日本の安全保障と世界連邦運動

  日本の安全保障と世界連邦運動

 日本の安全保障の問題が、議会で、やかましく討議されている。生存競争に力をいれると貝殻の様になり、発展は止まってしまう。スペインも、ポルトガルも、オランダも、イギリスも、十六世紀以後、植民地戦争に力を入れたものは軍事費に国力を消耗し、その多くは衰退の一路を辿っている。

 世界連邦は、共栄共存を世界的に広める運動である。世界連邦が出来れば、移民問題も、原料問題も、お互に好意をもって相議し、好意をもって助け合いをすればよいのである。共産主義が闘争に力を入れ、武装国家を必然的と考えるならば、武装形体は、それ自身人民のエネルギーを消耗し、ローマ共和国の衰退と同一過程をたどるであろう。ロシヤ的強制労働は生産能力を低め、警察制度のもとに奴隷制度を復活させる。

 日本の復興は、人体の如く骨格を中にして、やわらかき肉体を外部につければよい。脳髄でさえ、頭骸骨の上に毛を植えている。「外柔内剛」であればよい。鉄より強いものは蛋白質の結品体である。科学の発明なくして真の防衛力などはない。日本は発明と発見に力を入れて、科学的に防衛する事を考えるべきである。「いか」が、すみを出して防衛力を持っている如く、日本も「みゝず」や「ひる」のまねをして。しかるべきであると思う。安全保障は世界連邦の警察制度に重点をおき、シベリヤの馬が狼の来襲にそなえている程度の「ひずめ」の結集力で、満足すべきだと思う。

 世界の馬が滅亡しない如く、日本も亡びる心配はない。  (一九五二年三月号)

  徴兵制度と世界連邦

 徴兵制度を青年に強制することは、古代においても、中世期に於ても無かった。徴兵制度が古代に行われていたものを奴隷制度と云い、中世期に行われていたものを「徴発」と云った。

 徴兵制度は、フランス革命と共にやってきた。それは民主主義という美名と共に現れた最も強制的な組織である。古代及び中世に於ける宗教は、僧院に這入れば殺人的軍事から解放されたものとして、戦争に行かなくてもよいことになっていた。ジョン・ウィクリッフのロラード運動は、「戦争反対」の主旨を十四世紀の英国に徹底させた。それに賛成したオルドカッスル伯は、英王から死刑に処せられた。これは伯爵だからやられたので、修道僧は戦争に行かなかった。それが、民主主義と称する不道徳の是認が暴力を民衆に強迫することになったのが、近代戦争である。

 だが、これは一国のことである。世界人が、凡て戦争したくない。徴兵制度など、つまらぬと議決する時代が来た! それが「世界連邦時代」である。世界の人民の一人一人が――国家を越えて、一致する時代が来た。ラジオも、テレビジョンも、ロケット飛行機も、原子爆弾も、それを我らに強制する。

 世界が一つであると云う新しい強制に応じて、我らは、戦争以上のよき方法があることを発明した、それは極力であり、互譲であり、暴力なき親和が、文明の母であると云うことの発明である。一国民主主義が徴兵制度を強制するならば、世界民主主義は、戦争を無用の長物として強制する。  (一九五二年四月号)

  世界警察の誕生と武力主権の制限

 アメリカ議会に於て、日本との平和条約を批准するに際し、超国家的の国際連合の軍隊に反対する声が、非常に強かった。彼らは、これをアメリカ主権に対する超国家的方向として反対した。国際連合を指導して来たアメリカ議会に於てすら、世界憲法の誕生を喜ばないこと、かくの如きであるとすれば、遅れた他の国が、まだ世界連邦意識における目醒めの如何に遅れているかが想像できる。

 これは八十五年前、日本の大名が、明治政府の誕生を恐れたのに似ている。この点に於て、日本が新憲法の序文と、新憲法第九条に於て、武装を放棄し、世界国家の新組織を予想したことは、革命的であると云わねばならない。もし日本が新憲法第九条を守り抜き得るならば、世界国家の促進を早めることは必然である。それは資本主義国家に対しては勿諭のこと、共産主義国家に対して一つの脅威である。

 たゞ現実に於て、日本が安全保障の方法を世界警察に仰がねばならぬことは、勿論である。だが、これは退歩ではなくて進歩であると、考えねばならぬ。明治維新当時、伊達藩、会津藩からみれば、明治政府の出現は大名の主権を侵略したに違いない。しかし「武力主権」の制限を覚悟しなければ、無武力国家の出現は困難である。世界警察が出来ると、世界七十余国は武力制限をしなくてはならない。世界連邦出現の為には武力制限は、やむを得ない。かくして、世界警察は生れるのである。  (一九五二年五月号)