安全保障と世界警察

  安全保障と世界警察

 軍隊と警察の差は、裁判過程を経るか否かにある。軍隊は秘密に行動し、警察は公然と行動する。軍隊は攻撃を意味することがあり、警察は防衛のみを意味する。両者とも強権を使用するが、軍隊は、人格社会の連帯的意識を背景として持たず、暴力国家を暴力的に処断する意志をもつ。

 世界警察は世界裁判所を背景として成立する。とかくの批評はあるが、国際連合は、世界連邦国家への過程的飛び石であり、階梯であることは否むことは出来ない。加盟諸国家の決議によって行動している裁判行為を背景に持っている限り、国連軍は旧式侵略的軍隊或は独裁国家の軍隊と区別することができる。軍隊なき日本に、中共やロシヤの侵略を恐れている者のあることを見てもわかるが、中共やロシアの軍隊が、決して、世界の世論を背景として動くのではなく、レニンの暴力国家論を背景として動いていることが、よくわかる。

 無産者の解放は非常に結構である。しかし、その解放を、社会組織の意識的道理に置かずして、盲目的暴力行為に据えんとするところに、レニン主義の欠陥がある。社会の組織が暴力の上に依存すると考える古代ロマの暴君が考えるが如き法理学で貫かんとする所に、レニンの社会学の根本的誤謬がある。私は、真の社会は意識的結合そのものにあるのであって、武力や暴力によって破壊し得ない宗教的団体の如きものが、真の社会の模型であると考える。で、軍隊は警察制度に置換えらるべきだと思う。で、日本の将来は、世界の軍隊を全廃して、世界警察制度を発展せしむる外交政策をとり、世界の安全保障を全世界的に、意識的に、世界裁判を通じてなすべきものと思う。日本は新憲法第九条を世界的に高める覚悟を持つべきである。  (一九五一年十月号)

  ヒュー・プライス・ヒューズの思い出

 英国のキリスト教会は、ジョン・ウェスレーの感化をうけて、その運動が労働階級と農民層とへ惨みこんでいった。モルガン・フィリップスが、英国の社会主義マルキシズムでなくてメソヂズムであると喝破したが、まさにその通りである。

 ウェスレーから後、二百年のあいだに、三人の著名な伝道者が出ている。それはウェスレーとバンティング。それから、いま語らんとするヒュー・プライス・ヒューズである。

 ヒューズは一八四七年に生れ、一九〇二年に五十五歳で死んだ。ウェールズの人である。彼はアーサー王で有名なウェールズの旧都マカーデンに生れた。祖父は有名な博愛慈善家で、ウェールズのセント・フランシスと称された。父は外科医であった。ヒューズはロンドン大学に学び、一八六九年に卒業した。かのモーリスが教授として、最も美しいキリスト教社会主義の神学を講じていた頃である。

 大学を出たヒューズが伝道を始めた所は、セントジェームズで、ロンドンでは比較的富有階級の住んでいる地方であった。しかし彼の宗教運動の本当の働きをなしたのは貧民窟に対してゞあった。牧師になって十三年目、エキステルに於て、会館を建てゝ在来の教会とは全く違った会館教会(インスチチューショナルチヤーチ)の運動を始めた。これは狭く教会のカラの中に閉じこもることなく、広く社会一般を対象とする革新的宗教活動であった。

 ついで一八八七年、セントジェームスにも会館が建ち、次々に各地に設けられていった。いま英国では、メソヂスト派だけでも四十あまりの会館教会があり、各地とも「セソトラル・ホール」と呼ばれているが、その創始者はヒューズである。

 彼は貧民窟に住んだのではなかったが、この会館教会の働きによって、労働階級に伝道し、従来の教会の様相を全く一変させてしまった。一方、一八八四年(明治十七年)から十九年間「メソヂストタイムズ」を発行して社会的キリスト教を説き、その熱烈犀利な論鋒は、全英に鳴り響いた。五十四歳で全英国自由キリスト教会の会長となり、翌年五十五歳にして死んだ。

