共産主義と基督精神国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四九年六・七月号)
マルクスの資本論の解剖は、経済病理学としては、正しいものである。然し、それは社会病治療学でもなければ、社会政策学では勿論ない。それを社会治療学と考えたり、社会政策学と考えたところに、一種のヒステリアがある。
マルクスの「資本論」の分析は、それまでに発達した、社会経済学諸派の、近代病理学を大成したものである。だが、不幸にして、十九世紀前半のヘーゲル左党の唯物弁証法に崇られ、折角の立派な病理学が、社会治療学としては、腰抜けになってしまっていることは見逃すことが出来ない。
資本主義を、搾取制度と断定し、その価値説を剰余価値に、位取りを置き、資本の集積、資本の集中、従って、労働力の略取、機械生産の激化による生産過剰、資本主義的帝国主義戦争へと転化する経済病理の分析は正しい。
その戦争が浪費に終り、恐慌を誘発し、失業者が、激増し、持っている者と、持たざる者の階級闘争が甚しくなり、ついに暴力革命となるという唯物史観的説明も、社会病理の分析としては、一応、経済歴史の半面を衝いている。
しかし、これは資本主義社会の「搾取制度」を基礎にして、唯物論的に、判断した場合に限るものであることも承認せねばならぬ。
唯物史観の無理
では、凡ての人間が、凡て搾取的であり、母親も、兄弟も、凡ての文化人が、搾取的に活動しているかと云えば、これはマルクス的分析の行過ぎであると云わねばならぬ。チヤールス・ダーウヰンの「種の起源」が犯したと同じ誤謬を、マルクスも犯している。ダーウヰンは、食物競争の外に「性」競争を「人類の由来」(ディセントオブマン)に附加したが、マルクスは、この多少なりとも合目的性を示す、「性」の要素を、彼の社会に採用していない。
なんでもかでも、唯物弁証法的に、食物競争、階級闘争で押通さうと云うところに、彼の唯物史観の無理がある。マルクスには、経済病理学はあるけれども、真正な意味に於ける「経済学」はない。
もちろん、マルクスには真正な意味における「社会学」が無い。ただ十九世紀の機械文明頽廃期の社会病理学の一断面だけはある。辛じて、「万国の労働者よ、団結せよ」と叫んだところで、それで、社会には成っていない。況んや、「階級意識に目醒めよ」と主張したところで、唯物弁証法的に、「真理は物質の分泌である」と、説明するのでは、意識の出所が明確性を欠く。科学的社会主義を主唱すると云うけれども、決定論的唯物史観に於て、論理的自然科学の発生の余地は無い。マルクス時代は、まだ因果律を盲目的決定とのみ考えた。それが第一の誤謬である。因果律の内容を分析しても判る如く、因果律は、撰択性を内容として発展する。決して盲目では無い。消化作用の発展、血液機能の進展を、酵素作用の摺択性を除外して、因果律が説明できるものでは無い。だがマルクス時代は、未だ酵素化学の発達も無く、況んや、原子物理に現れている撰択律や、先験的確率性など云うものは論理的に採用せられていなかった。その結果、あの無理な「文明は、その時代の唯物的生産の形式によって、主として決定せられる」と云うが如き病理学的批判がなされたのであった。
唯物弁証法の誤謬
文明と云うものは、唯物主義の形式では決定するものではない。それは、唯物的生産の形式の背後において、文明文化の原動力となる「意識性」によって決定せられるものである。さればこそ、マルクスや、レーニンも、「階級意識」を問題にしたのである。同一の機械を使用して、一人は搾取し、一人は協同組合によって、他人を利するのを「意識の差」と云うのである。
意識は発明し、発見し、統制し、企劃する。この意識を離れて、家族も、国家も、階級も、世界も絶対に存在しない。その意識を「唯物的生産」だとするところに、マルクス病理学は、マルクス論者の無意識性を指摘する。
社会原理としてのキリスト愛
「社会学」の鼻祖アウグスト・コントは、「社会は精神の結集体である」と考えた。クロポトキンの如き、「相互扶助」の分析によって、この互助意識性の発言を、心理的に追跡しているが、まことに、科学的であって、マルクスの遠く及ばぬところである。
イエス・キリストの宗数的体験には、科学的祖述がない。だが、彼は、「愛」を持って、真正社会の基礎と考えた。特に彼は、贖罪愛の自覚に立って、これを人生の再創造の本質と考えた。血液が、自己を殺して、他を復活せしめる如く、キリストも、連帯意識性の本質は、人の過失の尻ぬぐいまでもせねばならぬと気がついた。これがキリストの人生プログラムを貫く「十字架」の意識として発展した。そしてキリスト以後、キリスト教会はこの十字架的連帯意識性をその教理の本質と考え、また実践の基本とした。そして、愛による再創造のあるところに、社会復活が約束せられ、平和社会の創造となり、その連帯意識性から、新なる文化創造が産れている事も事実である。英国の文明批評家ジョン・ラスキンが、「ヴェニスの石」において発展させた歴史哲学は、全くこの唯心的経済史観であった。そして、歴史が社会の意識的発展を記録するものである限り、ラスキンの立場が科学的であると私は考えている。
社会治療としてのキリスト的協同組合
私は、唯物共産主義と、キリスト教会内部における、メノナイト派の人格的共産主義を区別する。私は勤労を尊敬し、労働階級を解放せんとする、あらゆる運動に敬意を払うものである。たゞその目的のために、暴力を肯定し、独裁主義を信奉し、社会民主と、代議制度を否定し、宗教を排斥し、唯物論を第一原理と考え、夫婦愛の相対性を唱導し、道徳を一時の方便と見るが如き、唯物弁証法的共産主義には、同情が特てない。それは、一種の病理学であって、新しき建設への方策ではない。
この点において、私は、キリストによる精神革命の主張が、より永久的基礎を持っていることを信ずるものである。一八四四年、英国ロッチデールの協同組合の開拓者達は、「利益払戻」「持分の制限」「経済民主」「統制的企劃による生産的消費組合の創設」等による諸原則により、新しき、社会経済の治療に乗り出した。これらの諸原則は、マルクシズムや、レーニズムに発見できないものである。一九一七年の革命に、レニンは、これらの諸法則を無視して出発し、見事に失敗し、一九二一年四月、ついに協同組合原則を、再び拾い上げたことを見ても、マルクス・レーニズムは資本主義病理学であって、社会治療学でないことをよく証明する。キリスト的協同組合社会主義は、社会治療に対しては、大きな役割を持っている。 (一九四九年六・七月号)