分離させたが、実践理性批判では、彼の形式的合目的論において、も一度科学認識と宗教とを統一させた。がこゝでは、そうした哲学的な方面からは説かないで近代科学そのものの中にあらわれて来た宗教的見方を分析し、綜合して見たい。

 アインシュタインは「宇宙宗教」の中で、相対性原理というものは、相対性と原理と別のものであるといっている。原理が相対性であるものではなく、物的世界は相対である。けれども、原理の世界は絶対である。というのは、原理が絶対でなければ相対性原理は存在しないからである。宇宙の本体は物ではなく、理念が根本実在である。宇宙における絶対理念の存在を認識の根拠とし、これが宗教的対象になると考えている。

 さらに、相対性理論を考えれば考えるほど、絶対理念を肯定せざるを得ないというのが、マックス・プランクである。彼の著書は、いくつか邦訳されていて、最近では、「自然科学と宗教」というのが出版されている。彼は実在論の立場から、物理学が成立するためには、根本に理が存在せねばならぬ。物は理念の世界にあらわれた現象であるという。

 我々にはアインシュタインプランクと同じ意見で相対性理論の発展につれて、これをあやつる常数――量子論においてプランクの常数とよばれる恒常性の中に、宇宙の絶対理念の表象を見出し、これをアインシュタインの如く、宗教対象としてよいと思う。

 一八九八年頃フィッツゼラルドはフィッツゼラルドの収縮法則を提唱した。アインシュタインが後になって発見した一般相対性理論が宇宙全体に適用されるのに対して、物の性質の一つである幅――空間――に働いている相対性理論を見出したのである。四辺形ABCDを、ABの方向に物凄いスピードで運動させる時、ADは非常に短くなるという説である。オランダのライデン大学のロレンツ教授は転換の原理を提唱した。これはスピードの速いほど波長が短くなるというのである。これ等によって、物の性質――幅、重さ、堅さが速力及び引力の関係で絶対的でなく、相対的であることが分った。この二つの説が綜合され、さらに宇宙全体に発展せられて、アインシュタイン相対性理論となったのである。こうした相対的、有限的な中から、ドウ・ブロイが宇宙の実在を認識する三つの法則を見出した。

 彼は世界にはじめて、波動力学を創案した人であるが、彼の著書である「物質と光」は翻訳されて、岩波新書に収められているから、我等はこれを熟読せねばならぬ。その下巻に実在の繊維という言葉をもって、宇宙の実在を認識する二つの法則――同一性、恒常性を示している。波や物質が収縮してゆくとき、その比が常に変らない所に恒常性を見出し、同一性とは法則性で、何億回くりかえしても、同じ法則に従う所に同一性をもっていると解釈した。従って。ドウ・ブロイはアインシュタインプランク等と同じ様に物的相対の奥に普遍絶対を認識している。

 量子力学の大家、ハイゼンベルクの「量子力学の物理学的基礎」のはじめにも同じ様な考え方が見られる。今日では唯物論的宇宙観は存在し得ない。

 ハイゼンベルク不確定性原理をとなえたのであるが、これは原子内部における電子の運動をしらべようとする時電子の、ある時の位置を決定するために光を当てると、光はエネルギーをもっているので、電子の位置がはっきりしらべられるほどの短い波長の光を与えると、光のエネルギーによって、電子の運動量が変り、速度がかわってしまう。もし運動量が変らないように光を弱くするなら、その位置をはっきり決定することが出来ない。一般に運動は、ある位置における速度というもので記述されるのであるが、電子のような微粒子の場合には、ある時の位置と速度という二つのものを、同時に精密には観測することが出来ない。一方を精密に決定すれば、他方は不確定になる。これが不確定性原理とよばれているものである。微視的世界ではこうした測定の困難があって、肉眼で見られる日常の現象、(巨視的世界)において従来行われて来た因果の関係、或は機械的見方は出来なくなるのである。

