世界平和への道 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年三月号)

  ――国際協同運動を促進せよ――

 古代の戦争は、主として宗教の名により或は異民族間の闘争乃至は単に征服慾の満足のために為された戦いかの何れかであったが、現代に於ける戦争の起因は殆んど凡てが経済問題から発足している。同様に、現代ではその平和の解決策も極めて至難で、これが解決のためには、経済社会に宗教の手を伸ばし、宗教的意識、自覚を以て未開発の地点に協同経済国家を樹立し、こゝに国際協同社会を拡展する精神を持ち、各国が、かのコペルニクスの勇気を以てせずしては解決の途を見出す事は不可能に終るであろう。若しこの国際協同運動に成功するなら、我々はやがて世界に平和を実現する経済的基礎を樹立する事が出来るであろう。

 平和招来の策としては今日、様々な手段方法が試みられている。が然し私は私が久しく唱道して来た世界連邦政府の樹立と、この国際協同運動以外、いかなる方法によっても平和の実現に成功するとは信じ得ない。

 例えば今日多数のクリスチャンは平和問題の解決に非常に熱心で、宗教的見地から戦争に反対している。宗教的意識に眼覚めて戦争に反対するという事は非常に笑しい精神である。然し世界平和の確保のためには尚幾十倍幾千倍もの個々の努力が必要とされる。又一面には人類の理性に訴える事によって平和を要望している人々もある。「永遠の平和」の論文を書いたイマヌエル・カントは偉大な哲学者であった。我々も亦この世界から戦争を失くするためには多分にこの理性という一要素をも必要とする。然し現代に於ては、若し我々が、戦争の起囚は何に依存するか。何によって戦争が誘発されるか? この本質を究めない限り、我々の哲学によって、単に理性によって戦争を止揚するという事は不可能であろう。

 政治的な行為に訴える事によって平和問題を解決しようとする人々もある。例えばさきの国際聯盟や現在の国連の創設者たちは政治的権力に依拠して彼等の意向を表示し、諸国勢力の均衡を維持する事によって暫定的な平和を保とうとしている。然し単に政治的権力のみでは吾々は決して戦争の外に置くものではない。一九一九年以来、国際聯盟が、又現に、国連がどんな働きをなし得たかを知れば判明することである。

 若しも我々が戦争の果となるべき諸原因を排除しようとするならば、目覚めた戦争反対者の個々なる努力と、社会、教育、政治、経済等々現在大きな役割を持つところのこれらの分野の綜合的な力を以てするより他に途はない。

  戦争の主なる原因

 今日、戦争の主なる原因となるものが五つある。その第一は人口過剰問題、第二は船艦建造や食糧等の諸原料の需要問題、第三は負債や貸附、クンヂット等を含む国際金融問題であり、第四は貿易政策の撞着、即ち関税の協定問題等であり、第五は運輸関係問題である。これら五つの重要な原因は、その悉くが経済問題に発している。で若し我々基督者が、現下の経済生活の中にも宗教的な信条を取り入れて行かないならば、国際的平和の解決は恐らく絶対的に不可能に終るであろう。

 軍備縮少は世界の問題になっている。然し乍ら若し我々が先ず第一に経済問題の真の解決の途を講じないならば如何に我々が軍備問題の解決に腐心しようとも、恐らくそれは未解決に終らざるを得ないであろう。軍縮会議は失敗に帰した、それは何か故であろうか? 即ち私等は経済問題に於ける国際協同の方法確立という根本的な問題を何等講じる事なしに、只単に競争の掛引から軍備縮少の提案を論議したに過ぎなかったからである。それは丁度、荷馬車の後ろに馬を繋ぐ如く本末を顛倒したやり方である。何よりも先ず経済問題を解決しなければならない。その後に於てこそ我々は軍備縮少の問題をも扱う事が出来るのである、経済問題の解決方法として国際協同運動の確立を期せよ、さすれば、それによって平和をも招来する事が出来る・・・と私が唱える事は、或は私が非常に空想的な計画を提唱しているように見えるかも知れない。然し、他日、若し世界平和のための真の計画が提唱される時が来るならば、その計画こそは必ず、いま私がこゝに述べた方法の中から生れて来る事を私は固く信じている。

 協同運動の機能が国際問題にも適用出来るという例証は既に散見している。それはこの提案が決して不可能なものでもなく、又遠い将来に於てのみ初めて、実現する事が出来るだろうというようなものでない事を実証している。

