平和なくして文化なし 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年六・七月号)

     平和なくして文化なし
       ――文化創造の基盤としての平和――
       文化の条件としての平和

 文化の創造は平和を条件とする。戦争に使うエネルギーを、平和の創造に使用しなければ、文化の発展は絶対にない。だが、世界秩序が維持されるために、相当大きな意識の目醒め、または、法治的勢力が要る。意識の目醒めは、宗教的結合による秩序の維持としてあらわれ、法治的基盤はギリシヤの群小共和国の如く、律法を護る市民層の鍛錬が必要である。だが、意識的目醒もなく、法的鍛錬も持たない場合、大きな警察勢力が、しばらくの間、社会の支点となる場合がある。

 英国の文明批評家、ジョン・ラスキンは、この警察勢力を、ギリシヤ文明に発見し、強権が文明を生むかの如く「楸(木敢)攬(木覧)の冠(クラウンオブワイルドオリブス)」に書いている。

 だが、強権がいくら力を持っていても、内部的意識の自覚がなければ、文化の創造は不可能である。ローマ帝国は強権において、ギリシヤに勝っていた。しかし、ローマ特有の文化と云うものは、創造し得なかった。ほとんど凡てが、ギリシヤ文化の模倣であった。

 マホメット教のサラセン文化が、同じことを我々に教える。今日、イスタンブールコンスタンチノープル)に残っている美しい建築物は、すべてギリシヤ系のキリスト教信者が造ったものである。またその後、アルメニアキリスト教信者によって、サラセン文化が、発達したことも忘れてはならない。トルコ人は、あまりに戦争にいそがしく、文化の創造を、戦争に従事しないギリシヤ人、アルメニア人に委嘱したのだった。これを見てもわかる通り、文化の創造には、生活の安定、勢力の蓄積、交通、通信の発達、教育組織の完備、法的秩序の維持の五要素が、必要である。この一つが欠けても、文化の創造を望むことは出来ない。

 奈良朝の特殊な文化創造は、全く平和の賜物であった。中国との交通は開け、大きな戦争はなく、奈良の大仏を造るだけの、社会勢力の蓄積はあり、中国文学の輸入によって、新しい教育制度が発達した。これが奈良朝時代の輝しい文化を、作り出したのであった。

 藤原時代の文化的進歩についても、同じことが云える。延喜天暦時代に、五十余年に亙る平和がなかったとしたら、日本神道の形式は、王朝時代の型をとらなかったであろう。さらに下って、徳川時代の文化形式は、全く二百五十年間の平和の賜物であった。

  中印文化と平和

 中国における唐、宋、明、清の文化水準を比較するならば、少くも、二十年乃至五十年間の、比較的平和の時代が、その各時代における文化創造の必須条件であった。戦乱と共に、王朝は変革し、統一は破れ、中国の文化は衰退して行った。

 印度における文化史についても、ほとんど、同一のことが云える。印度は歴史が書けない位、戦国時代が永く続いた国である。ガンヂス川と、ガンガ川の合流点において、パトナの王朝が勢力をはっていた。そこへ、マケドニアの大王アレキサンダーが、陸路ペルシャから攻め込んで来た。しかし、アレキサンダー大王は、五阿地方の洪水にさえぎられて、ラビ川の岸に存在していた、ラホール地方より、一歩も前進することが出来なかった。将士は疲れ果て、六ヶ月の中に、水路バビロンに帰っていった。この後、グプタ王朝のアソカ王が、あの稀有なる平和宣言を、印度全土に布告したことは、有名な話である。彼は、オリッサの戦において、一日五万人の敵を殺し、自ら反省して、慚愧の涙にくれ、遂に出家して行衛不明となった。この平和の要求が印度仏教に基礎を据え、この平和思想が、ヒラマヤを越えて、中国より日本に波及したのであった。その後印度は、闘争に闘争を重ね、階級制度の極端な発達となり、ついに英国の奴隷となってしまった。印度の歴史は、平和なくして文化なしと云うことを、如実に教えるものである。

 古代エジプトの文化を回顧しても、殆んど同じことが云えよう。ナイル河の流域に、王朝は起り、王朝は倒れ、小アジアより異人種が襲来し、黒人種は南方より押し寄せ、ついにアレキサンダー大王の手によって、征服せられ、ローマがこれに代るに至ったのは、内部闘争の結果であった。

 第五王朝が作った、ギザのピラミッドを、くらべてもわかるが、精力の蓄積がなければ、ピラミッドの建造も出来ない。文化の遺伝をさまたげるものは、戦争である。戦争は生命をうばい、精力を浪費し、交通網を破壊し、教育組織を喪失せしめる。平和なくして文明はない。

  欧米文化と平和

 ヨーロッパの近世史を見ても、三十年戦争ほど悲惨なものはなかった。ドイツの人口は三分の一に減退し、疫病は伝播し、飢饉は諸国を亡ぼし、ヨーロッパは全く衰退の極に達した。そのドイツが、フレデリック一世によって統一せられ、やゝ平和が回復すると共に、世界で最も科学の進んだ国に成り得た。すなわち、生活の安定と、精力の蓄積と、国家の統一と、教育制度の発進、法的秩序の進歩により珍らしい科学文明が、ドイツを訪れた。

 イギリスの場合にも、同じことが云える。ビクトリア女王時代の五十余年の治世は、本国において、一度も戦争がなかった。南アフリカトランスバールに小さい戦争があった。また印度にも出兵した。しかし、この時代における国内平和が、エリザベス女王時代以上の文化を生んだことは事実である。英国における、最も偉大な発明の多くは、この時代に完成した。

 アメリカ合衆国における文化創造についても同じことが云えよう。一七七五年より七年間、アメリカは独立戦争に苦労したが、その後、アメリカは南北戦争の他、外国との間に戦争らしいいざこざはなかった。十九世紀中、これが如何にアメリカ文化の基礎を据えたか、想像に余るものがある。二十世紀になって、米西戦争、第一次世界戦争、第二次世界戦争と、三回の戦争が繰返した。そのために、多額の失費があった。だが、英国と違って、本国は少しもいたんではいない。それで、この後もアメリカは相当に勢力の蓄積を持っている。

  スエーデン文化と平和

 スエーデンは、一八〇九年ロシヤに破れてからは、戦争をしない方針をとってきた。だが、ナポレオン戦争の時に英国に頼まれて、同盟に加わり、ナポレオンと戦った。それを機会に、百三+五年間、一回も戦争せず内乱もない。この不思議な平和な国は、協同組合の方面においても、優れた経済平和を経験し、富豪もない代りに、貧乏人もいないと云う、理想的な平和国家を作り上げた。もちろん、軍隊は解体せられ、軍事費は国家予算より削られた。その費用で、国民教育を促進し、世界一の珍らしい教育国にしてしまった。建築、彫刻の独創性など、スエーデンに行って見なければ、その文化水準の高さは、さとり得ない程である。犯罪は激減し、首府ストックホルムの元の刑務所は、今は美術館に使用せられている。犯罪者は一九三五年度において、わずかに、延人員千百人しかなかった。東京都の人口五百三十五万に対して、数万人にのぼる入獄者のあるのと、比較にならぬ数字である。

 これを見てもわかるが、文化の創造には、平和が必須条件である。  (一九四九年六・七月号)