世界平和の創造 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年五月号)
世界平和の創造
――ライオン飼育と人類の平和教育
世界が二つの陣営に分裂し、ソ聯とアメリカが将に第三次世界戦争を起すのではないかと案じられている。
一体世界平和機構を創造し、発見する道はないだろうか。私は断じてあると云う。雷が電燈となり、狼が犬となる工夫を発案した人間に、人間同志が戦争を中止する方法を発見し得ないということは考えられない。最近までライオンを飼育することは絶対に出来ないと考えられていた。だが今では米国のロサンゼルスにライオン飼育場が出来、犬の如く柔和なライオンが沢山できている。猛獣が育成の方法に依て柔和なものになるならば、人間とても戦争しない柔和な存在として育成し得る筈である。
それにはライオン飼育と同一方法をとる必要があると思う。ライオン飼育の教育原理には三つの大方針があった。第一はライオンの赤ん坊の時から教育するという方針である。これを社会教育的方法と云おう。第二はライオンに生活の安定を与えることである。これを生理的条件と云おう、第三はライオンを恐怖しない心理的態度である。これを心理的条件と云おう。
総ての動物は赤ん坊の時から世話すれば、みんな一つになれるものである。それで世界各国の人類が、赤ん坊の時から助け合いをすべきものだという実践に於て示されるならば、世界に戦争はないことになる。赤ん坊に人種的偏見などはない。
だが、若し特別な悪質遺伝者があるならば、ライオンと同じ様に遺伝学的に次の世代に於ては淘汰するように考えねばならない。動物には人工授精をもって優等種をつくるために最善の努力を払っている。
私は人類を改良し絶対に戦争を中止する目的の為めならば、人間の人工授精を大いに奨励してもよいと思う。若しそれが不可能ならば、平和を希望する個人的の強き意識を結集させ、平和を破るような悪質者は隔離するような方法をとる必要があると思う。かゝる工夫を昔から宗教的情操によって、或は乱暴なものを修道院に於て保護訓育したものである。だから現代に於ても優生運動を宗教的に生かす必要がある。
物質だけで平和は来ない
子供のときから平和生活を教えこむためには、どうしても母親の気持が要る。母親のしている親切な工夫が人類全体に対してもなされなければならない。動物実験をやっても、分る通り、柔和な動物でも定期的に一定の食糧を与えなければ、猛獣の如く、戦闘的態度をとるものである。鶏や、モルモットの様なおとなしい動物でも、一定量の食物を、一定時に与えなければ、猛獣の如く人間に咬みついて来る。一日に必要なる食糧を、一度にかためて与えては何にもならない。それを三度に分け、心理的に、うまく食わすように、手配りと、親切さを持たなければならない。私は長年の間、世界各国の貧民窟の研究をしているものであるが、貧しい人々の子供等は、必ずしも、中流階級の家庭の子供等より、小遣いを少く貰っているわけではない。むしろ、それとは反対に、多く貰っている事がある。しかし、貧民窟の子供等は、その金を浪費し、朝の中にその金を使ってしまい、昼と晩とは何も食わずにいるといふような変則な生活をしている。之が不良化の最大原因である。
自然界に於ける生活の不安定が、柔和であるべきはずの動物を非常に猛悪なものにしたと思う。それで人間が互に譲り合い、助け合って、人類全体の生活不安を除く工夫をすれば戦争はなくなると思う。
こゝに注意せねばならぬ事は、財産や富がいくら積まれてあり、それが自由に与えられても、決して戦争はなくならないという事である。モルモットや鶏に、一日分の食糧を朝一回どっと与えても、そのモルモットや鶏は晩方になると、飢えてしまう結果、獰猛なものとなる。それを三度に分けて、水をやり、菜っ葉を与え、牝鶏や、親モルモットのするような親切さを示さなければ、柔和な動物につくり上げる事は出来ない。だから、いくら唯物共産主義になっても駄目なのである。物質がものを云うのではなくて、生物の心理に適合するような親切な取扱いをしなければ、その動物は決してよいものにはならない。
足らなければ、足らないなりに、動物の心理に適合するような規則正しい与え方をすれば、生物は物質的に多少不足と見えても、非常になつくものである。小さい時に可愛がられた、東京の犬が、もと神戸にいた時に、牛肉を買いに行っていた牛肉屋まで三百七十五哩の道を飲まず、食わずに往復して、遂に主人の家に帰って来るなり死んでしまったという有名な話がある。小さい時に、動物を親切にしてやると、その愛にほどされて、断食してでも、主人の命令をきくというような驚くべき本能を動物が発揮している。私の飼っていた犬は、私達が東京から一旦引上げて神戸に帰った際、友人があとを引受けてくれて、その犬に食物を与えても、食おうとはせず、毎日毎日電車の停留所まで、私達が帰って来るかと迎えに行き、とうとう餌も喰わずに私の住んでいた家の橡の下で死んでしまった。こうした心理が動物本能の中にもある事をよく理解しなければ、ただ物質的にだけ考えて、それで世界平和が来るなど考えたら、大きな間違いをする。