 最初に先ず我々は私が前に近代戦争の諸原因と呼んだ経済問題が、決して今迄想像していた如く、解決不可能なものではないという事を確認する必要がある。例えば伊太利エチオピア間の戦争は人口問題が起囚をなした。

  世界の口糧は不足でない

 人口過剰の国民はその過剰な人口のはけ口、或は食糧、資源等を他の国に見出さねばならぬと言って、世界口糧の供給能力に対して憂慮を抱いている者もあるが、それは全く杞憂に過ぎない。

 コロンビヤのジョン・ラッセル・スミス教授が「世界の食糧資源」の一著の中で明瞭に声明している如く、世界には実に充分なる食糧が秘蔵されている。仮令世界の人口が今日の二倍になろうと或は三層倍されようとも、若しも世界各国の国民が国際協同貿易の運行というこの一事を知得するならば、食糧不足を来すが如き事は絶対に無い。

 人口と食糧に関する古きマルサス主義者の理論は、活きた現代の諸科学が食糧生産の増大という事をも生み出した今は全く時代から取残された理論となってしまった。露西亜、加奈陀、合衆国、アルゼンチン、オーストラリヤ、ニュージーランド満洲ビルマ、南亜弗利加等の国々は凡ていま食料の生産過剰に悩まされている。若しも世界各国民が善隣の如く、お互に力を一にして協力するならば、人類の間に食糧不足や飢饉等の起る事のない事は明瞭である。

 我々が若し山の傾斜面をも立体農業に利用するならば、その地域が仮に極めて狭小な地域であっても、尚且つそこに莫大な食糧を生産する事が出来る。然し乍ら、そこに生じ易い障害は、人間の奢侈と栄華とであり、それが不和と争闘を誘発させる原因となる。この貪慾が食糧資源の不足からよりも、より一層戦争の主たる原因である。

  汝等のうちの戦争は何処よりか、紛争は何処よりか、汝らの肢
  体のうちに戦ふ慾より来るにあらずや。汝ら貪れども得ず、殺
  すことをなし、妬むことを為れども得ること能はず、汝らは争
  ひまた戦す。汝らの得ざるは求めざるに因りてなり。汝ら求め
  てなほ受けざるは慾のために費さんとて妄に求むるが故なり。
                    (ヤコブ書四・一―三)

 ヤコブ書の此の言葉は又実に今日の社会にも其のまゝ適用される言葉ではないか?
 人々は余りにも私利私慾に汲々として相互愛の基礎の上に新らしい経済機構を建設しようとする大きな愛に欠けている。

 次に又各国民は諸生産原料とその資源の獲得のためにも戦争を辞しない。試みに現在重要な問題の一つとなっている被服の問題を例に取って見るがよい。世界のある地方には羊毛と棉花とが極めて豊富に産出される。オーストラリヤ及米国南部の諸州ではこれが多量に産出される。が、若しそこに産出される棉糸や羊毛が日本や支那に輸出する事が出来なくなったとしたならば、それは大きな打撃であろう。が若し我々が国際協同貿易を開始するならば凡てが共に利益を受ける事が出来る。この事は同様にセメントや木材の如きビルディング原料にも適用出来る事である。

  国際協同貿易の一例

 今日では各国の国民経済生活は自国民だけの力で維持して行こうとしても、それは不可能なことであるが、いま若し連接的にAの国はB国と、Bの国はC国と、Cの国はD国と、而してD国はA国と言う様に循環的に国際貿易が行われるならば、この段階的な国際協同貿易はやがて人類に偉大なる福祉を齎らすものとなるであろう。

 我々がかゝる意味の協同貿易に参加し、これに着手しない限り、永久的平和の基礎の国際間の諸事情を成功的に処理する事は全く不可能であるという事を基督者は認識しなければならない。

 一九三三年の八月、小麦の需給に関する世界大会がロンドンに開かれた。たとえそれが十二分の成功を収め得なかったにはしても、国際的な小麦の問題を正しい方法で解決しようとする一つの試みとなった。前年の一九三二年には巴里石油会議が開かれ、同じ年には、バルチック沿海諸国が北部ヨーロッパの過剰船廃滅のための国際船舶会議を開催した。以上のものが限界的なものではあったにもせよ、将来に於てこれと同様な、しかもより広範囲な国際会議が必須なものとして求められるであろう事は確かである。

