世界連邦と教育社会主義

  世界連邦と教育社会主義

 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」と云う。そして、レニンはマルクスの云う階級国家は暴力のほかに建設できないと考えた。そして独裁国家の必要性をとき、ついに、ロマ帝国主義への逆転が、マルクスよりヒットラーにいたる現代政治の悲劇を産むに到った。

 だが、よく研究すると判明する如く、近代国家は、教育による意識開発によって生れたものである。ルーテルの聖書が印刷せられるに到って、近代民主主義が産まれ、プロテスタントが西洋諸国の宗教的共和国を産んだ。この宗教的民主主義は、フランスにおいて非転化した。五万人が殺され、二百五十万人が餓死した。その反動は、ナポレオンの独裁政治であった。その跡片付は教育民主主義が分担した。ペスタロッチの小学校運動は、この役割を果した。

 一八四八年二月、共産党宣言の出たとき、欧州は狂風怒濤時代を演出した。その時の跡片付をしたものはフレベルの幼稚園運動、即ち「人間の教育」運動であった。彼は児童の性格にすら神の子の資格を認定し、真の「人間民主」の基本を据えた。一八七一年パリの六月革命は、共産党暴動の失敗に終ったが、この頃から「労働者教育」「一般職業教育」が盛んになり、ラスキン大学、マウリスのロンドン・キングス・カレッジが産まれ、デンマークの復興の国民高等学校運動が誕生した。教育なくして社会の新生のないことが、これでよくわかる。一九一七年のロシア革命は、無産階級の教育を発展せしめ、一九四五年の第二次世界戦争後、英国は一般庶民大学の必要さを感じた。意識の開発が世界連邦を産む。教育社会主義なくして、世界連邦はあり得ない。  (一九五一年六月号)

  発明としての平和

 レニンの国家論や、オッペンハイマーの国家論は、暴力組織を国家と考えている。国家が暴力組織である間、国家は疑似社会であって、真の社会ではあり得ない。だから、レニンの国家理論を基礎にする共産主義社会組織は、真正の平和を産むことができない。真の平和は、有機的安定性の上に立つ肉体の如きものであって、角や蹄や爪や牙で出来ているものではない。それは、愛と協同の結果として実現せらる可きものである。それは発明せらるべきものであって、暴力の結集ではあり得ない。

 万国郵便制度が一種の社会的発明である如く、世界連邦制度も、一種の発明である。盲人への点字書籍が一種の発明である如く、世界平和も、発明として人類に与えられるであろう。然らば、如何なる形で世界平和が発明として与えられるか? それは、経済的安定を保証する世界連邦機構が、万人によって見出ださるゝ日に、それは万国為替組織が、人類生活の為めに必要なるが如くに、人類への福祉として到来せざるを得なくなるであろう。

 協同組合制度が一種の発明なるが如く、世界連邦も搾取なき新しき社会組織である。搾取なき社会は利益を払戻す意識的開発によって完成する。この意識的開発は武力、暴力、階級争闘によって来ない。むしろ人間の意識的発明によって来るものである。だから私は、世界平和は発明であると云うのである。自己の人格的発明が、すべての社会人に捧げらるゝ日に、世界平和は世界連邦組織として与えらるゝのである。だが、一たん発明せられた以上、電動力の如く利用せらるゝであろう。  (一九五一年七月号)

  世界連邦と集団保障

 戦争が高度に進化するために、も早や一国家が世界を対手に戦争することは、不可能になってしまった。水素爆弾の時代に於ては、殊に、そうである。ガソリンが足りない、ゴム、錫、ニッケル、タングステン、曰く何、曰く何と大国ですら足りないものずくめである。ロシヤはガソリンが年産三千万トン、アメリカは二億五千万トンと云われている。暴力も経済力、心理的結集力、及び科学力を背景としなければ、戦争はできないので、昔のごとく、簡単に敵を克服することは出来ない、すると、どうしても集団保障制度が、最後の勝利者となる。

 唯物暴力革命主義が、文明国に興味を呼ばないのは、この方式が、古代ロマ時代のそれより、何ら進歩していないからである。利己的資本主義が社会主義に劣ることは明白な事実である。だが、公共資本主義の形態を進化させて、生産を高め、分配の度を高めてゆけば、破壊的共産主義より、富の程度は高まる。社会主義英国の労働者は、資本主義米国のそれの六分の一の賃銀しか受取っていない。富だけで計算するならば、そういうことになる。マルクスレーニンの誤謬はそこにある。富の程度が、人間の幸福の全部ではない。人格、労働、生命の尊重が社会主義の根本で、富や収入が、その基礎ではないはずである。

 では、唯物独裁国家のロシアに、この三者が尊重されているであろうか? 私は否と云う。愛と自由の無いところに真の解放は無い。唯物主義ロシアの解放は、囚人的奴隷国家への退却である。集団保障制度をすら否定する暴力独裁主義に、何の解放がありうるか? 世界連邦への途は経済力を背景にしなければならないが、それは同時に、人格と、労働と生命をも解放する運動でなければならぬ。それは連帯意識性を基礎にする連邦運動であり得るが、独裁主義による世界国家ではあり得ない。  (一九五一年八月号)

  平和意識の覚醍速度

 種族間の戦争が、交通の発達と、互助意識の発達によって終息した。そして、近代機械文明の進歩は、国家競争を誘致し、国家内の宗教戦争は終息した。それが、近代資本経済の発達により、階級争闘の力説により新しく、暴力革命の必要をとくものが現れ、一たん終息していた国家内の統一性が信用されなくなった。或者はそれを世界戦争にまで拡張するようになった。とは云え一歩、一歩、平和意識が世界的になりつゝあることは、疑えない。それは暴力革命主義者の陣営内においてすら、平和主義を主張するものができたことを見ても、よくわかる。

 平和意識の覚醒には、各種の条件がある。第一は人間の交流および連絡の機関の発達とその速度、第二は教育制度の進化、第三は人類連帯意識性の覚醒――これは生理組織、心理組織、宇宙連帯意識即ち宗教意識の漸進的覚醒である。近代における文明国内部の民主主義の発達は、主として通信、交通機関の発明と、教育制度の著しき普及の速力に順応している。だが、最も遅れているのは心理的、宇宙的への覚醒である。で、飛行機と電波による交通が、地球を一日の中に一周しうるまで進歩し、言語が統一される日が来て、宇宙意識世界意識が諸民族に覚醒される時、世界平和は、無理しなくとも必然的に維持できると思う。それは独裁制度や、経済的圧迫では来ない。むしろ互助友愛、忍耐互敬の個人道徳が、国家道徳と化する日に、平和は容易に実現する。それは発明と教育と、精神的要求の三部曲によって構成されるであろう。暴力革命に対する昂奮と国家戦争は、生命の浪費と資本の浪費の為めに発明力を遅延させ、教育制度を停止し、ひいては精神的覚醒を遅らせる結果をうむ。

 平和の要求は、平和意識を持つもののみ為すべきである。内部に唯物的暴力の刄を秘めて、外に柔和を装う羊の群のまねをしても、平和を招くことはできない。平和は心理的発明、教育革命の発明、精神革命の速度と平行する。それは、断じて唯物的な暴力的唱道によって来るものでないことを理解する必要がある。  (一九五一年九月号)