  英国キリスト教社会主義の第二期時代

 こゝで注意すべきことは、ウェールズ人であるヒューズが、全英の思想界を風靡したことである。英国では、ウェールズ人というと一寸、下に見るかたむきがある。ロイド・ジョージのような傑物も出てはいるか、ウェールズ人というのはラテン系で、人種からいっても違うところから何んとなく下に見られている。それにも拘らず、ヒューズの名声は実に嘖々(さくさく)たるものがあり、その影響力は大きいものであった。

「個人の魂を救うばかりでなく、社会の魂を救えへ「霊魂を救うためには先ずその環境を改めねばならぬ」というのが、彼の主張であった。

 近代の英国の思想界を顧みて、その第一期にはカーライル、ディッケンス、ガスケルがあり、第二期にはゴーア、ホーランド、クリッフォードがあり、ヒューズも、また此の第二期に属するチャムピオンであった。
 彼の活動は、教会の内側におけるそれと、対社会的活動とに分けることができる。

  教会内の革命的活動

一、会員席の撤廃=英国の教会には「定席」(ピュウ)というものが 儼として存在し、金持の家族の席はチャンと定っており、座席には、その家の名が彫りつけてあり、そこに席を占有する代償として、年極めで献金をするのであるから、教会の会計上、これは重要視されていた。金持は会堂の表玄関から出入するが、貧乏人は、それを許さず、裏口から出入して、空いている別の席につくのであった。ヒューズは思い切ってこの会員席を撤廃し、ホール (会館)とした。誰がどこの席に座してもいゝことにした。

二、平信者の地位=牧師と一般信徒との権限の差は非常なもので、カトリックなどは殊に甚しいものであった。これは英国のみではない。欧州でもアメリカでもそうで、儼然たる差別があった。たとえば、祝祷は牧師でなくてはすることを許されない。(但し最もデセクラチックなノルウェーでは、そんな区別を設けず、誰でも祝祷をやっているが)。これを最も革命的に扱ったのがヒューズで、誰でも祝祷をしてよいことにしてしまった。

三、婦人の地位=アメリカでもそうだが、英国では殊に婦人の地位が低い。女は牧師になることが出来なかった。それを婦人に牧師となる資格を与えよと最初に言い出したのが、ヒューズであった。これに対し、論敵のワトキソンやリッグスが猛烈に反対した。婦人参政権を最初に唱えたのもヒューズであった。

四、合同運動=プロテスタント内部の合同を唱えたのもヒューズであった。そのためメソヂストは米国では約十八派あるが、英国ではプリミチーヴと、ウェスレリアンと自由メソヂストの三派となっている。

 次にヒューズの対社会的活動をみると、彼はキリスト教社会主義の立場から労働問題、貧民窟問題、純潔闇題、禁酒問題、婦人参政権問題、教育問題の各方面にわたって、広汎な革命的な大活動を実践した。

  彼の社会活動

 今の日本の状態が、あまりにもよく、六、七十年前の英国に似ているので、彼の活動は大いに我々の参考とすることができると思う。

 禁酒 ヒューズは始めから禁酒を叫び、教会員は、当然禁酒して禁酒運動の先登に立つべきであるとした。ワトキンソンやリッグスは此れに反対し、教会員が酒を飲んでもよいとした。ヒューズは飽くまで厳正禁酒を唱え、青少年を主とする禁酒運動を組織した。十九年間メソヂスト・タイムズに拠って、キリスト教倫理の立場から禁酒を唱道した。メソヂストは、今でも英国に於て非常に強い禁酒運動者である。

 純潔 戦争が起るたび純潔問題は悪くなる。英国ではインドを征服したとき、軍隊に娼妓を許したことから、公娼がはびこり、風教を害すること甚しいものがあった。そこでリバプール大学校長夫人ジョセフィン・バトラー女史やステッド氏が、公娼廃止の猛運動を起したが、教会としてこれを応援したのがヒューズであった。この運動は一八八六年、遂に成功して公娼は禁止された。日本では現在、もとの遊廓は全部復活して、風教を乱すこと甚しく、為めに犯罪率の激増をもたらしている。