 国際的な通商が協同的な基礎の上に建てられた時に一体どの様な事が成し得るか、その一例としてデンマーク、英国間に締結されたあの驚嘆すべき協同事業を注視するがよい。デンマークは協同卸売協会の手を通じて自国の農産物を英国に売り、大英国は英国協同消費組合の手を通じてデンマークの農産物を購入する。この協同的な協定のために彼等は一つの契約を遵守している。即ち協会同志の私利を図る事なく、その利益は生産者の手に返す事というのである。それ故、彼等は自由貿易とか保護関税等に対し何等議論する必要もない。競争貿易のないところは自ずと叉かゝる問題に対して悩む理由もない。

 現代の如く各国が競争的な組織状態のまゝで国際貿易を営む限り、必ずや各国間に疑義を挾む様な問題が生ずるであろう。が今若し、前に常備軍を三千人に縮少し従来の陸軍維持費を教育費に充当しているデンマークと英国が国際協同貿易の締結によって軍備問題を解決し得るものとするならば、同様な事が各国間に何故適用出来ぬ訳があるであろうか?

  国際クレヂット

 尚お一つ金融問題から生ずる戦争の恐慌が残されているが、これとても、若し各国が協力してそれに必要なクレヂットを準備するという方法をとるならば、この問題も解決されぬ事はない。一九二三年から二四年に於て独逸が無統制な通貨膨脹のための疲弊のさ中にあったとき、国際連盟は独逸のために一億ドルを保証した。即ち大戦に於ける独逸の疲弊の為めに各国は独逸国民の困窮を財政的に救援するの必要を認めた。

 国際金融貸借問題は凡て同様なる精神と方法に於て処理すべきである。若し各国が国際協同貿易によって相互扶助のクレヂット・システムを確立するならば、仮に外国貿易に於ける金本位制を放棄している国であっても、何等の影響を受けないであろう。何故ならば一国の片貿易は他の国の順調なる貿易によって相殺されるからである。

 例えば太平洋戦争のはじまる前、フィリッピン対日貿易は日本から二千万円の輸入超過を示していたが、そのフィリッピンは合衆国に対する砂糖貿易に於て輸出超過の好況を示す一方、合衆国は対日貿易に於て好況を示していた。若しこれらの三国がクレヂット・バンクを設立するなら、片貿易は最早や各国間の苦情の原因ともならぬであろう。農業本位のフィリッピン、一般商品生産の日本、高級機械生産国の米国とは、何等の障害、紛争もなく容易に協力する事が出来るのではなかろうか。

 ロイドの「船舶保険」は国際クレヂット協約の効果を如実に物語るよき例証である。ロイドの案は別に国家的な区別のない保険制度である。只相互扶助の主義に基礎を置いて各国の保険会社は英国のロイド船舶保険会社に保険の料金を支払う訳である。而して加入した船舶の破損した場合には、ロイド船舶保険会社は当該被保険者に支払う規約である。このロイドの海上保険と同様な主義体制のものが世界の他の保険事業のみならず、生産部門の上にも亦同様に適用されるに至る事を私は望んでいる。例えば、今もし各国の国民が協同的な基礎の上に生命保険事業の発達を計り、流行病その他の疾病の発生原因を根絶する事によって増加する利澗を有効に行使したならば、如何に大きな躍進が見得る事か知れない。同様な事は家畜保険或は震災、水害、火災その他の自然的な災害保険事業の上にも適用し得る事である。

 今若し国際連合が如上の意味に於ける協同的な国際経済事業を規約しその事業の発展に資するならば今日の世界に偉大なる影響を発揮するであろう。とは罪でないばかりでなく、むしろ奨励すべきことである。或る社会運動者は、協同組合の借入金は罪悪であるから、理事の任務を果せないと主張して、理事を辞任したことがあった。

 昔預言者エリシヤは、つきざる油を入れるために「近所をまわって用器のあいたものは凡て借り集めよ」と未亡人に注意した。それで、その未亡人は渋々、近所隣りに、頭を下げてこわれた瓶まで集めた。集めただけの用器には奇蹟によって油が満ちあふれた。

 創造主のめぐみは、こわれた隣の用器でも、役に立つ用器は、全部借り集めねばならぬ。それが、仏教信者の思想であろうと、神道の思想、科学者の理屈、共産主義者の運動方針であろうと、何でもかでも、神の恩寵の油を受取るに足しになるものなら、借りものでもかまわない。遠慮なしに使用すべきである。

 宗教と科学とは、相容れぬものだ。文化と芸術とは、排斥すべきだ。あの用器は口がこわれているからだめだとケチをつけてはならない。天より注がれるめぐみの雨をうけるために、少々こわれていても、いいではないか。すべての徳、すべての用器を神のために聖別すべきである。私は借りうることも恩寵の一つに数えている。