 一九二五年頃から、ハイゼルベルグがこの不確定性原理量子力学で称えはじめたため、非常に大きな議論の旋風をまき起し、イギリスのエディントン・ジーンズは不定確性原理を天文学的に極端にまでおしつめて行った。即ちこの原理が成立する以上、因果律は成立し得ない。自由意志が宇宙を創造するのであるという、所謂天地創造論をあまりに急いで説こうとしたために、アインシュタインプランクの反対にあっている。

 さらに、光が電子に当った時のコンプトン効果を研究したアーサー・コンプトンは「自由意志」という書物を書いて、自由意志を論じ、不確定性原理因果律の上にもって行っている。

 こういう傾向のなかに、なお注目すべきことがある。デンマークコペンハーゲン大学の原子物理学教授ニールス・ボーアが、一九一三年「原子の構造」を書いた。彼は分光化学の権威者で水素のスペクトルにおける輝線の研究から原子の内部における電子のエネルギー水準を研究した。

 水素のスペクトルには四つの可視線がある。彼はこれ等の可視線がいつもスペクトルの同じ所に見えることを説明するために、原子の構造を研究し、水素の原子においては陽子のまわりを電子が各々きまった比率をもっている半径をなしている円軌道をとって回転しているということを発見した。ドイツのミュンヘン大学のゾンマーフェルドはさらに精密に理論を進めて、円軌道でなく楕円軌道を考え、その軌道の上における運動量の計算に理論をとり入れた結果、スペクトルの微細な構造と理論的計算が一致するのに成功した。

 水素のスペクトルの可視線は常に四つであって、何億回スペクトルをしらべても四つしか見えない。これを説明して見ると、水素放電管に電圧を加えると、水素の原子は高いエネルギーの状能に移る。原子内部において電子はエネルギーを得て、最低の軌道からとび出す。偶然にとび出すのであるから、どこへ出てもいいようであるが、その軌道の半径が任意の値をとる事は許されず、選択的にきめられた軌道をとる。これ等の各軌道に即ちエネルギー水準のエネルギーの差はR(1/4-1/9)、R(1/4-1/16)、R(1/4-1/25)、R(1/4-1/36)、にきまっていて.この差のエネルギーが光となって、スペクトルの可視線にあらわれる。従ってその可視線の位置がきまっているのである。ゾンマーフェルトは水素の可視線が四つしかないという事は偶然が一から四に限定されていることで四つの中には偶然があるにしても、無限の偶然の中から四つを選んだ先駆的確率性のある事に気がっいた。

 近代物理学はハイゼンベルグ等の努力によって、行列式物理学となった。こうした新しい物理学、即ち行列式物理学及び統計物理学に入ると、確率が問題になる。また原子の構造の研究がさらに精密になって、電子雲をなす事が発見され、たとえ楕円形軌道によって運動していないとしても、統計的には、実験に先立って確率性をもって居り、人為的にはどうにもならない事に気がつく。

 プランクアインシュタインをはじめとして、今までのべて来たようなすぐれた物理学者達の抱いている理念的宇宙観に対し、唯物弁証法の立場から反対する一派の唯物論的科学者の流れが日本に現に存在している。この点よく我等は注意する必要があると思う。私はこうした唯物弁証法の考え方には反対である。

 ゾンマーフェルトはさらに、結晶化学、結晶物理の方面から、宇宙における目的論を主張する。先程私はカントが一旦目的諭を科学の世界から追放し、第二批判―ー実践理性批判において。又合一した事をいったが、科学の世界で長い間忘れられていた目的論的宇宙観がゾンマーフェルドと共に帰って来た。ゾンマーフェルドの発見した先験的確率の世界をほり下げて行くと、諸君はおどろくべき事を発見するであろう。それは選択性宇宙観の世界ーー宇宙目的論の世界である。近代物理学は物に絶対性を与え、その相対性を貫いて、ある絶対的原理――人間の生命と精神に作用する法則――選択性、目的性が原理として働いてゐる事を教えている。こうした世界は普通の人には注意されないが、原子のエネルギー水準を研究すると、選択法則が先験的確率の世界と共に宇宙に実在していることに気附くのである。