心理的生活安定
食糧を沢山積み上げたから、それで平和が来るというのではない。トルストイが書いているように、食糧が余って、酒をつくり、酒の為に発狂して放蕩を始めるならば又戦争になる。だから、生活の安定というものは、物資の豊富だけを問題としてはならない。生きている人間の生命の安定を計るために必要な物資を、適当に与える事は勿論必要であるけれども、要らない時に、多く与えたり、要る時に取り上げたり、一ケ所に多く与えて、動物を相互にせり合いさせるような、与え方をせぬように工夫せねばならぬ。
之を人類の平和機構に応用する場合には、物質だけを重んじる共産主義では真の平和は来ない。生活は安定せねばならないけれども、生活の安定は物質の安定を意味しない。有名な音楽家モツアルトはオーストリアの都、ウィーンから乞食をしながら、イタリーのローマまで、宗教音楽を聴きに行ったという事である。少々腹が減っていても、好ましい創作的作業に専念したいのが人間の心理である。収入が多いから、ある職業につくとは限っていない。
それとは反対に天分を生かす際に、少々飢えてもかまわない、科学に、芸術に、宗教に、一生を捧げたいと云うものが頗る沢山いる。之等の人人は、唯物共産主義には満足しない人々である。之等の人々に職業の安定を保証する事が生活の安定になるのである。この心理的生活安定を考えなければ、戦争は絶えない。十六世紀以後約二百年間、西洋では宗教戦争が各地で行われたが、この心理的生活安定という事が脅かされた結果、戦争になったのである。そして今、ソヴイエットとアメリカの間において、主義の相違から、第三次世界戦争が起ろうとしているが、之も、十六、七世紀に起った心理的戦争と同一種類の結果を招くであろうと私は考えている。
だから、唯物辨証法だけにとらわれないで、職業心理に対する人間の強い精神的意欲を生かすように工夫しなければ、主義から起る戦争が新しく世界を混乱に導くであろう。こゝはあくまでも唯物独裁主義を排して、他少飢えてもよい、人間心理の押え難い創作的本能を抑圧しないように、工夫する必要がある。この心理的衝動は性欲本能以上に強い衝動として現われるものであって、マルクスやレニンの云うような、「人間は唯物的にのみ考えたら、それでよい」というわけには行かない。
哺乳動物の本能には、一寸理解し難い心理的なものがある。鼠に近いレンミング(喫歯類)は北米、ロッキー山脈から移動しはじめると、何百哩でも、動き出して大きな湖水や河に阻止されるまで続ける。野生の馬にも、スタンビードと称する本能があって、元気がつき出すと、幾干という小馬が、幾百哩でも、走り出すという面白い本能がある。之と同じような人間活動の本能は、飯を食わなくても、恋愛に耽ったり、飢餓を忘れて発明にあせる形をとる。トーマス・エデソンは二週間の間、一睡もせずに電気の発明の工夫をしたと云う。常識では考えられない事であるが、人間の心理要求にはこうした反面がある事を忘れてはならない。この点はあくまでも、民主主義的に、勤労意欲を生かすように、職業の自由、人格の自由を 保障するような社会組織を創造しなければ、世界平和は来ない。
教育による世界平和創造
人間には、ライオンはこわいものだという小さい時からの暗示が働き、ライオンが愛らしいものだという事の考えをもつ事は容易ではない。私は、米国、ローサンゼルスにいた際、柔和で有名なブルトーというライオンと角力をとって見ないかと、ライオン動物園の支配人に云われた事がある。「大丈夫ですよ、決して噛まないから、何なら角力をとっている写真もとって見ませんか」とも云われた。然し私はやはり、一種の恐怖心からそれをする勇気がなかった。映画にライオンを使用して面白いフィルムをつくっているのは、多くはこのライオン群を犬や猫のように使用しているものである。恐らくこの種のライオンが幾万匹も増殖出来るならば、アメリカの貴婦人が、セファードやポインターをつれて歩くように、ライオンをつれて歩く時代が来るのは、そう遠くはないと思う。
台湾の首かり人種は、嘉義の呉鳳の犠牲によって完全に野蛮な風習を止めてしまった。ローヤリティー・アイランドの人喰人種は、有名なキリスト教伝道者パオの犠牲的努力によって喰人的蛮風を中止した。フィジー島の喰人種も、五十年前迄人間を喰っていたが、この迷信と戦争をキリスト教の感化に依て廃止してしまった。私はフィジー島の酋長の口から、そのあかしを聞いて、全く驚いてしまった。かくの如く未開の土人が戦争行為を宗教的感化によって廃止し得るならば、文明人と云はれている我々が、世界連邦組織を発案して、戦争廃止の行為に出ることも、あまり遠くないだろうと考えている。しかし之には外国人を疑ったり、恐怖したり、疎んじたり、馬鹿にしたりする観念を捨て、如何に未開の人種でも、尊敬すべき要素のある事を考えて、勇敢に接近する努力をする必要がある。
教育を与えられたライオンは人間と角力しても、決して人に噛みつくものではない。猛獣がそうであるならば、まして人間においておやである。我々は、猛獣を訓練する生理的、心理的、社会的方法を、世界平和の創造と発見の上に、応用する必要があると思う。 (一九四九年五月号)