 貧民窟改良 今では英国は労働党内閣の政策として、どしどし貧民窟を改善改築して、労働者の住宅に変えているので、全く面目を一新し元の姿はなくなっているが、ヒューズの頃は、最もひどい時代で、かの「暗黒のアフリカ」になぞらえて、救世軍大将ウィリアム・ブースが「暗黒の英国」を書いた時代であった。ヒューズはセント・ジェームスのセントラルホールから、激しくロンドン市会に叫びかけ貧民窟の改善を迫った。

 当事の内閣は自由党首領のグラッドストーンが首相で、ヒューズとは親友であったので、彼の意見を容れ、これを採用して、次から次と、その提案を入れて実際の政策に現していった。

 労働問題 当時は、まだ労働組合法がなくて、資本家の勝手放題が行われており、これに対抗してゆくには、最も困難な時代であった。ヒューズは教会の献金が減っても構わない、敢然資本家の非を鳴らし、その迷蒙を醒ますため、勇敢に戦った。その頃のキリスト教会会員は、主として小商人が中心であった。由来、英国のメソヂストの運動は炭鉱夫、及び農民層に本拠をおいたが、ヒューズに至って、さらに、それが労働組合にひろまり、ブリストルのキングスウッド(炭坑)、ニュカッスル・オンタイン(炭坑)、それと中央部の農民層とがメソヂストの三拠点をなしている。殊にウェールズは全面的にメソヂストで、今も八〇%以上がメソヂストであるといってよい。それで最初に炭坑夫から代議士となった人もメソヂスト信者であり、今だにメソヂストの人物が次々に炭坑の労働組合を牛耳っている。

 労働党代議士は三百二十人いるが、そのうち八十五人がメソヂストであり、それも大概は労働組合または協同組合、農民層の代表である。その次が長老教会、バプチティスト、組合教会、それから聖公会の人々となっている。さればこそ、モルガン・フィリップスが、「英国社会主義はメソデズムである」と叫んでいるわけである。

 かくの如く直接労働階級の為めに戦い、矯風問題の為め戦ったヒューズは、また真ッ正面から競馬に反対した。これは大切な事で、今の日本で競馬、競輪の廃止は、ぜひやらねばならない目前の大問題である。主人が競馬競輪に血道を上げているため、家で悲嘆煩悶のあまり気狂いのようになっている気の毒な細君が、どれくらいあるか判らない。

 アイルランド自治法案の闘将として有名なパーネル大臣が。たまたま離婚問題から閣僚たることの進退について問題が起ったとき、首相のグラッドストーンは、その才幹を惜しみ、選挙区民がよいと言っているのなら彼を容れても良いではないかと、許そうとした。然るにヒューズは、断乎としてこれに反対し、少しも仮借するところがなかった。

「政治は道徳である、道徳なき政治ならやめた方がよい」と講壇から叫び、メソヂストタイムズで強く筆誅した。あまり論評が劇しいので、グラッドストーン首相は、とうとう降参してパーネル大臣を罷免した。ヒューズの論評が激しいので遂にこうなったのだと、パーネル自身も、そのことを彼の手紙の中に書いている。

 ボーア戦争のときヒューズは、奴隷解放を望むあまり、それが奴隷開放の為めになるならという理由で、時のチェムバレン内閣の方針を支持した。友人のキーブルは、メソヂスト・ウィークリ誌に拠って、戦争を非なりとして劇しくこれと論争した。或るものはヒューズが変節して帝国主義戦争を支持したと酷評したが、これは当時、オランダがトランスバールの植民地で奴隷を使っていたのであり、この戦争によって奴隷開放が成就すると考えたヒューズの人道主義的立場からの立論であった。

 今回の英国旅行で私は、ウェールズにゆき、カマーデンを訪れ、今さらの如くヒューズの感化の深く大きいことを思い、感銘の禁じ得ぬものがあるのであった。  (一九五一年十一月号)