生存競争に現われた宇宙目的 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年二月号)
――苦痛の進化と効用――
猫が鼠を食い、羊をライオンが食う、こうした見るに堪えないような生存競争が、どうして愛なる神の支配する宇宙において、あり得るのだろうか。釈迦は生、病、老、死、の四苦を見て、人生を悲観したというが、我々もこうした宇宙悪を否定する事は出来ない。しかし我々は宇宙悪によって神を批難する前に、我々の見方そのものが、制限をうけている事を反省せねばならない。我々が一部分のみに目を奪われるならば、確かに宇宙悪は存在する。しかし宇宙悪がすべてであろうか。時間的に、空間的に、もっともっと全体的に見るならば、新しい見方が出来ないであろうか。
卵が孵化しはじめると、黄味を吸収するために、その全面に血管が実に美しい羽のようにひろがる。しかし吸収し終るとこの血管が酵素作用で消えて、とても醜い状態になる。この場合だけ見ると、醜さを超えて恐しい程のものである。しかしこの混乱が収る時、はじめて可愛いいヒヨコの姿が現われてくる。卵の白味と黄味を合計した質量は、ヒヨコになった時の質量と等しい。黄味がヒヨコに孵化するには、破壊と建設の二つの方向の力が働いている、この破壊の面だけで見ると悲観するのである。
宇宙全体にも卵と同じように進化のためには、現状を破壊して新しい姿を建設するという、二面がある。建設の面を見ると楽観的であるが、破壊の面――陳痛、老、死、などのみを見ると、宇宙悪は動かし得ないものに見える。殊に生存競争は進化における破壊の部分を受持っているから、之をのみ見る人は、極端に云って神を否定しやすい。進化の過程のみ見て、大間違いをしているのである。旧約聖書のイザヤ書を見ると、神は笑いをも作りたもうとある。定められた質量のものが、高等なものに発展するのには、どうしても前にあるものを破壊し、それを利用して進化せねばならぬ。
従って、破壊の面のみでなく、進化してゆく建設の面も見ねばならぬ。例えば苦痛について考えて見ると、苦痛の神経は、再生不可能な高等動物ほど、発達している。再生出来る部分は苦痛を感じない。豚のお尻などは切りとっても痛がらない。そして之はすぐ再生出来る。トカゲもすぐしっぽを切って逃げるが、苦痛を感じない。ナマコなども敵の攻撃をうけると、半分位は食われるまゝにして残りが穴に逃げこむ。苦痛の進化を調べると、丁度動物の進化に平行していて、苦痛にも効能のある事が分る。
絶滅競争はない
地球全体を卵にたとえて見ると、黄味に当るものは、地球の外側にあるコロイド(膠質)で、こゝに生命が発生し、膠質の中でしか生命は発生しない。この膠質の量が一定なので、卵の芽、即ち生命が、栄養をとって成長するにはどんな粗末なものも、捨てるわけにはゆかない。高等な方面に方向づけて行かねばならぬ。そこで最初の粗ホンなものを次の発達したものが吸収し、更に発達したものが吸収して、ピラミッド型に進化してゆく。
前のものを吸収し、後のものが発展する所に、破壊作用、即ち生存競争があらわれて、非常に残酷に見える。
人間の食事について考えても、人間が栄養をとるには菜食にしろ、生きてるものを食べねばならぬ。しかも菜食のみでは不充分で、動物の体内では三種のアミノ酸(一、リチン、二、マヨニン、三、シスチン)をつくる事は出来ない。どうしても動物の乳か、その他のもので、とるしか方法がない。有名な〝栄養新説〟をかいた、マッカラムはこういうわけで、人間は乳を飲まねばならぬと云っている。それでたりない分は下等動物を食べねばならない。そこに吸収の問題が起る。殊に残酷に見えるのは、三代虫で、子が育つ時には親が死なねばならぬ。子が親の肉を食って成長するのである。
之に似たのはカマキリである。カマキリでは生殖作用を行うと雄が雌に食われてしまう。というのは生殖作用がすむと、雄はすぐ死んでしまう。すると折角アミノ酸などを集中しているのに惜しいというので、雌が死ぬ前に食って、卵に変える。之れと同じことが、タリュンチュラという蜘蛛においても行われている。之等の事を長年月かかって調べたファーブルは。生存競争を通して神の秘密を教えている。即ち、一、生存競争はあっても絶滅競争はない。二、空間と時間において、又本能のワクによって、生存競争が制約されている、とのべてゐる。
ファーブルは、あまり科学的な検討でなく、直観的に生物界には、絶滅競争がない、といっているが、ル・コント・デュ・ノイ氏は、カトリック・ダイゼストに抄訳された〝科学は神を証明するか″という論文において、統計学的に研究して、種は絶滅しないといっている。猫が鼠をいくら食っても、ライオンが羊や山羊をいくら食べても、鼠や、山羊がへってはいない。殊に単細胞動物、環虫類、腔腹類、即ちヒドラ、ミミズ、アカコの類は全然無防備であるが、世界中何兆兆も棲息して、種の切れることがない。