  定規とコムパス

 定規で二点の距離に線を引く。コムパスで線が引けないと思えば、間違いである。コムパスでしるしをつけて、そのしるしつけられた二点を遠くに中心を持つコンパスで結べば線になる。子供は定
規を持たなければ線が引けないと思っている。大人はコムパスを持って居れば二点の距離の間に直線を引くことができると考えている。心の中に神が住んでくれることを宗教というのであるが、宗教を外側に求めて、法律や、教条や、儀式や、お札等に人間の精神を結びつけようとする。唯物弁証法も定規で精神が生れたことをいう。人間は社会的動物であるから、社会の一員として存在していることを否定はできない。だから、人間は社会以上に進化できないという人があるならば、それは間違っている。ひき臼から製粉機が生れたのではない。製粉機を発明したのは知慧であり、精神である。その知識と知慧が絶対者と結びつくところに、真の宗教のあり方がある。神が霊魂の中に内住してくれさえすれば、科学と宗教は衝突しない。コムパスが中心を定めて、距離を計るように、人間の心の内側に、不動の場所を定め、その絶対不動者の実在を基礎にして距離を計れば、円を描くことも、切線をつくることも容易である。応用のきかない定規で円を描くことはできない。いわんや、定規だけで等辺多角形を描くことはできない。コムパスを用いれば、容易にできる。神を外側にもつか、内側にもつかによって、生活の内容が変って来る。

 私は、絶対者に良心を占領してもらう。そこに私の自由がある。
 
  流行思想

 流行ほど、残酷なものはない。日露戦争直後「二〇三高地」といわれて前髪を高く結ぶことが流行したことがあった。すると、額が四角形なために、前髪の曲線を利用して、その額の直角性をかくすべき婦人までか。醜さを忘れて、流行に移る。

 昭和二十年の敗戦後、なんでもかでも、アメリカ式がはやるとなれば、髪の毛の縮れていない女達までがわざわざ、数百円も支払って、パーマネントをかける。その流行に超越して個性を維持して行く発明をするものは如何にも少ない。

 これは、思想の流行についても同じことがいえる。日清戦役直後、日本で国粋論が流行すれば、天御命主中をエホバと同格に考えねばならぬと主張する者も現われ、日露戦役後、自然主義文学が流行すれば、半獣主義とざんげ精神を混同して説明するものも現われた。新神学が流行すればそれに走り、へーゲルやマルクス弁証法が流行すればまたそれに頃く。唯物共産主義が流行すれば、またこれを宣伝する。バール(食物神)が流行すれば、バールに跪き、アシタロテ(性慾神)が流行すればアシタロテに走る。ひとり。エリヤはカルメル山上淋しく創造主の信仰を守る。

 悪しき流行は、犯罪を激増させる。ダンスの流行に巷に処女性が隠れ、集団強盗の流行に、日本の刑務所は何処も満員となった。なぜ、善行のみに流行性がないのだろうか? 愛には伝染性があるものを、贖罪愛だけは流行性が鈍いものと見える。

  時計の針

 自分の用事が、すめば、人の用事をする男に、暇ということはない。血液のように、自己の中核を隠して、他人のために、いつも労作して居るものに取って、余暇というものはない。心臓は無休で働き、太陽は止ることを知らない。「神は今に至るまで働き給ふ」とキリストはいわれたが、神の子には労作が、創作に変り、創作が、芸術に、芸術が悦楽に進展する為めに、創作者には労作そのものが、休暇になってくる。

 神の休暇は、仕事の変り目を意味する。碁を打つもの、賭博に耽るものは、夜のふけることを忘れている。遊びにさえ夢中になるものを、創作者が夢中になれぬ筈はない。勤労が芸術であると云う自覚が目醒めるまでは、凡ての労働が、奴隷の仕事に見える。

 天地の神と協同作業をしているのだと云う宇宙目的を発見し、その目的実現のために、苦心するようになるまで、サボタアジは絶えぬであろう。だから、宗教的確信が、勤労階級に生れるまで、無益の闘争が階級間につゞく。

 多忙だと云ふ言葉を、私はつかわぬことにした。いそがしいにきまっている――いつも人のために奉仕を申出るものに取っては。だが、いそがしいと思えば、神経衰弱になる。時計の針だと思えば、セコンドよりは暇である。だから、私は、自分手に、時計の針だと考えている。時計の針は休むべきではない。針がとまれば役には立たないのだ。神が、私を時計に作って下さったことを感謝すべきである。  (一九四九年三月号)