家庭の科学化ヘ! 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年二月号)

 或る青年がブラジルから帰って来て私に云うには「ブラジルはもう飽き飽きした、何しろ彼地は人間並のものを喰っていない。馬の喰う玉蜀黍だから耐らない」と。それで私は「独逸人は何を喰べて居るか」と聞くと「やはり玉蜀黍にパン種を入れて焼いて喰っている」「それでは君はどうして喰べて居たのか」と問えば「面倒だから粉にして乾し、ついて喰っていた」という。私はこれを聞いて、日本人はどうしても家庭科学を普及して、尠くも小学生時代からパンを焼く方法位は学ばさせなくてはと痛切に感じた。

 我が国家庭の食糧品に対する科学的研究が全然されていない。更に現在の台所たるや乱雑極りなき非科学的なものである。台所の改造は急務であって、飯の焚き方などは大古の儘進歩していない。薪を焚いても熱量の半分は煙その他に逃がし、湯気がこもっだ時、蓋をとって半煮の飯をつくる。私はこの熱の点からも行き詰っていはせぬかと思う。  (一九四九年二月号)

     霜

 武蔵野には、霜柱が立ち、道路はぬかるし、荷車の轍は泥濘の中に喰い込んで運搬が止る。
 「飢饉だ。飢饉だ! 神の言葉の飢饉だ!」。そう昔預言者アモスが、紀元前八世紀頃ユダヤの野に叫んだが、これは今日の世界に同じ叫びを上ねばならない事になってしまった。

 霜柱は、敷石を持上げ、道に敷いた砂利を突上げる。紀元七世紀から数世紀に亙って、ヨーロッパにマホメット教が進入し、偶像化したキリスト教に非常な教訓を与えた。そのマホメット教は余りに権力と武力とに頼み過ぎたため、自己解体を起して弱体化したが、キリスト教会は、非常な教訓をマホメット教から受けた。

 今度は一千八百四十八年より唯物共産主義があらわれ、無産者解放に熱を失ったキリスト教会を鞭撻する為に、新しき鞭を神がキリストの団休に与え給うた。もしこの鞭によってキリスト教会が目覚めるならば、キリストの教会は純化せられ、世界を救う力となるであろう。

 霜を待つ心をもって、私はアジアの旧制度の崩壊を眼のあたり見、無力な水が結晶する事によって。敷石をもたげる不思議な力を発見する。  (一九四九年二月号)

  あゝ裡なる光よ

 闇の力が世界を支配するとき、私は魂の奥底に押し込められる。そこに光を捜すほか道がなくなった。機械文明と云い、科学生活というものも、外に光を求めて内側に光を捜すことを忘れていた。その結果が第一次世界大戦となり、第二次世界大戦となった、いや、この後も光を外側に捜す間、第三次、第四次の世界大戦が繰返されるであろう。

 嘗て印度が人種闘争のうめきに埋没させられたとき、悉達太釈迦牟尼が外なるものの一切を否定して雄大なるマハバラータの劇詩に休止音符をつけた。そして二十世紀に又新しいマハバラータの時代を見るとは思わなかった。

 星霜移り、諸民諸音の興亡は常なく、歴史は空しく人類の溜息をもって塗りつぶされた。カルバリ山上に大工イエスの血は空しく流され、贖罪愛の血汐は飛行機の爆音にとっては、一種のたわごとゝしか受取れなくなった。しかし、恢復すべき価値が、人間になお残っているとすれば、私としては悉達太の如く勇敢に外界の迷妄を撃破し、更に勇躍して十字架の影を踏むより他、神の姿を私の裡に恢復する道は無いではないか。

 イエスの血よ、永遠に流れよ。誰かゞ死んで行かなければ、誰かの罪が贖罪されないとすれば。お前に死んで貰う他、人間を救う道は無い。そうだ、そうだ、人間に愛憎を尽かした悉達太は生きなからにして、人間のお葬式をした。そのお葬式をきょう私は十字架の上に執行しよう。

 おゝ、死ね、死ね、私よ、人間よ、醜きマハバラータの社会よ、懺悔しても懺悔してもなお足りない、この罪悪の社会に私は生きて行く憬れをさえ失ってしまった。たゞ、裡なるものゝ囁きと復活の霊力を幽かに信ずる信仰のために、十字架の上に死んだ私が吐息を吐き司ね、村の細道を歩く。

 あゝ、されば文明よ、もう私は凡ての文化と芸術にすら興味を失った。たゞ、辛うじて悉達太が与えた休止音符と、イエスが流した十字架の血汐に、霊魂の呼吸をつづけている。

 裡なる光よ、燃え上れ、一切の迷妄に放火せよ。人類をこのまゝ滅亡させるには余りに惜しいではないか。あゝ、裡なる光よ、燃え上れ。絶対者の意識よ、私の意識として燃え上れ。  (一九四九年二月号)