生命の空間格子
之については、生命の空間格子というものが、考えられねばならない。ある一定の空間格子には、ある一定の動物しか生存し得ない。空間格子は、第一に、山の高さなど、地理的環境の制限により、第二に、気象。即ち、温冷、乾湿、風速、海流、水圧、気圧等による制限によって規定され、絶滅競争が防がれている。土の底にはモグラ、ミミヅ等しか住めないし、モグラは少しずつ歩いてミミヅを食っているが、その歩く距離によって食う量は制限さ払れ、自然に空間格子がつくられている。
更に、春夏秋冬の時間により生活が変り、動物も変るので絶滅が行われない。武蔵野には二月、蛇など、他の動物が活動しない前に蛙は卵を生む。こうする事によって、蛙のように無防備なものが繁殖する事が出来る。之を見ると空間格子の他に時間格子のある事が分る。
又、本能による制限もある。というのは、野生の動物は胃袋が一つで、そう必要以上に食べる事をしないから、食いつくしてしまう事はない。たゞ魚ではアジ、哺乳動物では豹は食べないものでも殺す癖がある。が、一般に動物は親切にしてやったら決して乱暴しない。ライオンなどは食べさえしたら乱暴しないから、ロサンゼルスにライオンを五百頭も飼育したライオンファームがある。印度のアッサムで食糧さえあればライオンも、虎もあばれないと云う事を実験している。
ファーブルの昆虫記に、狩猟蛾の一種Philanthusの事が書かれている。この蛾は、青虫をとって餌にするが、不思議に青虫の身体の各節の神経のあり場所を知って、蛾の針を麻庫させる。そしてその中に卵を生みつける。卵が孵るとその肉を食べて大きくなる。こうした事は惨酷に見えるが、彼は決して必要以上に、二匹も三匹もとるような事をせず、決して食肉的ではない。こうして食う方には本能の制限がある一方、食われる方は、無防備のものほど出生率が高く、統計的にバランスがとれている。
極端な生存競争はない
人間についても、食糧が一定で、人口が増えるのだから、生存競争、即ち、階級闘争や戦争は避けられない、と考える人がある。しかし、アメリカのすぐれた学者ラッセル・スミスは、「世界食糧資源論」で、人間が菜食主義にして肉食をしなければ、人口は今の数倍になっても食糧は不足しない。肉食すれば牛の飼糧は人間の十五倍も要るから、どうしても食糧が不足をするというのである。土地を立体的に利用して、蛋白も、脂肪も樹木からとる事にし、その下に山羊を飼い、その乳を飲む事にすれば、肉食をせずとも、立派にやってゆけると思う。
尤も南北極では魚を、叉沙漠では肉を食べないと生活は出来ないけれど。それ以外ではなるだけ菜食につとめた方が、平和な生活が出来ると思う。ガンジーも、山羊を飼う事を勧めていた。我々が肉食に偏らず、樹木農業を工夫し、又一方世界連邦をつくって助け合えば、決して食糧に困らず、生存競争に悩まなくてもすむ時代が来る。惨酷な生存競争が、何時でも、何処にでも、行われていると考えるのは間違いである。原生動物は無防備であり、環虫類(ミミズ)や、軟体類(イカ・タコ)も又無防備で乱暴をしなかった。これで分るように世界の最初は、平和であった。
全体を見わたすと、無機物を有機物にかえる力のあるものほど生活力がつよい。この点からいえば。植物が地球上で最も、強い生活力をもっている。植物のおかげで他の生物は、生きているのである。植物に寄生して菜食動物が現われる。之等の動物、例えば牛などは、胃の酵素によって、繊維をグリコーゲンに変える力をもっている。更にその動物の肉を食ったり、乳を飲んだり、する事によってアミノ酸を補って。人が生きる事が出来る。このような生態的に四重五重に配列され、決して生存政争は、一見した如く惨酷に、又無秩序に行われているのではない。
然しその反面、親子の愛、夫婦の愛、師弟の愛、社会の愛、団体愛等によって互いに助け合う動物ほど、生活力が強く、繁栄している。蟻などが、小さい身体にかゝわらず。強い生活力をもっているのは、その強い団体愛のためである。蟻の場合、一つの生活集団をもって、一つの肉体と考えるべきである。蟻の一匹、一匹は実に小さいが、一つの集団は百万匹位だから随分大きい身体になり。生活力も強いわけである。高等な蟻は肉食をせず、草木の蜜をとって、助け合って生きている。
人間も蟻に学び、無理に肉食せず。菜食して、助け合ってゆく必要がある。そうすれば、人口が、増加したからといって、他の国を侵略し又階級闘争する必要はない。唯物論者がいうような極端な生存競争、即ち、偶然的な宇宙悪は現存せず、生存競争はやむを得ない形で行われているが、その中にも神の不思議な意匠が顕われている。イスラエルの詩人のうたった詩篇第百四篇のような豊な生活こそ宇宙本来の姿である。我々は。卵からヒヨコが生れる如く地球の上で下等なものから高等なものに進化していく姿の中に、秘められた宇宙目的が徐々に開展するのを見出して、驚歎せざるを得ないのである。 (一九四九年二月号)