産児調節論 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年五月号)

  善種は増殖せよ

 社会改造は、単なる制度の改造を意味しない。それは人間の改造を意味して居る。人間を改造せずして社会の改造はあり得ない。不幸にして人間改造は一代ではできない。道徳や、宗教は、人間の霊的方面を改造し得るが、肉体的方面は数代を経ての、長き努力の結果改造するよりほかに道はない。そこに淘汰の必要が起り、撰択の自由が認められなければならない。撰択の自由は、恋愛の自由を意味し、また良きたねをとるための産児調節を意味する。私は、産児制限という言葉をあまり好まない。産児調節という言葉を使いたい。天才の子供等はどしどし生んで貰ってそのたねを、社会が保存し、最大限度まで産んで貰うがよい。

 乳牛でも、小鳥でも、食用蛙でも乃至は鶏でもよい種になるほど高価なものであるが、人間においてもそうである。良種を制限することは間違って居る。昔スパルタでは、オリンピックゲームに勝った選手に美しい女を与え、時によりと、それが他人の妻であっても、無理にも奪い取って、与えたという。これは最も極端な一例であるが、スパルタ人が如何に、善種を保存するに苦心したかを知るのである。

  悪質遺伝と産児制限

 しかし、その反対に、悪質遺伝者が、子を多く生むならば、それこそ大変である。米国で研究せられたカリカック家族の如き、低能の男が低能の女を娶り、その結果低能児が一家族に百人近くも増殖したという。こういう場合には、すべからく産児の制限をすべきである。今は遺伝学の発達の結果、如何なるものが遺伝し、如何なるものが遺伝に対する優生であり劣生であるかよく解って来た。人類を退化せしめる最もおそろしい悪質遺伝力を持つものは、生殖腺に直接影響を持つ凡ての毒素である。即ち、梅毒、アルコール等は最もおそろしい遺伝性の素質を持っているもので、梅毒の流布と共に、全民族が殆んど退化する傾向を持っていることは医学上すでに証明せられた事実である。であるから、悪質遺伝者に対して、産児制限を行うことは、最も必要なことで、それはたゞにその両親にとって必要なるのみならず、社会にとって、せねばならない一つの義務である。考え方によれば、生れ出る子供にとっても、幸福なことである。生れ出た子が、犯罪者として世をはかなみ、世をさわがし、低能者として、悲しい一生を送るより、むしろ生れない工夫をした方がよいのである。

  経済的産児制限

 ところがこうした本質的の解らない人は、産児制限といえば如何なる者も、如何なる場合でも、産児制限をしてよいと考えるのである。今日の様に、日本の国土が狭くなり、人口が稠密の度を加え、特に食糧難が増大して行くにつれほとんど無制限に、産児制限を唱道する論ばかりが多くなった。これは今日の客観的情勢上止むを得ない事であり、また正しい議論である。だが、社会進化の本質を考えるものには、すべての人がすべての場合に産児制限をせよとはいささか行き過ぎた考えではあるまいかと思う。それがよい種であるならば、少しの無理はあっても、子供を多く作って行った方がよいと思う。のみならず今日の産児制限論は、性慾と、出産とを二元的に考えて、性慾は肯定するけれども、出産は否定しようという簡単な思いつきから起っているものが頗る多い。

 科学的に見るならば性慾と出産の分離は頗る危険な行き方で、出産を除外した性慾は民族を亡ぼす原因となることが頗る多い。それはいろいろな形になってあらわれて来る。その第一は女娼男娼制度であり、各種のおそるべき罪悪である。それであるから、産児制限にとって最もよき工夫は、宗教的禁慾を教えることである。

  禁欲生活の社会的意義

 現代社会では、禁慾生活を笑う人が多いであろう。しかし禁慾は決して不可能な事ではなく、心の持ち様によって、どうにもなるものである。私は、過去の宗教的経験によっても禁慾生活は、そう困難な生活でない、より高き生活をすることによって、禁慾生活は、比較的容易に行われることを知った。殊に女性においては、この可能性が多い。現代において最も禁慾生活を送っているものは高等女子教育をうけた人々である。米国においては女子大学の卒業生の六割までは結婚しないで一生を送る。或人は、あまりに科学的になった頭脳は神経中枢にまで影響を与えて、生殖腺に関係を持つ神経系統を痲痺さすものであるとも云っている位である。実際、神経作用の生殖腺に影響を持つことは実に絶大なもので最も鋭い神経作用なくして、生殖作用は可能ではない。或事を想像し、現実より寧ろ幻に描く神経作用の方が遥かに生殖腺に対する大きな刺戟を持って居るから、科学的になった頭脳は部分的に見て生殖作用を退化せしめることは否定することはできない。

 これを見ても、禁慾生活は、精神的修練を経ることによって決して困難でないことが感づかれるであらう。その反対に今日の日本の如く精神運動の盛んでない時は。性慾は腐乱し、手がつけられない様なあわれな状態がそこに描き出されるのである。それであるから、私は最もよき産児制限運動は、禁慾的宗教運動であると思って居る。

  人口論産児制限

 私は、堕胎には反対である。もっとも、医者が必要と認めた場合には手術をせねばならないであろう。しかし産児制限によって、必ず人口の制限が行えると思うなら、それはあたらないかもしれない。仏蘭西では産児制限が相当に成功して居る様だが、和蘭では、産児制限を教えても人口はやはりいちじるしく増加している様である。これというのも産児制限が、確実に行われる様な衛生的な国民は、死亡率においても非常によい結果を示して来るために、少なく生んで多く育つ方が、多く生んで殺すよりか却って人口の増加を来らす場合かおり得るのである。和蘭の場合はそうである。さればといって、全然子を生まない様にする訳にも行かず、全然子を生まないとすれば、その一民族は亡びる。そうかといって、戦時中、軍部が音頭取りで生めよ殖えよと宣伝した人口増殖策が決して当を得たものでなかったことはもちろんである。

  アゼクトミーの実際

 そこで吾々は産児制限を考えるときに、全民族の人口間題からのみ産児制限を考えることが、危険なことであることを考えねばならない。

 最もよき産児制限の方法は、優生学的見地より出発して、優種増殖、悪種淘汰の原則をとることである。

 例えば男子輸精管を切断して、子孫が増殖しない様な方法は欧羅巴において昔からとられて居った産児制限の最もかしこき良き方法である。日本に於ても癩病患者の胎内伝染を防ぐために、輸精管の切断を希望者に手術せられている光田健輔氏の様な篤志家もある。私はこうした産児制限には大賛成であって、同様のことが悪質を自覚する他の疾病患者にも自発的に行われるようになると非常に良いと思う。その手術は頗る簡単なものであって十五分間もかゝれば、済むことである。これが女子の場合、どれだけ成功するか私は医者でないから知らない。私は、こうした手術は、悪質者にとって、最も必要な企てであると思うが、これを濫用することは民族生活にとって悲しむべきことだと思う。即ち、産見制限運動は、最も高き性道徳の発達に伴うて行わるべきものであって、厳粛な性道徳の批判なくして行わるべきものでないと思って居る。  (一九四九年五月号)