 少しこの事について説明して見たい。週期律で九十二番目の元素ウラニウム(U)では、電子のエネルギー水準の主なものが七つあって.K、L、M、N、O、P、Qと名づけられている。これ等のエネルギー水準を平面的にかくと、七つの同心円になるので、軌道と呼ぶこととする。例を最も簡単な水素の場合にとって説明しよう。L軌道にM軌道より電子が落ちてくる。このエネルギーの差が光となってスペクトルに現われる。これをバルマが分光化学の研究によって発見したので、バルマー系統とよばれる。KからLに落ちるのは発見者の名をとってライマン系列といわれる。NからMに落ちるのをバッシェンが発見した。かくの如く次々と発見されて行った。

 ボーアが一九一三年にはじめて。電子がK、L、M、N、O、P、Qの各軌道に22N2の差をもって配列されているということを考えた。K、L、M、N、0.P、Qの各軌道は丁度ヘリウム(He)、ネオン(Ne)、アルゴン(A)、クリプトン(Kr)、キセノン(Xe)、ラドン(Rh)に当るのである。これ等の元素はその原子番号の数だけの電子を含んでいるから、その差は八、十八、三十二であって、ちゃんと22N2であらわされている。(Nを1と取れば2、2と取れば8、3と取れば十八、4と取れば三十二となる)

 所が実際に分光化学でスペクトルをしらべて見ると、Nに一番軌道が多く十六軌道が現われ。その両側.MとOに九、更にその内側、Kに一という風に、明に選択的に電子が配列されている。これは原子の内部で、順次外側に多数の電子を配列すると、原子が崩壊する危険性があるので、中央に多数の電子を配列しているのである。こゝにも選択性が働いている事に気がつく。太陽系にも同一法則が働いている。これ等のことを発見したのは、ボーア及び、宇宙線の研究でノーベル賞を得たへースである。

 分光器においては、今のべた様に、Kでは1と3、Lでは1と3、Mでは1と3と5、Nで1と3と5と7、という風にエネルギー水準が奇数になって並んでいることが分る。これは電子が一つのエネルギー水準位から他のエネルギー水準位におちる時、決して偶然に何処へでもおちるのではなく、選択性が働いて、偶然が+1か−1かに限られていることを示している。これが先験的確率である。

 成長にも、成長を早くしていいか。遅くしていいかに就ての選択性が働いている。一方に成長素があると、他方に成長を抑制する抗成長素(AVITON)がある(+)の「成長」(−)の反成長力がうまく組合わされて、調和している。卵ではきみに成長素があると、しろみに抗成長素がある。

 選択性が宇宙に漲っていて、偶然をさえ利用し、その選択の方向は宇宙の目的に合致せんとしている。選択性とは合目的的な作用の一つであるが、これが極端に発達しているのが、細胞の中の染色体である。細胞の核分裂の際、染色体は紐状となり、何万という遺伝因子がそれについている。遺伝因子は水素イオンのイオン性によって結合するため、実に合目的的で多重選択となり、而も方向がきまっている。核分裂の時の光線はラデイオ・レーダーの様な指向性をもっている。玉葱等はこの光線の指光性によって、細胞を上へ上へと導いて、中空な葉になるのである。

 偶然的と考えられる変化の中にも、先験的確率をもって、エネルギー水準を整数倍によって配置し、選択の方向をきめ、生命のあり方を合目的方向にまで導いてゆく事は単純な選択では出来ない。どうしても選択には選択を重ねて多重的、綜合的、複合的、調和的な選択性でなくてはならない。而もその上に指向性がないと生命はあらわれない。

 従って、生命現象は単なる偶然の結果では決してあり得ない。目的論的な指向性なしには人間も決して現われて来ないのである。

 かゝる多重的指向的選択性をもって、合目的的に生命をつくるためには元素集中が必要である。少くとも十五種位の元素が集中しないと生命はあらわれない。そして四十五種以上の元素が生命に貢献しているのである。元素集中のためには、結合力のつよい週期律の第四価のものが極めて大切になる。

 地球化学を研究したヴェルナドスキーは生命の選択性の世界にさぐりを入れ、宇宙には選択的理念が実在し、自然環境は偶然ではなく、生命中心の目的性をもって出来上っていると考えた。この思想は元々米国エール大学のローレンス・ヘンダーソン教授のものである彼の著「自然環境の適応性」は翻訳されて創元科学叢書の中に収められている。この学派はさきにのべた週期律第四価族即ちC(炭素)、Si(珪素)、Ti(チタニウム)、Ge(ゲルマニウム)、Zv(ジルコニウム)、Sn(錫)、Hf(ハフニウム)、Pb(鉛)、Th(トリウム)を重視する。Cは有機物の根源をなし、Siは有機物の根基である。地球の上に元素集中しようとすればまず原子価が四価で、結合力のつよいSiを用いなければならぬ。Siは高温度で化合する。地球の表面十キロは岩石であるがこれは地球の高温時にSiALの化合して、元素集中をしたものである。そこへ値物、つまりCを中心とする有機物があらわれ、更にその元素集中を利用して動物が生活する。我々が見ると、生存競争はいかにも偶然的な、非合理的な非目的論的に見えるが生物化学者であるウェルナドスキーの考えによれば必ずしもそうではない。ある細胞或いは微生物はある元素例えば鉄マンガン等と特別の関係をもって存在しているものがある。今日のマンガン鉱。又鉄鉱――蒙古の竜烟鉄鉱はその顕著な例である――は微生物がカンブリアン紀即ち今より五億年前にこれ等の元素を集めたのが水成岩の間にはさまって出ているのである。マンガンや、鉄で見られた如く、地球に含有された微量の元素を微生物、植物、動物が集め、それに寄生し、更に寄生して高等動物が現われる。之を見ると物的世界をつらぬいて、ある力が働き、生命を育成するという目的をもってある元素が集中している事かに気がつく。この集中は唯物論のいう様に簡単なものでなく、大宇宙の目的を果すため生命活動に進まんとする衝動が物体を通して脈として働いているのである。

 最初の地殼、即ちSiALの世界のコロイドの量は地球の水とか風とか光線等の力で一定している。例えてみれば、卵が孵化して雛になって行く時、その方向性は原始的な卵から鳥類にまで進化するけれども、卵の時と、系統器管の出来上った時とコロイドの量はかわっていない。丁度その様に、カンブリアン紀以来、コロイドの量はかわっていないが、系統的にはどんどん高等動物に進化してゆく。この過程が食物競争としてあらわれ、生存競争は人間の目には激烈に見えるが、その中にあって高等な動物があらわれて来る。之を見ると、より高いものが地球を支配しているという事が分る。これが宗教的宇宙観へと我等を導く。

 (即ちかく考えると元素集中の為めに下等動物の出現が必要であり。この下等動物を基礎として高等動物は元素集中の形を通して進化することになる)。

 この方面に功績をあげている化学者としてアレキシス・カレルとホールデン、最近にはルコソト・ド・ノイがある。

 カレルには「人間」という著書があるが、彼の考えによれば、ペンダーソンの自然環境の適応性を考えないと人間は分らない。人間は自らを知らない。人間にはまだまだおどろくべき霊能性が与えられているという。一例をあげれば、血液は誠におどろくべき合目的性をもっている。免疫性を研究する血清学などは血液の合目性を考えないと成立しないと云ってよい。又血液によって何処の傷でも癒されるのは、血液の細胞の中に身体中のあらゆる部分を自由に治す力をもっているからである。血液という極端な局部にも、全体を修繕する目的性が含まれているのを知る時、その選択性に驚かざるを得ない。又普通の人には血液の培養などという事は考えも及ばない事なので、全然気がつかない事であるが。カレルが非常に多額の費用を費し、複雑な設備を用いて、血液が試験管の中で培養するのに成功した時、驚いた事には、血液は自然に循環系統をつくり、循環する様になった。血液は循環系統をつくる目的性をもつ。多くの学者はそこまで研究しないので、機械的に見、而もその機械は偶然につくられたとする偶然的機械観に陥るのであるが、機械は決定論的なものであり。偶然は無限の変化をもっている。この間の論理的矛盾をとびこえて、機械だから偶然だというけれども、之は間違いである。(一九四八年六月号)